第6話

文字数 6,133文字

 其の邪坊と謂ふ物の怪は如何なるものぞなど尋ねれば村の庄屋の答へていはく数多の孕み女に取り憑きてほとを掻き切り母と児をもろともに殺せり 
 邪坊に殺されし児は誰も笑ふ顔にて死にければ見た人いとど恐れり 
 村の外れの山の洞穴の祠に祀らるる産神に邪坊を鎮め給へと願い奉ればついには災いの起きること無くなりぬ

 H大学出版会発行の民俗学紀要にはそう記載されていた。
 江戸時代初期に書かれた『上野国百物語こうずけのくにひゃくものがたり』という書物からの引用で、上野国、現在の群馬県の町や村を筆者が巡って集めた怪談話の一つだそうだ。
『邪坊じゃぼうという物の怪は多数の妊婦に取り憑いては生殖器を切り裂いて母子ともに取り殺す。邪坊に殺されると胎児の死体は必ず笑みを浮かべていてひどく恐れられた』――らしい。
 今、私の目の前のテーブルには資料がいくつか並んでいる。紀要の冊子、脇には『上野国百物語』の実際の引用箇所――時代がかった書体で私にはまるで読めない――をスキャンした画像のプリント。
 さらに中尾由香里さんについて遺族から貰ってきたという書類が二枚、クリップで留めてある。
 一枚は、由香里さんと胎児とのDNA鑑定結果の報告書。
『親子関係の否定』『PCR法による鑑定の結果、疑母と子供が生物学的な親子関係にある可能性は〇パーセントです』
 親族の男性が言っていた通りだった。
 もう一枚は、警察による彼女の死体検案書のコピー。死亡原因の欄には『子宮から産道にかけて走った創傷からの出血によるショック死』とある。
 ただ、出産で死亡するケースでの裂傷とは全くちがい鋭利な刃物でも使わなきゃつかない傷で、しかし膣内や遺体周辺からそれらしきものは発見されていない旨も書き添えてあった。
 死因と、私が見た赤ちゃんの笑顔はたしかに伝承にあるものと一致している。
 そして、『数多の孕み女に取り憑きて』という言葉が事実なら、由香里さんがこの邪坊に殺されたとするなら、犠牲者が彼女だけで済む可能性は低い。そういうことになる。

「私も……こうなる、の?」

 声が震える。テーブルを挟んだ向かいのソファに腰掛ける、私にこの資料を見せた女性に尋ねた。

「断言するにはまだ情報不足。ただ――」

 彼女、相川愛も手にしていた紙をテーブルにひらりと置く。私が見せた、病院でもらってきたカルテのコピー。

「中尾由香里と同じことが起きているのは、多分事実」

 彼女の視線はカルテから私へと、いや恐らく、私のお腹へと移った。

「きっとあの女にも憑いていたはず。その子か、あるいは似たものが」

 怜悧な瞳には今も映っているのだろう。私を死の淵へ引き込もうとした、あの赤ん坊が。

・・・

「丸屋、恵那……」
「相川さん……」

 赤ん坊の幻影に線路に引き込まれそうになった私を、すんでのところで助けてくれた相川さん。
 唖然としていた私に対し、彼女は忌々しげに表情を歪ませ、小さく舌打ちまでした。

「あっ、ちょっと」

 舌打ちした彼女はすぐさま私に背を向け、来た道を数メートル戻る。路上にスーパーのレジ袋が落ちていて、こぼれた品物がアスファルトに散乱している。 買い物帰りだったのだろうか。持っていた荷物を放り出してまで、私を助けてくれた。さっきの慌てた叫び声は聞き間違いではなかったようだ。
 私は立ち上がると彼女に歩み寄り、「ありがとう」とお礼を言った。品物を拾うのを手伝おうとしたけど、それを拒むように彼女は手早く拾い終えてしまう。
 それで私を無視したまま立ち去るのかと一瞬思ったけど。

「……これで確実、わかったでしょう、もう施設には来ないで」

 冷たい声で言われた。 
 何のこと……? ……ああそうか。以前、『ヤドリギの家』でも彼女は私に同じように言った。
 いやでも、結局あれってどういう……少し考え、答えに行き当たる。
「汚らわしい」「もう来ないで」――あの時は何の心当たりもなかったけど、今はある。

「その赤ん坊は明確にあなたを殺そうとした。施設の子たちまで狙わないとは限らない」
「相川さん、今の見えた? 見えてたの?」
「通夜の時から」
「……相川さん、えっと、そういうの見える、人?」

 ややあって、やや嫌そうな顔で彼女は小さく頷いた。 
 霊能者なんて今時テレビでさえ胡散臭いと思われるのかあまり見ないし、霊魂だとかもこれまで信じているとは言えなかったと思う。
 だけど由香里さんと私の普通考えられない妊娠は。耳にした笑い声は。私を引きずり込もうとした赤ちゃんは。
 これまでの態度と今の言葉は…………。

「あの、私、私、どうすればいい……と思う?」

 彼女が神職らしいこととか、お祓いを勧められていたこととか、そういうのを思い出して具体的な対処法を期待した――わけではない気がする。ただ、私の非現実的な窮状を理解してくれそうな人に出会って、胸の内の混乱を吐き出したかった。

「知らない。あなたがどうなろうと、自業自得」

 それだけで言い捨ててまた歩き出そうとする。ああそうだ。彼女は前から私にこうだった。
 今は命の恩人だけど、一方的に殺されかけたのを自業自得とまで言われ、もう三度目なこともあって流石に我慢できなかった。

「何なの相川さん? 何でそこまで言うの?」
「……」
「私、由香里さんが死ぬの見ただけだよっ!? そしたら、覚えもないのに妊娠してるって……私が何したって言うの!? 自業自得じゃな――」
「本当? 中尾由香里が死ぬところを見たって。覚えがないのに妊娠してるって」

 唐突に言われた。少し、彼女もおどろいているような、興奮した響きがあった。

「へ? あ、えっ……」
「答えて」
「うん……本当」
「……過去に中絶や流産の経験はない?」
「な、ないよ! そもそも私、その……」

 なぜそんなことを聞くのか意図を測りかねたけれど、私が答えると彼女は少し考える風に黙り込む。カルテを見せるためにバッグの中をまさぐっていると。

「ごめんなさい。誤解していた」
「っ」

 頭を下げられる。理不尽に罵倒されたかと思ったら今度は謝罪。何がなんだかわからない。
 でも彼女は明らかに何かを知っている雰囲気で、顔をあげた時の真剣な眼差しにも気圧されるところがあった。
「ウチに来て」と言う彼女についていき、十五分くらい歩いて着いたのは神社――の隣に建つやや古めの一軒家。
 どうもここで彼女は暮らしているらしい。私は客間へと案内され、そこであの日からこれまでのことを洗いざらい語ったのだった。

・・・

「由香里さんに憑いていたものが伝承の『邪坊』そのものかはわかりませんが、もしそうなら『取り憑くことで妊娠させる』のを、当時は『妊婦に取り憑く』と勘違いしてたのかも知れませんね。DNAや血液型なんて観念もない時代ですから、その人の子じゃないなんて判断は難しかったんでしょう」

 相川さんの隣に腰掛けたロマンスグレーの男性が推測を語った。染谷昌司さん。『ヤドリギの家』から相川さんを引き取った里親で、隣の神社の神主さん。由香里さんの通夜で私は一度見ている。
 以前は狩衣姿だったけど、今は半袖シャツにスラックス。大きめの黒縁眼鏡や髪型もあって、「ジブリ映画のお父さん」を少し老けさせた感じだ。
 結婚指輪をしているけど、相川さんの他に子供がいるのかはわからない。

「由香里さんのご実家がちょうど邪坊が出たとされる地域で、地元では昔話のオバケみたいな形で知られているんだそうです。ご実家から来られたお母さんが、赤ちゃんや御遺体を見て『邪坊だ』だと仰ったのがきっかけだとか……」

 由香里さんのお母さん――清美さんが通夜で倒れた時に「じゃぼ」と零していたのを思い出す。アレはつまり、怪異の名前、娘が地元に伝わる物の怪に殺された……単なる突然死ではないと清美さんは思っていた。

「それと、文献に記されたこととは別ですが、こちらもですね……」

 染谷さんがそう言って茶封筒から出して見せたものに、私は見覚えがあった。
 安産祈願と印字された、薄緑のお守り袋。
 私があの日届けようとして、全てのきっかけになったもの。一緒に出てきたのは袋の中身だろう。和紙に朱墨で神社の名前が書かれた御札……だけど。

「これ……」「……お守りを開けたら、この状態で出てきたと聞いてます」

 縦に真っ二つになっていた。「裂けた」というよりは刃物で切ったみたいに綺麗に。
 お守りを切り裂かれ、そして由香里さん自身も。胎内から刃物を突き立てられるのを想像して、下腹部がきゅっと強張った。
 通夜の前に清美さんが邪坊の仕業だと騒ぎ立てた時は誰も取り合わなかったけど、死の状況の異常さがはっきりするにつれ皆怯えるようになった。DNA鑑定も取り憑かれたとされる胎児の体を調べる一環だったらしい。
 それで、中尾家が氏子になっているこの神社が依頼を受け、五月の頭にはお祓いが執り行われた、と染谷さんが言う。

「お祓いって言えば、祠の神様ってどうなったんですか?」

 私は机に広げたままの、紀要の引用箇所を指して尋ねた。

『村の外れの山の洞穴の祠に祀らるる産神に邪坊を鎮め給へと願い奉ればついには災いの起きること無くなりぬ』

 祠で神頼みをした結果邪坊の災いがなくなった――仮に伝承の邪坊が実在していると考えるなら、地元住民である由香里さんの家族はお祓いの他にこっちの対処法も検討しなかったんだろうか。
 私の疑問に、染谷さんはタブレットで画像を見せてくれた。
 山道に面した岩肌が大きく抉れ、人が十分入れるサイズの洞穴を形作っている。

「これは地元の方が撮ってくださったものです。祠の洞穴というのがここらしいんですが、何もないんですよね」

 染谷さんが画面にタッチし、新たに内部を撮影した画像を見せてくれる。一番奥までライトで照らされているけど、たしかに祠らしきものは見当たらなかった。
 撮影者のお年寄りも、自分が子供のころから変わらないし何かあったなんて聞いたことがないという。だから彼らは染谷さんたちを頼り、結果、智也さんは自殺している。

「中尾智也の自殺は単に当人の意志。中尾由香里の母親もただの脳梗塞。他の家族も祓う以前に最初から何も憑いてないし霊的な影響も受けていない」

 相川さんのその言葉をどこまで信じていいのか、霊に殺されるのとどっちが残酷かはわからないけど、それにしても同情の色が全く見えない語り口だった。今でも「バカ親」と口走りそうなほど。
 両家の親類縁者にもその時妊娠している人はいなくて、伝承通りなら危惧される「次の犠牲者」もどこに出るのか見当がつかない、一旦話は終わったと思っていたところに今日、私が現れた。
 相川さんから私のことを聞いた染谷さんは、最初から事態解決に責任を持って協力すると言ってくれた。それはありがたい、ありがたいんだけど。

「まあ、インチキ臭いですよね」

 染谷さんが自嘲気味に言う。そんなこと思ってません、とはちょっと言えなかった。
 超常的としか思えないことが起きているのはたしかだ。さっき殺されかけたこともまだ生々しく思い出せる。
 だけど、オカルト的な存在に命を脅かされているのは認めても、ずっと気休めだったものを医療や科学技術と同等に信頼するのは、申し訳ないけど難しい。

「なかなか信用してはもらえないでしょう。ですから、料金は全てが解決した時の後払いでいいですし、僕らが嫌なら同業者も紹介できます。それでも任せてくださったなら、全力を尽くしてその霊からあなたを守りますので」

 膝の間に両手を組んで染谷さんは語った。
 この人もこの人の言う同業者も、私が信頼できるような実力の保証はない。任せれば安心という気には全くなれない。その中で、この人自身は誠実な気がする、という根拠のない直感を信じるしか私にはなかった。

 よろしくお願いします、と頭を下げ、そして自分のお腹を見下ろす。ここに今も宿っているあの子が、私を殺そうとしているのか。

「何でこんなことするんでしょうか。わざわざ自分を孕ませて、その女性を殺すって、それこそ意味がないんじゃ……」

 自分を孕ませ、人間の子供として生まれてくる、この世に蘇りたい、というなら理解はできるのに。それなら……。

「霊のすることなんてたいがい意味不明。死の直前の行動を繰り返すなんてまだいい方。本当に何なのかわからない動きをしている霊もざらにいる」  

 相川さんが答える。その平坦な口調にはかえって変な真実味があった。この子が当初から見えていて、それを「邪坊」とは解釈しないまま受け止めていた彼女は、普段どんな世界を見ているんだろう。

「仮に『意味』があるとしたら、『復讐』じゃない。例えば自分が胎内で殺されてて、そのことへの意趣返しで胎内から殺してるとか」
「復讐って、赤ちゃんが……?」
「赤ん坊は親を憎まないと思うの?」

 なんだか饒舌だ。赤ちゃんが親を憎むものなのか、私には正直よくわからなかった。ある程度成長するにつれ、というならともかく赤ちゃんにとって親は絶対じゃないか。 それに、結果的に赤ちゃんを死なせてしまうにせよ、必ずしも親が悪いわけじゃない。

「どうしようもない、不幸な偶然だってあるよ。赤ちゃんも親も、誰も悪くないことだってたくさん」
「どう言い訳しようと、赤ん坊には殺されるのが全て。苦痛も恐怖もある、一方的に作られて、一方的に殺される。そうした相手は、その後ものうのうと生きてるんだから」
「愛」

 その悪し様な言い方に、染谷さんが窘めるように呼ぶ。私は彼女の言葉に、数時間前に体感した「殺される」ヴィジョンを思い出した。
 反論の気持ちが急速に萎んでいくのを感じる。恨むことくらいあるかも知れない、と思ってしまったから。

「だけどこの子、由香里さんが流産した子でもないんじゃ」
「生前の恨みの対象を殺して満足する霊もいれば、その後も似た条件に当てはまる人間を殺し続ける霊もいる。代償行為か知らないけど。その子の母親も、恐らくもう生きてはいない」

 憶測に過ぎないんだろうけど、たしかにある程度筋は通っている風に聞こえる。もしそうなら、この子はひょっとすると数百年、自分を孕ませては殺してを繰り返してきたことになるのか。
 だとしたら罪がないとは到底言えない、どころか恐ろしい悪霊かも知れない。
 けど、でもやっぱり。

「お祓いしたら、この子どうなるんですか? 成仏? できるんですか……?」
「それは……」

 口ごもった風な染谷さんに代わって相川さんが、やはり平坦な口調で答えた。

「成功すれば、祓った霊は消滅。無に還る」

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登場人物紹介

丸屋恵那(まるや えな)


大学で幼児教育を専攻する女子大生。

子供を持つことに強い憧れがあるが、過去の白血病治療で自然妊娠は難しい体。

しかし、処女のまま突如として妊娠するところから物語は始まる。

相川愛(あいかわ まな)


恵那のバイト先の児童養護施設へボランティアに訪れる女性。

生まれつきの霊感のために親から虐待を受けた過去があり、基本的に親を嫌っている一方で里親の二人には愛情を抱いており、施設の子供たちにも優しい。

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