神の愛と初動について

文字数 3,165文字

 僕の隣には白い発光体が立っている。僕にはそれが砂川絹だとわかっているが、そちらには目を向けなかった。滑空機の整備を続けながら、僕は口を開いた。
「今日は一人なんだな。監視役が交代でついていると聞いたが?」
「「学園」の人たちも私がここから出て行くつもりがないことは理解してくれたようです。監視役はいますが、四六時中ついているというわけではありません。今は自由時間と言ったところでしょうか。ところで、この滑空機はどういう原理で空を飛ぶのでしょうか? どのような原動力が働くのでしょうか?」
「航空力学の話か? そういうのは朝永の方が詳しいのだがな。でも、僕が知っている範囲で教える。空気の速度と滑空機の速度に差があるとき、要するに相対速度があるとき、お互いに力を及ぼし合う。ここで滑空機にかかる力を進行方向と平行な成分と垂直な成分に分ける。平行な成分の力を抗力、垂直な成分の力を揚力と呼ぶ。この揚力によって、滑空機は空を飛ぶんだ。今は揚力の大きさを調整するために、主翼の角度の修正をしている。科学的な立場に立つならば、このような概要を説明するだけでなく、ある数値を入力したときに、別の数値を出力する関数の説明もしなくてはならない。つまり力の量を算出しなければ科学とは言えない。けれどもそういう専門的な知識は朝永に聞いてくれ」
「英さんは天体の運行から、人間の挙動まですべての原動力となっている力のことを知っていますか?」
「現代物理学では四つの力が確認されている。重力、電磁気力、強い力、弱い力の四つだ。よって四つの力に関する理論が存在する。現代物理学ではすべての力を説明する、統一理論は組み立てられていない」
「私は物理学の話をしているのではありません。第一の愛の根源の話をしているのです。汲みつくせない愛の泉はすべての運動に初動を与えます。宇宙のすべての天体の運動も英さんが滑空機の整備をする運動も私たちの父の愛に支配されているのです。愛こそがすべての運動の原動力です」
「その論法で行くと、僕たちは砂川の言う愛とやらによって支配されていて、その力に従うしかない。それは運命論だ。僕たちの人生の運動はすべて、宇宙が創造されたときから決まっている。僕とお前がこの屋上で会うことも、愛の光源体によって予め決められていた」
「それは違います。私の言葉が足りませんでしたね。第一の愛はあくまでも、すべての運動の初動です。一度、動き出した運動の舵を取るのは私たちの自由意志です。天の玉座に座る父が、人間と父の似姿に与えた最大の恩寵は愛ではなく、自由意志です。私たちは自由意志を善に従って行使する義務があります。第一の愛の光源が太陽だとするならば、私たち人間は月です。人間は第一の愛の鏡と言い変えてもいいですね。私たちは受け取った愛を反射し、第二の愛として俗世を照らし出します。その第二の愛こそが人間の愛であり、自由意志に一致します。私たちはまったく自由意志によって生きているのですよ。ところで、英さんには第一の愛と第二の愛の決定的な違いがわかりますか?」
 僕はわからない、と正直に言った。
「二つの愛の違いはその方向です。第一の愛はすべての方向に向かいます。つまり放射されているわけですね。一方で第二の愛はその方向性を限定します。ここに人間の愛の愚かさがあるのです。第一の愛は放射されるゆえに、そこに制限はなく、無限です。それゆえに世界の始まりから終わりまで、すべての運動の初動を司ることができます。ところが人間は愛に制限を設ける。例えば、一人の男が一人の女性だけに愛を向けたとします。その愛は限定された愛であり、その二人だけの閉じた世界となります。第二の愛はその狭い世界だけに作用を及ぼし、その外側には一切の原動力を与えません。これは個人の自己内面への埋没の一形態です。この閉じた世界をロマンチズムと呼ぶ人間もいるようですが」
「第二の愛、つまり人間の愛が特定の方向性を持つことはわかった。しかしその方向は善に向くかもしれないし、悪に向くかもしれない。一概に第二の愛を人間の愚かさと言うことはできないのではないのか?」
「英さんの言うとおりです。私たちは第二の愛を善の方向に向ける義務があります。そのために私たちは生まれながらにして、理性と倫理を持っているのです。この二つが人間を善へと導きます。ところが人々は至高天を忘れ、俗世の欲望にばかり気を取られているせいで、理性と倫理は曇った鏡となり、悪の方向に愛を向けるのです。悪徳に愛を向けた人間の末路はあなたも知っているでしょう。そして何よりも悪いことに、その人だけが地獄に落ちるのではなく、周りの人間も巻き込みながら裂けた地に飲み込まれるのです。人間が発するものは愛だけでなく、悪意もその一つなのです」
「第一の愛の放射とやらは、僕には理解ができない。しかし悪意の放射とやらは気に入った。悪意を放射する存在など、この世で人間だけだろう。悪魔だって、悪意を向ける方向は決める。僕からも悪意は放射されている。その中にはもちろん、砂川、お前も含まれている」
 そこで砂川は前のめりになった。そのために顔だけが影になり、ようやく表情が見えた。砂川は処女らしい無邪気な微笑を湛えていた。
「英さんは第二の愛をすべてこの滑空機に向けてますよね。英さんの世界はあなたと滑空機の二つだけで完結しています。この滑空機は本当に飛ぶんですか? 滑空機によって、隣人に作用を及ぼすことはできるのですか? あなたの愛は自分の外側の世界を動かし得るものですか?」
 砂川の詰問はあくまで優しい調子で行われた。それは軟泥の中から浮き上がってくる気泡のように柔らかいものだった。
 僕はこの女を徹底的に叩き潰すことにした。
「アダムとイヴは善悪を知るの木の実を食べたことにより、エデンの園を追放された。そして人類はその原罪を背負い続けることになった。しかし第一の愛の放射体である父は恩寵として子をこの世に生み出した。聖母のもとに大天使ガブリエルを遣わすことによって。そして子は磔刑に処され、全人類の原罪を贖った。この犠牲により、人類は愛の根源への経路を取り戻した。人類は第一の愛を受け取り、第二の愛の照り返すことができるようになった。ところで砂川の立場はまるで父なる恩寵の子と同じだ。お前は「学園」と「町」の経路を作り得る存在だ。お前はどのような犠牲となって、僕たちの罪を贖う? 生まれながら人間として欠落した罪を?」
「私はそのように高尚な存在ではありません。あくまで「町」から「学園」に連れてこられた、平凡な女です」
「平凡な女ね。それはお前がそう思っているだけで、周りの人間はそのように考えない。砂川は「町」を支配する教会と労働組合に深い関係がある。お前だって、そのことは意識的にしろ、無意識的にしろ、感づいているはずだ。お前がどのような処遇を受けるかによって、「学園」と「町」の関係性は決定する。お前はキリストと同じ立場に立ち、愉悦を覚えている」
「このような卑しい場所で、子の名前を出すことは止めてください」
 砂川は首を捩じり、僕の前で初めて感情を露わにした。
「卑しい場所ね。お前は昨日、「学園」は教会の影響を受けない空白地帯だと言った。しかしそれは上っ面の言葉で、今の発言が本心なのだろう。僕としては砂川が父なる恩寵の子と自分を同一視することは構わない。ただ僕はお前が死んでくれれば満足だ。お前は生贄の立場に自己満足している。お前は第二の愛を他人に向ける人間ではなく、自分に向ける人間だ」
 僕の糾弾にこれ以上、砂川は言葉を返さなかった。再び白い発光体となり、風景に溶け込み、屋上から消え去った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

桑江英(くわえはなぶさ)

「町」から精神的に欠落していると判断され、「学園」に収容されている青年。
自分の存在を確認するために設計上飛ぶことのできない滑空機の組立と解体を繰り返す。
物事を唯心論的な方面から解釈する癖がある。

朝永夏子(ともながなつこ)

「学園」の生徒の一人。
現代物理学に精通している。
量子力学が専門で、相対性理論と散逸構造論にはそこまで言及しない。

砂川絹(すなかわきぬ)

「町」を支配する教会の修道女。
「町」に対抗を試みる「学園」に人質として誘拐される。
宗派はカトリックで、特にトマス・アクィナスに傾倒している。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み