文字数 1,181文字

 二千十八年 一月 二十四日


 ベニートペレスガルドスの「マリアネラ」
 マクシムゴーリキーの「どん底」
 エルンストユンガーの「ストームオヴスティール」
 ギュスターヴフローベールの「レデュカシオンソンティモンタル」など。
 こういった、多くの読者の胸に刺さりながら、何十年も残り続けている文学を読み、感動する度に、うらやましくなり、比かくして、今日も、劣等感に苛まれています。
 未だに私は、ゆめを捨てられずにいますけれど、自閉症の私には想像力がまるでないので、人物描写や物語のこうちくなんて、とてもできそうにありません。
 加えて、下手な文章を並べたエッセイやノンフィクションなんてだれも読みませんから、作家なんて私には、ゆめのまたゆめです。
 書けるのはせいぜい、日記くらい。
 それもこんな、短いもの。
 この現状から逃げたくて別の創作物にのめり込めば、また劣等感がやってくるのです。
 これこそ、八方ふさがりというものですね。

 けっ作の並ぶママの本棚を眺めながら、こんなことを書いていると、どんどんと空しくなってきました。
 と同時につい、考えてしまいます。
 私は一体、何を書いているのでしょう。
 私はなぜ、き重と分かっている時間の浪ひを、いつまでも止められないのでしょう。
 それは恐らく、やるべきことは他にあるけれども、何をやっても上手くいく気がしないために、便宜上、無意味な日記を逃げ道であると捉えてしまっているからでしょう。
 ですが、勉強から逃げ続けて、現実からも逃げ始めた、その結果として周りから、逃げてほしくない人が逃げていってしまいました。
 現実から逃げるための完全な道なんて、きっと、どこにも無いのですね。
 そもそも、しょうがい者が学校に通って、何かが変わるのでしょうか。
 ぎむ教育なんてものを受けてみても、人付き合いや勉強がこなせるようにはなりませんでした。
 どれだけがんばっても、人並みの結果すら出せない私には、学校が、気疲れしたり、自そん心をすり減らされたり、だれかに傷つけられるだけの場所としか思えません。
 クラスメートのみんなだって、口に出さないだけで、私に言いもらしたい言葉を、たくさん抱えているに決まっています。
 中学校でこれだけつまづくならば、数年後にはどうなってしまうのでしょう。
 私はいつまでひたむきに、この体を売り続け、カビ飯で食いつなぐ必要があるのでしょうか。
 これからの人生が、不安でたまりません。
 明日の登校時間が、刻一刻と迫ってきています。
 いつもであれば簡単に圧しころすことのできる発作的な弱音の止め方を、教えてください。

 もしも今、この場所から逃げ出してしまったなら、私はママを怒らせてしまうでしょうか。
 そうするとお互いのあいじょうは、お互いのもとに届かなくなってしまうのでしょうか。
 分かりません。
 寂しいです。
 苦しい。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み