終わりを告げる腕時計

文字数 1,797文字

 三十五回目の誕生日を迎える一週間前に、私はある人から腕時計をもらった。それはシンプルな作りの腕時計で、茶色の革ベルト、薄いピンクの文字盤、回りの部分は少し曇っている銀色の金属製。秒針はなく、短針と長針が進行形で時を刻んでいる。
 きっと高価なものだろう。私でも知っているブランドのロゴが文字盤の隅っこに控えめに彫られていた。私には、いささか不釣り合いな腕時計だった。
 でも、嬉しい。あの人から貰えたんだから。たとえそれが不倫の間柄でも。
 もう長いこと、私たちは肉体的な関係を含めて、お互いを求め合っていた。向こうに奥さんと子供がいることも承知の上。私だって、旦那と子供がいる。はじめは罪悪感もあったけど、ある日ふと思ったの。一体、何がいけないんだろうって。私たちは、決してお互いの家庭を干渉しない。また、完全に二人になることも求めていない。それが嘘なのは分かっているけど、どうしようもできない。
 本当は、一緒にいたい。子供と、あの人の子供と、そしてあの人と。
 それにしても、素敵な腕時計。私の好きな色、デザイン、雰囲気、カタチ、全てが詰まっている気がする。さっきからずっと眺めていても、全然飽きない。そしてこの時計、面白いことに蓋が開くようになっている。一体何のためなのかは、さっぱり分からないけど、この意味のなさそうな機能も、まるで私たちの関係性に似ていて、私は一層この時計が好きになった。
 だけど、つけられない。こんなにも素敵なのに、腕にはめられない。夫に怪しまれてしまうから。
 そういえば、どうして腕時計なんだろう。いつもは、夫に怪しまれないモノなのに、今回に限って腕時計だなんて。私、あの人のこと分かっているようで、何も分かっていないのかもしれない。前に離婚の話をしたことがあったけど、そのときの、彼の驚くほど焦ったあの表情。まあ、私も冗談のつもりだったからいいんだけど。
 でも、彼は本当は、この関係を終わらせたいのかもしれない。
 そう思うと、胸が苦しくなる。切ないほどの悲しみと、惨めなほどの嫉妬と、多少の憎悪が苦い唾液となって、私の胃を溶かそうとする。ああ、苦しい。考えたくないけど、考えてしまう。考えてしまうのではなく、考えたいのかもしれない。あの人の気持ちと、私の本心を。
 私は嘘つきだ。両親に、夫に、親友に、自分の子供にも嘘をついている。いや、もっとついている。あの人にも、そして私にも、私という人間はたくさんの嘘をついている。
 私の本心はどこにいったんだろう。私は一体、どうしたいのだろう。どうしてこんなに苦しいんだろう。おそらく私は、終わらせたいのだと思う。でも、何を?
 いつまでも終わらない家事に追われて、まったくいうことを聞かない子供の相手をして、少しも私のことを考えてくれない夫の世話をする。毎日が徒労。いつか、この苦労が報われるのかしら?
 最近、子供が虫取りにはまっている。よく家に持ち帰ってくるのだが、私には我慢できない。虫を見るだけで悪寒が走る。さらに苦痛なのは、私にそれを渡してくるときだ。悲鳴こそあげないが、内心は穏やかではない。虫唾という言葉の語源が、私にはよく分かる。
 子供がとってきた虫は、ほとんどが玩具にされ、最後に捨てられる。酷いときは、拷問のように手足を抜き取って、もがき苦しむ虫を眺めて楽しんでいる。
 この残虐性は、一体誰に似たのだろう。
 ある日、また子供が虫を捕まえてきた。
「お母さん、これ、あげる」
 虫唾が走ったが私は嘘をつかなければいけない。私は忙しい旨を伝えて、無視して家事の続きに取りかかる。
 ふと、子供が置いていった虫を遠目で眺めてみた。鳥肌が全身に逆立つ。案の定、手足がもぎ取られ、ダルマのような虫が玄関の下駄箱の上でもがいていた。
もうすぐ、死ぬ。この虫に感情があるとしたら、きっと子供を恨んで死んでいくだろう。
 私はティッシュを手にして、虫をなるべく見ないように摘まんで、リヴィングに向かうと、夫が決して開けない引出をそっと開けて、あの腕時計を取り出した。そして蓋を開けて虫を入れると、文字盤が見えないように裏返しにして元に戻した。
 長針と短針の間に挟まれていく虫。あと三十分もしないうちに体を引き裂かれ事切れるだろう。でも、腕時計の針にはそんな力はないからしら? ああ、困ったわ。でも、大丈夫よ。もうすぐすべてが終わるから。
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