第2話 下町の秋鯖

文字数 2,180文字

 暖簾を潜る時に店の看板が目に入った。
「小料理 まさや」
 と入り口の脇の小さな木の板に書かれてあった。「まさや」というのは恐らく店主の名だと柳生は推測した。
 店内は明るく、余計な装飾が無く掃除が行き届いて、衛生的な感じがした。カウンターが七席。四人がけのテーブルが三つという小さな店だった。カウンターの中には三十代後半と思わしき男女が並んでいた。恐らく夫婦で切り盛りしているのだろうと思った。
「どうするカウンターに座るかい?」
 贔屓の客の言葉に頷く。他に客は居なかった。未だ早い時間なので勤め帰りに寄るには間があった。
 贔屓の客が店主に
「今日は何がおすすめなの?」
 そう尋ねると店主は
「今日は秋鯖ですね。良い真鯖が入りましたから」
 そう言って笑みを浮かべた。良い素材が手に入った事を純粋に喜んでいる感じだった。柳生はその様を見て贔屓の客が自分をこの店に連れて来た理由が理解出来た。
 一流は一流を知ると言うが、柳生には店主の腕が優れていると直感したのだ。
「その鯖ですが、何が旨いですか?」
 柳生は直接店主に問いかけた。すると店主は間を置かず
「そうですね。たっぷりと脂が乗っていますから、単純な塩焼きでも行けますし、味噌煮にしても良いですね。今日のは鮮度が良いので〆鯖で食べても良いですよ」
 店主の言葉を聴いて柳生はそのどれもを食べたくなった。そこで贔屓客に耳打ちをした
「三つとも食べたいのですが駄目ですかねえ」
 客は一瞬ギョっとしたが直ぐに笑みを浮かべ
「いや~さすが食道楽の師匠だ。わたしも同じものを頼むとしよう」
 そう言って店主に三つとも出してくれるように頼んだ。出す順番は店主に任せた。
「師匠、こちらの主は雅也さんと言って、以前は一流の料亭で花板をしていたんだ。雅也さん今日連れて来たのは、わたしが贔屓にしている落語家の」
 贔屓客がそこまで言った時に店主が
「秋萩亭柳生師匠ですよね。何回か寄席や落語会で拝見したことがあります」
 そう言葉を繋いだ。
「何だ知っていたのかい。それはそれは」
「落語好きなら知っていますよ」
「そうか。そうだな」
 そんな会話の合間に二人に出されたのは鯖の塩焼きだった。深緑の皿の上でジュウジュウと音を立てていた。脇に真っ赤なはじかみ生姜が添えられていた。
 柳生はまさか一番最初に塩焼きが出て来るとは思っていなかった。最初は、さっぱりとした〆鯖だと思っていたのだ。
「塩焼きですか」
 驚く柳生に雅也は
「まあ食べて見て下さい」
 そう言って相変わらずニコニコしている。言われた通りに箸で身を摘んで口に運ぶ。鯖の濃厚な脂が口に広がる。香りが鼻に抜けて行く
「これは旨い! 塩加減と焼き加減が完全にマッチしていて鯖の旨味を余す所なく出している」
 意識していた訳ではなかったが、思わず口に出てしまった。
「師匠、凄いだろう」
 贔屓客の言葉に頷くだけだった。瞬く間に塩焼きを平らげてしまった。
「この塩焼きを食べれただけでも来た甲斐がありましたよ」
 柳生がそう言うと贔屓客が
「驚くのは未だ未だだよ」
 そう言って口角を上げた。その次の瞬間二人の前に少し大きめの小鉢が出された。中には大根の妻と大葉の上に〆鯖が乗せられていた。〆鯖が二番目に出された理由を柳生は考えていた。その様子を見て
「師匠、動かすのは頭じゃなくて口だよ」
 贔屓客に言われて我に返る
「そうでした」
 慌てて山葵を乗せて〆鯖の切り身を醤油に着けて口に運ぶ
「ん!」  
 これも鯖の濃厚な味が口を襲う。だが酢の味が先程の塩焼きの脂を口から落として行く。そして新しい味が登場するのだった。それは鯖本来の旨味であり誤魔化し様の無い味だった。
「そうか……だからこの順番なんだ」
 柳生は腑に落ちた感じだった。最初が塩焼きで鯖の脂の旨さを味わう。次に〆鯖で最初の脂を落として本来の旨味を味合わせる。では最後の味噌煮は何なのだろう。期待せずにはおられなかった。
「料理のコースでも天ぷらの後に酢の物なんか出す所もありますからね」
 店主の雅也はそう解説をした。そして、最後の味噌煮を深目の薄い青い皿に乗せて出してくれた。皿の青見に味噌煮の茶色。その上には針生姜が黄色に輝いて立っている。素直に綺麗だと感じた。食べるのが勿体無かったが食べなければ話にならないので箸で崩して口に運ぶ。
「……」
 言葉が出なかった。味噌の濃厚さが鯖の味に負けていない。それでいて鯖の旨味を更に引き出す仕掛けがしてあった。
「柚子がたっぷりと入っていますね。それが隠し味ですか?」
 柳生はそう言って雅也に尋ねたが彼の答えは違っていた。
「柚子は鯖の臭みを感じさせないように入れてあります。本当の隠し味は葱なんです」
「葱ですか」
「はい、味噌のタレに生姜と葱を軽く炙っておいてから鯖を入れる前に入れるのです。最初から入れると生姜は兎も角、葱は甘みを出し切ってしまって隠し味になりません。タイミングが大事なんです」
 柳生も独り身なので家で料理を作るが鯖の味噌煮に葱を入れるなんて初めて聴いた。料理も奥が深いと感じた。
「どうだい師匠。来る価値のある店だろう」
 贔屓客が得意そうに鼻を動かした。
 この後、柳生はこの店の常連になるのだった
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