第24話   覚醒 1

文字数 3,037文字

 「圓海、柳生二人会」の記事は当然七月号には間に合わないので、次の八月号に載る事になる。
 俺は書いた原稿を「よみうり版」のHPに載せることにした。雑感という程度のものだが、詳しくは八月号を読んで欲しいということだ。
 その作業が終わると盛喬が編集部に顔を出した。愛想の良い笑顔をしているが目が真剣だった。それを見て「何かあるな?」と感じる。
「よう、どうしたい? 今日は暇なのかい?」
 こっちも何気なく探りを入れるといきなり
「神山さん、噂聞きました。凄かったそうですねえ~ 俺も仕事なんか抜いて聴きに来れば良かったとつくづく思いましたよ」
 やはり、二人会の事だと思い内心ニヤっとした。自分が演じた訳でもなく、唯、その場に居ただけなのだが、「自分はあの場に居たのだ」という気持ちが何故か誇らしいのだ。自分でも妙だと思うのだが……
「盛しんに訊いたら記録用に定点カメラで映像を撮ってるそうじゃ無いですか。出来れば見せてくださいよ。お願いします!」
 盛喬はそう言って頭を下げた。やはり真剣な気持ちで来たのだと理解した。
 実は、家庭用のHDムービーカメラで三脚を立てて会場の一番後ろから記録用として撮影していたのだ。撮影しっぱなしで、噺の合間にバッテリーを交換したり、SDカードを差し変えたりしたが、編集などは一切していない。記録した動画はそのままブルーレイディスクに焼いて両師匠に送ってある。勿論編集部にも保存してるし、俺やあの時手伝ってくれたメンバーの家にもある。それを見せてくれと言っているのだ。
「盛しんくんに見せて貰えば良いだろう?」
「駄目ですよ。あいつブルーレイ再生出来る環境持っていないですから」
 そうか貧乏な前座には高価なブルーレイレコーダーなどは買えないと思った。
「編集部で見せる訳には行かないので、今夜でも家に来るか?」
 そう言うと盛喬の顔がほころんだ。
「薫さんが良いと言ってくれたらお伺いしたいです」
 やはりそうなのだ。最初からその気で来たのだと理解した。
 家に電話すると薫がOKの返事をくれた。そうなのだ、家の事は今や殆んど薫のお伺いを立てないと物事が進まなくなっている。まあ、殆んどの家庭で見られる光景だとは思うが……

 結局俺の仕事が終わるのを待って、その晩一緒に帰宅した。玄関で薫が溢れるような笑顔で
「いらっしゃい! 盛喬さん。今日は暑いからカレーにしたの。海老を使ったサラダも作ったから沢山食べて行ってね」
 すっかり主婦らしさが出て来た薫に言われて盛喬も
「今日の今日で本当にすいません。でも、どうしても見たくて……」
「うん、判る! 凄かったもの」
 薫が作った夏野菜がタップリと入った少しスパイスが効いたカレーを食べる。「海老のサラダ」はやや大きめの芝海老を粉をつけて唐揚げにして、レタス、水菜、人参、それにトマトを角切りにしてドレッシングで和えたものだった。ドレッシングが旨いので何か訊いたら
「シーザーサラダよ。チーズが入ってるからちょっと違う感じでしょう?」
 そう答えてくれた。何でも一手間入っているらしい。盛喬が盛んに「旨い旨い」と言って食べていた。そして「うちのカミさんにも拵えさせよう」と言って薫にレシピを書いて貰っていた。

 食べ終わるとリビングのテレビを点けてブルーレイレコーダーにディスクを入れる。画面に誰も居ない高座の模様が映し出される。
「いよいよですね」
 テレビを見る盛喬の目は真剣だった。やがて出囃子とともに圓海師が高座に登場して「夏の医者」に入っていった。噺が終わるまで、ひと言も盛喬が口を利くことは無かった。一心に画面に集中していた。カット割りもない画面を睨みながらきっと気持ちはこの会場に飛んでいるのだと思った。このような時は下手に声を掛けない方が良い。俺も薫も黙ってその姿を見ていた。
 やがて圓海師がサゲを言って噺が終わり高座から消えると盛喬も我に帰り
「さすがですね。この映像だけでも引き込まれる力が凄いです。会場に居たらさぞかし……」
 盛喬はやはり判っていた。噺というものはその場に居た者だけが共有出来るもので、聴いた傍から消えて行くものなのだ。記録してある映像や録音したものは噺を記録したのでは無い。あくまでも噺をしたその時の会場の雰囲気を記録したものにしか過ぎないのだ。
 だから、初見で見た噺家がこの媒体を通じて体験した場合、かなりの想像力が要求される。それはその人の今までの噺に対するスキルが求められるのだ。生の高座を体験した事が無い人はその分頭で補わなければならない。その逆で別な噺でも、その噺家の高座を体験して頭に残ってる人は記録したものを耳や目にした場合、割合簡単に再現出来るが、これも個人差があるのは言う間でもない。
 盛喬はプロのそれも真打の噺家だ。最近目覚めて進境著しい。その盛喬がこの映像から受け取る事の情報量の多さは俺の比ではないと思った。
 続いて次の柳生の「青菜」に入る。これも同じようにひと言も口を利かず真剣に見つめている。薫が出したアイスコーヒーにも気がつかなかったほどだ。薫が俺の傍に近寄って来て
「何だか盛喬さんいつもと違うわねえ……ちょっと怖いぐらい」
 そう言って俺の手を握る。その手が少し汗ばんでいる。やはり薫も何かは判らないが盛喬が何かを乗り越えようとしているのだと感じるのだろう。
「青菜」が終わり、ディスクを入れ換える為にトレイを開くと我に返った様だった。
「いやぁ~柳生師匠凄かったですね。圓海師とは全く違うやり方でここまで出来るとは俺は全く思っていませんでした。正直恥ずかしい思いです」
 そんな事を言って来たのでアイスコーヒーを勧めると礼を言って飲み干し
「ああ、頭の中まで冷やされる感じです。俺、いい気になってました。ちょっと努力して評論家等から褒められて、それでいい気になり後輩達にも偉そうな事言って……恥ずかしいです。俺なんか未だ未だだってやっと判りました。神山さん、無茶なお願いなんですが、仲入り後の映像はまた今度見せて戴けるでしょうか? 何だか急に稽古したくなってしまって……」
 その盛喬の言葉に俺は納得しながら
「ああ、いいぞ! いつでも来れば良い。なあ薫」
 俺の言葉に薫も頷きながら
「そう、いつでも良いわよ。沢山稽古して名人になってください」
 そんな事を言って盛喬を感激させた。

 その晩はそれで盛喬は何回も礼を言って帰って行った。その後ろ姿を見て薫が
「本当に目覚めたのかな? ならば、わたし達凄いシーンに遭遇したのかも知れない」
 そんな事をつぶやくように言った。確かにそうかも知れない。三遊亭盛喬という噺家が本格的に覚醒したのならば、それは今後が楽しみになる。きっと後半の映像を見なかったのは、俺が勝手に思うだけだが、『今の自分が見ても豚に真珠、猫に小判』だと思ったのだろう。真の噺の奥底が理解出来ていない今では、後半の更に気を入れた二人の高座を見ても完全に理解出来ないと思ったのだと思う。
 だから、今日はここまでとしたのでは無いか? それが俺の推論だった。いずれにせよ、盛喬が次のステージに登ろうとしているのは確かな事なのだ。俺と薫はその手助けを少しだけしたに過ぎない。これからは唯見守る事しか出来ないのだ。噺を極めるという事はそれは孤独な作業だと俺は心の底から思うのだった。
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