プロローグ

文字数 2,565文字

 彼女の祖父は戦時中の栄養失調がもとで片眼を失明した。盆や正月などに祖父に会うたび、彼女はその片眼をじっと見つめることがあったが、正常な世界を映す眼は彼女も持っていなかった。それはいつからだったろう、と彼女はよく考える。

 夕ぐれをふたりは歩いていた。葉月(はづき)七枝(ななえ)。彼女たちは高校の同級生だ。
 七枝にとって葉月は狂人であり、大切な友だちだった。クラスの誰にもいいふらさないのはそのためだ。
 葉月にとって七枝はかけがえのない理解者であった。それは間違いだった。
「たとえばさ、窓の外を女性が落ちていったり、木の枝におじいさんが腰をおろしていたり、車椅子で男の人が校庭をぐるぐるまわっていたり、それと──いや、外だけじゃなくて、教室にいることもあるし、廊下にも……。
 そりゃあさ、よそ見くらいするのはしかたないじゃない?」
「まあ、注意するのも先生の仕事だからね」
 ならんだ雲が緋色にそまっていた。
 空にとどまらず光は地上に広がっていき、街路樹、工事中の家、マンション、電柱、行きかう車、公園の遊具、あらゆるものを照らしていた。
 葉月の眼にしか映らない人々にもそれら同様に影はあった。外見に異質なところはなかった。
「普通の人と間違えたりはしないの?」
「それはないよ。足もちゃんとあるし、空に浮かんでいるわけでもない。でもわかるの。違うな、て」
「話せるんじゃなかったっけ。何をしゃべるの、その人たちは?」
「いや、話せるっていうか……。なにいってるかはわからないのよ、これが。変な音にしか──ごくたまに言葉の断片をひろえるだけ」
「ふうん」
「認識にくいちがいがあるみたい。私にとっては意味のわからない音にしか聞こえないけど、あっちは普通に話してるつもりなのかも。なにを考えているのか、なにを感じているのか、全然わからないってのが正直なところ。昔からのつきあいなのにね。
 といっても、ずっと見つづけている相手とかはいないんだけどさ。大体は一度きり。いたと思っても、少ししたらいなくなる。いれかわりたちかわりに別の人が出てくるけど。
 ずいぶん昔の人もいるのよ。カーキ色の服を着ていて……ほら、戦争のときのやつ。
 ──テレビに出ている霊能力者? さあ。私にも本物なのかインチキなのかなんて、わからないよ。
 うん、そうなの。共通性とかは感じたことなくってさ。もしかしたら全員が本物なのかもしれないね。みんな、まったく違う世界、違う霊を見ていたりして」
 ちりんちりん、と後ろからベルの音が鳴った。
 ふたりが道をあけると、こんもりとした黒い鞄を背負った男が自転車をこいで通りすぎていった。
 小学生くらいの男の子が三人、自転車とすれちがいに走ってきた。その後ろから苦しそうにランドセルを四つかかえた男の子が「待ってよぉ」と叫んだ。手ぶらの三人はくすくす笑いながら無視して走りつづけ、荷物持ちの男の子は体を重たそうに揺らしながら泣き顔で追いかけていった。
 公園にほど近いその道をふたりはゆっくりと歩いていった。
「──いまのさ」
「ん?」
「いま、通りすぎていった人たち。それ以外の人も見えたの? 葉月には」
「え? ……うん。自転車にぶつかりそうでもうつむいたままのおじさんと、走っていく男の子に嬉しそうについていく女の子がいたよ」
「──あふれてるんだね、どこにでも」
「そうだよ」
 それっきり考えこむように七枝は黙ってしまった。
 葉月は少し不安になる。
 葉月は七枝を信頼しきっていた。
 まわりになじめないとき、クラスで孤立しているときに声をかけてくれたことから。思いがけず自分の秘密をもらしてしまったときに、斥けたりせず優しく受け入れてくれたことから。そんな親切とも関係なく、一緒にいるうちに彼女の言葉やしぐさに自然に好意がわいていたことから。
 それでも不安は残った。
 自分の眼にしか映らない人々のことを、葉月はわからないといった。けれど、こうして隣で歩いている友だちが胸のうちで何を考えているのか──それだって、わからないことに変わりはないのだった。
 ふたりはバス停に辿りついた。
 和服を着て風呂敷包みを手にさげた壮年の女性と、イヤホンを耳にはめてポケットに両手をつっこんだ若い男が立っていた。
「じゃあ私、(たまき)さんのところに行くから」
 七枝がいった。環は七枝の知り合いで、相談相手でもある年上の女性だ。
「──私も行っていいかな」
「え?」
「久しぶりに、環さんと会いたいし」
 環と葉月には面識がある。葉月が思っている以上に、環は葉月についてよく知っていた。七枝の相談によって。
「──うん、いいよ。環さんも喜ぶと思う。帰りは車で送ってくれるから。──あっ、来たみたい」
 バスが停車し、ぱたん、と扉が開いた。待っていた人たちが乗りこんでいく。
 ふたりも乗りこみ、座席にすわった。葉月は窓側だった。
「あ──」
 バスが走り出すときに葉月が小さく声を上げた。その眼はいま発ったばかりの誰もいないバス停の方に向けられている。
「……何か見えるの?」
「うん。子ども。小学生──いや、中学生くらいかな。……六人いるわ」
 カーブを曲がり、バス停は姿を隠してしまった。
 それでも葉月は名残惜しそうに後ろを振り返っていた。
「気になるみたいね?」
 七枝が訊いた。
「ちょっとね。──さっきさ、霊能力者の話、したじゃない? 銘々が違う世界を、てやつ。あれさ、見られてる方にも当てはまるかもしれないのよね」
 そう語る葉月を、七枝は注意深く、観察するようにじっと見ている。
「そばにいるのにどちらも相手に気づいてないように見えることがよくあるの。近くに仲間がいることも知らずに立ちすくんでいる、そんなふうに。あの人たちはほとんどがひとりぼっちなのかもしれないね。
 ──でも、さっきの六人は仲がよさそうだったわ」
 葉月は淡くほほえんでいた。七枝には病的なものに映ったが、それは郷愁の笑みだった。
 小さなころを思い出したのだ。先ほどの六人よりももっと幼いころを。他人には見えない人々にわずらわされることもなく、遊びに夢中で、なにもかも晴れやかに感じられたころを。
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