投稿者:K氏(仮名)

文字数 12,451文字

「これ、先月に@LINKのサタデーナイトステージを見た後の、突発オフで撮影したんです」
 久千木(くちき)真人(まさと)はさらっと説明をした。しかし声のボリュームがやや小さい上に早口気味で、しかも意味不明のキーワードが並び、須間男はあっけにとられた。
「知らないんですか@LINK。CMにもいっぱい出てるし歌番組やバラエティ、教育番組にだって出てるんですよ。卒メンの里桜ちゃんなんか先週、主演映画で日本アカデミー大賞の新人賞を獲得してるじゃないですか。日本のトップアイドルですよ。知らないんですか?」
「ああ、あの」
 久千木が説明したとおり、アイドルグループ『@LINK』は今やメディアを席巻するアイドルグループだ。元々は秋葉原の大手家電チェーンの、本店ビルの地下でライブ活動を行っていた「地下アイドル」に過ぎなかった彼女たちだったが、大物プロデューサーとヒットメーカーの作曲家の目に留まり、メジャーデビューCDはあっさりミリオンを獲得した。
 彼女たちはメジャーになった現在でも、当番制でライブ活動を毎日行っている。地下の一角だったステージも最上階に移動し、フロアの半分がライブハウス──通称「箱」、残り半分が物販スペースとトレーディングカードなどの交換が盛んなフリースペースとなっている。ステージは基本夕方に行われているが、それ以外の時間でも、フリースペースはファンで賑わっている。時折サプライズで「卒メン」──卒業したメンバーが登場することもあるため、連日通い詰めのファンも少なくない。
 というのを、須間男はテレビの特集でちらっと見たことがあった。それでうっすらと覚えているだけで、あまり詳しくはない。風体がいわゆるオタクっぽいせいか、アイドルだけではなく漫画やアニメ、映画、音楽、サブカルなど、多方面に詳しいと勘違いされがちで、久千木もどうやらそのひとりだったらしい。
 須間男のリアクションが薄いことにやや不満だったらしく、久千木はわかりやすいほどにテンションが下がっていた。
 須間男の風体とは対照的に、ワイシャツに紺のスラックス姿の久千木真人は、どう見ても普通の社会人だった。申し訳程度に柄の入ったネクタイをゆるめ、ファミレスのソファに華奢な体を委ねている。その様は、くたびれたアラサーサラリーマンという感じだ。
 平日の昼間、長野県某市のファミレスで二十分以内、というのが、久千木が取材を承諾するに当たって出した条件だった。つまり、仕事の合間、わずかな昼食時間を利用して、ということなのだろう。彼の前には、空になったランチの皿があった。
「その突発オフですが、どういった流れで?」
「誰だったかな。ライブ明けに、これから突発オフやるけど来る人ー、みたいな声かけがあって、面白そうだったし大人数なら紛れ込んでもいいかなって」
 裏を返せば、少人数なら参加する気はなかったと言うことだ。自分で話題を振るよりも、盛り上がっているのを見るのが好きなタイプなのだろう。
「でも、参加しなければよかったです」
 久千木は先ほどよりも更にテンションが下がっていた。
「あの映像、全部見ましたか? あんな連中がいるなんて知りたくなかったですよ。ファンのトップに君臨するために他のファンを恫喝したりつぶしたり、それで箱のアリーナを独占して。俺についてくるならゆりみゅんに会わせてやるとか、チケット分けてやるとか、プライベート写真いっぱいあるけど買うか? って、入り待ち出待ちの非公式に撮影した写真を売りつけようとしたりとか……あんなの、ファンとは言えないですよ!」
 口角に泡を貯めて力説する久千木に、須間男は黙ってうなづいた。
 他に何か映っていないかを確認するために、須間男は録画開始時から完了時までの全映像を何度も見ている。その中で繰り広げられているのは、「イサッチ」という強面を中心とした派閥の自慢話と取り巻きのヨイショばかりだった。アイドルファンのオフ会という予備知識がなければ、半グレ集団の犯罪自慢にしか見えない。
 オフ会が終わり、カラオケボックスを後にしようとした久千木に、「イサッチ」が声をかけたところで映像は終わっていた。
『その動画、ネットに流したらどうなるかわかってるよな?』
「あれから小屋には行ってません。SNSのアカウントもしつこく聞かれましたが、利用していないと突っぱねました。勿論名刺も渡していないし偽名を名乗りましたし、メアドも携帯番号も教えていません。あんな連中とは一切関わりたくない!」
 久千木は怒りをあらわにし、最後は吐き捨てるような口調になっていた。
「わかりますか? 好きだったものに触れられなくなる辛さ。テレビで活躍する彼女たちの顔を見ても、連中のことを思い出して嫌になるんですよ。大好きなゆりみゅんのソロアルバムを聴いてても、あんな連中の汚い権力で会えてしまえるのかとうんざりするんです。もう僕は、彼女たちと連中を切り離すことが出来ない。純粋に彼女たちを応援することも出来ない」
「お気持ち、よくわかります」
 久千木にかけた須間男の言葉は、単なる同情からではなかった。彼自身も同じ境遇に──好きなものが嫌いになりかけている状態にいるからだった。
「ですが、お送りいただいた映像も、@LINKの映像や音楽と同様に、少なくとも一ヶ月は眠らせていたんですよね。それを改めてご覧になって、こうしてお送りいただいたのはどういう心境の変化で……?」
「動画サイトに晒してやろうと思ったんですよ。捨てアカウントさえ作れば、僕にたどり着ける人はまずいないでしょう? 連中の中には未成年のくせに煙草吸ったり酒飲んだりしてたのもいましたから、炎上しやすいんじゃないかと」
 昨今、受け狙いの悪ふざけを記録した写真や動画を自らネット上に公開したり、問題発言を行うことで、多数の人から批判を受け、あげくのはてに個人情報をネット上に晒されたり、学業や業務から退かなければならなくなるなどの、通称「炎上」と呼ばれるケースが増加している。カオスエージェンシーでも炎上を発端とした怪奇事件のDVDを何本か作成したことがある。
「連中が晒されて消えてくれれば最高ですね」
 久千木は口の端をつり上げてクククと笑った。
「でも動画をアップロードはしていないんですよね。それどころか、うちに投稿してくださった」
「結果としては同じか、それ以上になるんじゃないかと考えたんです。あんな薄気味悪い映像が映るくらいだから、きっとあの男は呪われてるんですよ。あの廃墟とハンカチ(・・・・)が、何か関係があるんですよ。きっとファンかアイドルか、どっちかによほど酷いことをしたに決まってるんです」
 ……ハンカチ?
 須間男は頭をひねった。あの映像にハンカチなんて映り込んでいただろうか?
「それをあなたたちが暴いてくれる。『ガチの怖さを思い知れ!』で使ってくれる。それだけで連中の悪行は世間に知れ渡るじゃないですか」
『ガチの怖さを思い知れ!』──通称『ガチ怖』は、千美がカオスエージェンシーに入ってから作り始めたDVDシリーズの名称だ。五作くらい続けばいいね、と社長が言っていたくらい、とりあえず作ったシリーズだったのだが、これが予想以上に人気を得て、もうすぐ三十作目になる。最近はテレビで素材として使ってもらえる機会も増えて、知名度が低いと言えば嘘になる。
 久千木が自らの手を汚さず、目的を達成するには都合がいいと言えるだろう。
「頼みますよ! あなた方なら出来ます!」
 須間男は返す言葉を失っていた。イサッチを中心とした連中と、勝手に舞い上がっている久千木の両者に、須間男は違いを見いだせなくなっていた。
 須間男はちらりと隣を見た。千美はファインダーを通して、久千木をどのように捉えているのだろうか。やはり何も感じていないのだろうか。
 千美は無表情のまま、カメラを回し続けていた。

「こいつ、馬鹿だなあ」
 久千木への取材映像を観終えた社長は、心底あきれているようだった。
「『ガチ怖』好きならさぁ、この映像も使うってことくらいわかれよ。そりゃあモザイクは入れてやるけどさぁ、それでも特定するヤツはするぞ」
「ですよねえ……」
「それに、イサッチだっけ? そいつらを排除してライブ鑑賞に復帰する気かもしれないけどさぁ、全員を排除できる訳ないじゃない。残った連中は、映像を撮影したのが誰か、たぶんすぐわかるぞ。無理無理。都合よく考えすぎなんだって」
「ですね。で、どうします?」
 須間男は社長に問いただした。もちろん、このロケハンを続けるかどうかを、だ。
「スマちゃん、このふたりと映像について、どう思った?」
 須間男の意図を知ってか知らずか、社長は質問返しをしてきた。
「どうって……」
「印象だよ印象。ファーストインプレッション」
「中埜さんの言葉には、嘘はないと思います。映像も、わざわざ作ったものではないと思います」
「なら、あの映像は〈本物〉だと、スマちゃんは思うわけだね?」
 あごひげをいじりながら、社長は須間男を見つめた。
「あれなら死角を利用すれば、僕らでもCGなしで作れますし、実際、作ってきたじゃないですか」
「まあ、ねえ。だけどそれなら、やっぱり中埜のじいさんが作ったんじゃないの?」
「連中にからかわれたんじゃないでしょうか。あの貸しスタジオ、地下アイドルのイベントにも使われているって行ってましたし、連中がそういうイベントにも参加していたなら、あの場所を知っていてもおかしくないと思います」
「なるほどねえ。で、連中は、なんのためにそんなことをしたんだろうね?」
「それは……」
 須間男は答えに窮した。あの老人とイサッチたちの間に何らかの諍いがあったとしても、あんな映像を残して、彼らに得があるだろうか。それに、久千木の映像を見る限り、彼らにはそんな回りくどい遊び心などあるとも思えない。あるとすれば……。
「……久千木さんならどうでしょうか?」
「あいつ、ねえ……」
 社長は目を輝かせた。
「インタビューの通り、彼は最初から『ガチ怖』を利用する気でした。映像の方も社長が仰ったとおり、出来過ぎています。もしかしたら貸しスタジオの方も、彼が仕込んだものかもしれません」
「もしスマちゃんの仮説通りなら、イサッチだっけ? あいつは久千木に呼び出されたってことにならないか?」
「名乗らなくても呼び出すことは可能だと思います。呼び出される側にも、後ろめたいことはあるでしょうし」
「だったらあんな場所にひとりで来るかな? しかも不法侵入だよね?」
「それは……」
 再び、須間男は答えに詰まった。
「なんてね。オタク君が胡散臭いってスマちゃんの意見には俺も同意するよ」
 社長はにっこりと笑った。
「それで、彼の言ってたハンカチって、何?」
 社長の質問を受けて、千美はマウスを操作した。モニタに表示されたのはいつものフォルダではなく、本格的な動画編集ソフトの画面だった。千美はキーボードのショートカットを駆使してファイルを選択すると、プレビュー画面に久千木が撮影したオフ会の動画が映し出された。
 千美が更に操作すると、プレビュー画面はブロックノイズが入る瞬間に切り替わった。そしてゆっくりと動画が再生される。ブロックノイズが次々に変化し、やがて廃墟が映し出された。映像同様にゆっくりと、『つぎはあなたのばん』という声が再生される。声が終わると再びブロックノイズが画面を覆う。ゆっくりとそのパターンは変化していき、血まみれのイサッチのアップになる……その寸前。
 ブロックノイズに分断された画面の上下に、奇妙なものが映っていた。
 それは、一枚のハンカチだった。
 ブロックノイズの影響を受けて変色している部分もあるが、ピンクの縁取りがなされたハンカチには、いろんなポーズをとる可愛らしいウサギのキャラクター印刷されているのが確認できた。女児向けのハンカチのようだが、今時のセンスではなく、かなり古いもののようだ。
 ハンカチが映っていたのはほんの数コマで、すぐにイサッチの顔が映し出された。
「アップで見たくない顔だよな」
 社長はそう言って笑った。確かにその通りだが、須間男は一緒に笑う気になれなかった。
「そういや、更衣室……じゃなかった、ロッカールームの映像で、イサッチがロッカーに何か捨ててんじゃん。中埜のじいさんが、パンツか何かって言ってたけど、あれさあ、ハンカチだったんじゃないか?」
 社長の投げかけた疑問に、千美がマウス操作で答える。プレビュー画面はロッカールームの映像に切り替わった。今度はスローではなく通常再生で、イサッチがロッカーを開けるところから映像が流れる。イサッチがポケットから無造作に何かを取り出してロッカーに投げ入れる瞬間、映像が止まった。そして、投げられた物体がクローズアップされていく。
「なんか、てるてる坊主みたいだな」
 社長の言うとおり、アップになった物体の先端は丸く、ひらひらとした尾ひれがついている。
「これ、投げやすいように、石か何かを包んで縛ったんでしょうか?」
「それっぽいね」
 社長が納得したタイミングに合わせて、映像は引きに戻り、再生が再開された。イサッチの背後にあるロッカーがゆっくりと開き、そこから白い手が伸びる。そこで映像が止まり、手の先がクローズアップされる。
 白い手がつまんでいるのは、ハンカチくらいの大きさの布のように見える。
 映像が引きに戻り、再生が再開された。白い手が指を開くと、布はぱさっと須間男の足下に落ちた。その落ち方はやはり、布の落ち方だった。
「このイサッチとかいうヤツは、貸しスタジオの常連も使いたがらないロッカーを選んで、その中にハンカチを放り込んだ。だけど真後ろから突っ返された、と。ご丁寧にほどかれて、ねえ……」
 社長は口の端をゆがめた。
「幽霊とハンカチ落とし、って筋書きか。チミちゃん、これが気になってたのかい?」
 社長の問いかけに、千美は答えなかった。
 迷いや思考の整理がつかない、というわけではなく、回答を拒否しているように、須間男には思えた。
「えーと……あと、何だっけ? 貸しスタジオの方では変な女もいたんだろ?」
「はい。いつも通り千美さんが追いかけて、映像は押さえていると思います」
「いつも通り、ねえ」
 須間男の報告を聞いて、社長は苦笑した。
「んじゃ、その映像の方も……おっともう五時か。そいじゃ、映像のチェックよろしくね。悪いけど野暮用で、定時で上がらせてもらうわ」
 そう言って社長は大きくのびをすると、デスクの上に放り出されていたワニ革のセカンドバッグを小脇に抱えた。
「あ、僕も用事があるのですいませんが」
「何? スマちゃん、彼女でも出来た?」
「違います」
 社長のベタな問いかけを、須間男はあっさり否定した。
「それじゃ彼氏か。いいっていいって。俺はありのままのスマちゃんを愛してるよ」
「だから違いますって」
「つまんないねぇ。そいじゃ、お先に」
 社長はさっさと事務所を出て行ってしまった。須間男も帰り支度を整え、自分のパソコンの電源を落とした。
「それじゃ失礼します」
 そう言って編集室を後にする時、須間男は千美の方を振り返ってみた。既に紫煙をくゆらせ始めた彼女は、須間男のことなど気にすることなく作業を開始していた。

「そう硬くならないで」
「あ、はあ……」
 そうは言われたものの、自分がこの店にはあまりにも場違いな気がして、須間男は落ち着かなかった。新橋の一角にある和風ダイニングの店内、座敷席にふたりはいた。注文は済んでいたらしく、二人の前にビール瓶とお通しの煮物が並べられた。
「仕事の方は相変わらず?」
 須間男のグラスにビールを注ぎながら、小(お)埜(の)沢(ざわ)尚(なお)行(ゆき)が尋ねた。
 小埜沢は映像配給会社に勤めている。配給作品の中には、カオスエージェンシーの作品も含まれている。つまり須間男にとっては元請けに当たる。
普段着通勤OKの須間男と違い、小埜沢はスーツ族である。恐らくオーダーメイドと思われる濃紺の三つ揃いと、白髪交じりのくせっ毛が相まって、指揮者のような風貌だ。
「まあ、相変わらずです……」
「社長に振り回されてるのかな?」
 小埜沢と社長が旧知の仲だというのは、忘年会だか新年会だかで聞いた覚えがあった。小埜沢まで社長を本名ではなく「社長」と呼ぶことに、須間男はずっと違和感を覚えていた。以前、本名で呼ぼうとした須間男に対し、社長は「照れるからやめてくれよ」と言っていたが、もしかして、同じようなことを小埜沢や千美にも言っているのだろうか。
 謎が多い、というかつかみ所のない社長のことを小埜沢に尋ねてみたくなったものの、須間男は頭をもたげた好奇心を飲み込んだ。彼は今日、社長の話をしに来たわけではない。
「どちらかというと鶴間さんの方が……。振り回されている、っていう訳ではないんですが……」
「なるほどね」
 小埜沢は須間男の返杯を受けながら相づちを打った。
「でも、小うるさい上司や使えない上司よりはいいと思うけどね」
 確かに千美は、小埜沢が挙げた例のどちらにも該当しない。そういう意味ではかなり恵まれていると言えなくもない。
「小埜沢さん。鶴間さんって何が楽しくて、あの仕事をしてるんでしょうか?」
「あの仕事って、君、部外者みたいに言うけど、君だって同じ仕事をしてるじゃないか」
「そうですけど……映像制作っていろんなジャンルがあるじゃないですか。なのに、何であのジャンルなのか、それがわからないんですよ」
「それを言われると耳が痛いね。少なからず、僕や社長にも責任のある話だからね」
 小埜沢は苦笑いを浮かべ、ビールを少しだけ喉に流し込んだ。
「僕と社長は同じ映像製作会社にいて、レンタル向けの映像作品を作ってきた。千美ちゃんが同じ会社に入ってきた頃に、運悪くJホラーブームが始まってね。鈴木君は知ってるかな、Jホラーブーム」
「ええ。『リング』とか『呪怨』の制作された頃ですよね?」
「そうそう。正確には九十年代の終わり、まさに世紀末だね。配給会社からの要望も、自ずとそういう作品ばかりになってね」
「確か社長が、年間百本は作ったって言ってましたが……」
「それは大げさだけど、数年間はずっと似たような仕事ばかりしていたのは確かだね。入社したての千美ちゃんは、それらの作品でノウハウを覚えていった。三人の中では一番飲み込みが早かったね」
「鶴間さん、その頃からあんな感じだったんですか?」
「あんな感じ、ね」
 小埜沢は須間男の言葉を復唱し、苦笑した。
「そう、彼女は入社した時からあんな感じだったよ。ただあの煙草の吸い方は、愛煙家の吸い方じゃないと思うな」
「そうなんですか?」
「愛煙家は適度に煙を吸って、半分くらいまでで次の煙草に切り替えるんだよ。煙が回ると味が変わって不味くなるらしい。中には先端部分だけ吸って消してしまう人もいるって聞いたことがある。だけど彼女は、フィルターが焦げ付くまで燃やしてしまう上に、ほとんど煙を吸っていない。吸っているのは副流煙だけ」
「いい迷惑です」
 否応なく副流煙の被害に遭っている須間男は大きくうなづく。
「アンバランスではあるね。だから心配もするけど、千美ちゃんにとっては大きなお世話だろうね。まったく、誰の影響なんだか(・・・・・・・・)……」
 小埜沢は寂しげに笑った。彼が千美に対してどんな思いを抱いているのか、須間男は少し気になったが、深く追求することを避けた。ふたりのプライベートに関わる話であり、ほぼ無関係の自分が聞くわけにはいかないという思いと、これ以上千美のことを知りたくないという思いがあったからだ。
 知ってしまえば他人ではなくなる。
 それが嫌だった。
「で、今はどんな題材に取り組んでるんだい?」
 運良く話題を変えてくれた小埜沢に、須間男は乗っかることにした。それに小埜沢が振ってくれた話題は、須間男にとっても気がかりなことのひとつではあったのだ。
「それが、らしくないんですよ」
「らしくない、というと?」
「鶴間さん、今回は〈本物〉を扱う気でいるんじゃないかって気がするんです」
「〈本物〉……か。今手がけている題材は、それだけ出来上がっているということなのかな?」
「社長も『よくできている』と言うくらい、送られてきた映像はそのまま使ってもいいレベルではあると思います。ただ、今まではそんな素材をそのまま使ったり、取材したりしたことなんてなかったじゃないですか」
「そうだね。そういう仕事は今までやってないね」
「僕らがやっているのは、あくまでもフェイクドキュメンタリーじゃないですか。ニセモノ(・・・・)です。『ガチ怖』はそうやって作ってきたのに、今回は違うんです」
 須間男は一気に喋り終えると、すいません、と言ってから、ビールを喉に注ぎ込んだ。
「鈴木君。君、怖いんだね」
 小埜沢の指摘を受けて、須間男ははっとした。
「正直に言うとそうです。今までだって、心霊だ呪いだ人の嫌な部分だと嫌な題材ばかり扱ってきましたが、まだニセモノだから良かったんです。ですが今回は作る前からピースが揃いすぎてるんです。鶴間さんにはピースの先が見えているような、そんな気がするんです。そんな鶴間さんが……怖いです」
 今まで須間男は、千美に対する嫌悪感を「感情が読めない」「平然とニセモノを作り続ける」「ホラーに拘泥している」ことが原因だとばかり思っていた。小埜沢に改めて問われて、もっと別の何かが嫌悪感を強くしているのではないかと疑い始めた。
 だからこそ、千美に関することをあまり知りたくないのだと。
 しかし、小埜沢から返ってきた言葉は、意外なものだった。
「優しいんだね、君は」
「優しい? ど、何処がですか? 今だって仲間の陰口ばかり……」
 しどろもどろになる須間男に対し、小埜沢は微笑みかけた。
「それだけ千美ちゃんのことを気にかけてくれてるってことじゃないか。本当に嫌いなら感情面なんか気にせずディスコミュニケーションになるだけだと思わないかい?」
「そうですか? 小埜沢さんには申し訳ないですけど、やっぱり僕は鶴間さんに関わりたくないだけですよ」
 須間男は不満を表明したが、相変わらず小埜沢はにこにこしている。
「君の気持ちはよくわかったよ。で、問題の投稿映像の内容はどんなものなのかな。あ、これはあくまでも仕事とは無関係な、個人的興味だから」
 断りづらくなるように誘導する、実に慣れた話術だった。須間男はタブレット端末を取り出すと、ふたつの動画を再生して見せた。いつでも取材対象に見せられるよう、端末に取り込んでいるのだ。
 小埜沢はふたつの動画を真顔で見ていた。オフ会の動画で問題の場面にさしかかった時、その表情がにわかに険しくなった。
「それで、取材はどんな感じなんだい?」
「撮影した動画は鶴間さんが編集してます。写真ならいくつかその中に入ってます」
 小埜沢はタッチパネルを操作して写真を閲覧し始めた。久千木に取材した時には静止画の撮影を行っておらず、入っているのは秋葉原の貸しスタジオ関係の写真ばかりだ。貸しスタジオの外観、暗い階段、ロッカールーム入り口、ロッカールーム内、監視カメラ、そして悪意で塗りつぶされたネームプレートのアップなどが収められている。
 写真を見ている時も、小埜沢の表情は険しいままだった。全部の写真を見終えると、彼は須間男に端末を返却した。
「千美ちゃん、何か言ってなかった?」
「いえ、別に……」
 答えながら須間男は、小埜沢の奇妙な問いかけに何かひっかかるものを感じた。
「その動画と静止画、それと今日の取材映像も、僕に転送してくれないだろうか?」
「え?」
 奇妙な問いかけに続いての異例な要望に、須間男は自分の耳を疑った。今までも仕事の進捗を報告したことは何度もあったし聞かれたことも多かったが、投稿映像やロケハンの映像が欲しいと言われたのは、今回が初めてだった。
「どうしてですか?」
「……見覚えがある気がするんだ(・・・・・・・・・・・・)
 小埜沢の言葉が須間男を不安にさせた。小埜沢に見覚えがあるのであれば、もしかしたら、一緒に仕事をしたことがある千美にも見覚えがあるのかもしれない。それが、今回の投稿映像を追いかけることを彼女が決めた原因だとしたら。
「……わかりました」
「悪いね。もちろん頼まれたとおり、君の転職先はきちんと探しておくから(・・・・・・・・・・・・・・・・・)
「……よろしくお願いします」
 これは取引なのだと、須間男は割り切ることにした。

 何度も頭を下げながら、ホームへあがるエスカレーターに乗る須間男を見届けると、小埜沢はきびすを返した。その道中で、彼のスマホが揺れた。
「もしもし。ああ。さっきまで彼と会ってたよ。今別れたところ。いつものところにいけばいいのかな? ……了解」

 ほろ酔い気分で日暮里(にっぽり)駅に降り立った須間男は、のんびりと西口の商店街を歩き出した。
 日中でも猫が多い町・谷中(やなか)。夏の夜にはアスファルトの温度がちょうどいいのか、寝そべってくつろいでいる猫を見かけることが多い。須間男はそんな猫たちの様子を「猫が道ばたに落っこちている」と脳内で勝手に表現している。
 猫の殆どが人慣れしているため、須間男は彼ら、彼女らを撫でながら道を行く。さながら猫スタンプラリーだ。
 須間男の実家は川崎にあるのだが、谷中に住みたいと言うだけで都内の大学を選び、安アパートでの一人暮らしを始めた。そして今も変わらず、さも昔から住んでいたかのような顔をして、彼は谷中の住人を続けている。
 所々ペンキのはげたトタン壁の二階建てアパートの名は「谷中マンション」という。何処からどう見てもマンションではないが、そう言う名前なのだから仕方がない。須間男の引っ越しを手伝ってくれた友人や、時折訪れる両親はよくアパート名を話のネタにした。
 二階の角部屋──二部屋しかないのでどちらも角部屋なのだが──のドアを開けて中に入ると、須間男はシャワーで汗を洗い流し、換えのTシャツとトランクスに着替える。窓をあけて扇風機を回し、万年床の煎餅布団に寝転ぶと、大きく息を吐き出した。
 彼にとってこの六畳一間の空間こそが安らげる「家」だった。
 星明かりを眺めながらそのまま寝る。たったそれだけのことが須間男にとっては最上級の贅沢だった。酒に弱い彼は既に酒精と睡魔に絡め取られかけていた。しかし夢の世界まであと一歩というところで、スマートホンが震動し始めた。
「……あーもう……もしもし?」
「もしもしスマちゃん? お母さんだけど」
 母親の甲高い声が眠気を蹴散らす。
 須間男のあだ名は母親が名付け親だった。彼がロケで出かけている間に会社を訪れ、社長に挨拶をしたときに口にしたらしく、それから社長は彼を「鈴木ちゃん」ではなく「スマちゃん」と呼ぶようになってしまった。
「何? もう寝るんだけど」
「冷たいわね。別に用って訳じゃないんだけど、あんた、ちっとも連絡寄越さないから」
 母親の拗ねた声に、須間男はげんなりした。
「母さん、いい加減に子離れしろよ。俺より親父を構ってやれって」
「あの人は帰ってきてご飯食べて寝ちゃうだけだから。この間もせっかくデパートの美容部員さんにモテメイクしてもらったってのに、ちっとも気付かないんだから」
「俺だって同じだって」
 須間男はモテメイクをスルーして、面倒臭そうに答えた。
 家族や友人が相手だと、一人称が「僕」から「俺」になる。彼は社会人になってから、その使い分けに気づいた。
「もう俺三十二だよ? 小学生じゃないんだからさ」
「だったら早く彼女作んなさいよ。変なホラー映画ばっか作ってると婚期が」
「それは関係ないだろ?」
「そういえば確か、あんたの会社に女の人が入ったって、ずいぶん前に言っていたじゃない。どうなのよその人は?」
「……ないね」
「断言したわね。確かみっつ上だっけ?」
「……ふたつだよ」
「だったら全然いけるじゃないの。その人が入ってから何年なの? もういい加減打ち解けてるんじゃないの?」
「打ち解けるどころか仕事の鬼みたいな人だよ」
「キャリアウーマンなのね。いいじゃない。あんたは尻に敷かれるタイプなんだし、相手の容姿を選べる立場でもないでしょう?」
「この容姿は母さん似だろ? 酷い言い方するな」
「悪かったわね。で、その人、すっごいブスなの?」
 直球にもほどがある問いかけに呆れた須間男だったが、改めて考えてみると、何と答えるべきかわからなかった。千美は顔を背けたくなるほど醜いわけではない。ないのだが、彼女をそういう物差しで測ったことがないために、どの程度なのかがわからなかった。
「……ブスではない、と、思う」
 考えたあげく、ものすごく曖昧な答えになった。
「だったらいいじゃない」
「そういうもんじゃないだろ? あーもう、俺、寝るから。おやすみ」
 須間男は有無を言わさず通話を終了した。母親も流石に飽きたのか、リダイヤルをしてくることはなかった。
 彼は再び布団に身を委ねると窓の外を見た。千美はまだ、あの灰色の墓標の中で紫煙をくゆらせながら、映像を編集しているのだろうか。様々な映像素材を整理しながら、陰鬱な物語を組み立てているのだろうか。
 彼女には、帰る家があるのだろうか。
 ふと、彼はそんなことを思った。今まで考えもしなかったことだ。服の系統は同じでもバリエーションはあったような気がする。だから着替えはあるのだろう。しかし、常に自分たちは早上がりで彼女は居残りだった。そして彼女は翌朝、どんな時間に行ってもあの編集室にいた。前日吸い殻を捨てた灰皿が、翌日には吸い殻の山に埋もれている。
 まさか、本当に帰っていない……のか?
 そこまで考えて、須間男は頭をかきむしった。自分はなんであんな人のことを考えているんだろうか。どうでもいいことじゃないか。プライベートなんて知りたくもない。知ってしまったら……。
 ……どうだっていうんだ?
 再び須間男は頭をかきむしると、枕に顔を埋めた。
 あれほど強かった酒精と睡魔は、何処かへ去ってしまっていた。
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登場人物紹介

鈴木須間男(32)


小さな映像製作会社に勤務。

弱腰で流され体質。溜め込むタイプ。

心霊映像の制作と、その仕事を始めるきっかけを作った千美に、かなりの苦手意識を持っている。

よくオタク系に勘違いされる風貌だが、動物以外のことは聞きかじった程度の知識しかない。

鶴間千美(34)


須間男の同僚。

須間男よりもあとに入社してきたが、業界でのキャリアは彼よりも長く、社長とは旧知の間柄。

服装は地味でシンプル、メイクもしていない。かなりのヘビースモーカー。

感情の起伏がほとんどない、ように見えるが……。

社長(年齢不詳)


須間男たちが勤める映像製作会社の社長。

ツンツンの金髪、青いアロハに短パン、サンダル履きと、「社長」という肩書きからはほど遠い見た目。

口を開けばつまらないダジャレや、やる気のなさダダ漏れの愚痴がこぼれる。

本名で呼ばれることが苦手なようなのだが……。

麻美奏音(24)


地下アイドル「ピクルス」の元メンバーで、メンバー唯一の生存者。

六年前の事件以降、人前に出ることはなかったが、今回の騒動で注目を集めてしまう。

肝心の「呪い」については、まったく覚えていないようなのだが……。

寄藤勇夫(42)


有名アイドルグループ「@LINK(アットリンク)」の厄介系トップオタ。

須間男たちの会社に送られてきたふたつの映像に映り込んでいた人物。

@LINKの所属事務所から出禁を喰らってから、消息が途絶えている。

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