第3話 音

文字数 1,026文字

 プロプロプロプロプロプロ。
 何の音かも分からない音が鳴っていた。そんな時でさえ卵焼きを作っていられる私の神経が羨ましかった。皮肉ではない。
 料理にハマるよりも先にエプロンを買ってやるんだって息巻いていた少年に、孫ができる位の時間が経過して、その音はやっと動きを止めた。知り合いの大工さんが音の周りを真空にしておいてくれたおかげで、実際に音を音と認識できていた人は、作業中の大工さんしかいなかった。ただその他に一人だけ、座布団職人の一人娘だけはその音に反応した。
 一人娘は愛されていた。同時に憎まれてもいた。
 だから、その音が悪口にも、誉め言葉にも聞こえたのは、彼女に非があるのではないと断言したい。彼女はあの音を耳の中でジャポンという音に変換した。耳が耐えきれなくなったに決まっている。余地を作っていた方が問題という考え方をしている人もいた。彼女は肩から崩れ落ち、こうすればいいんでしょ、と浅知恵で周囲を巻き込んだ。
 周囲の人間は彼女を疎ましく感じた。二人組の若者は自分たちの方が多いという一点で安堵し、罵倒した。二人組には音は聞こえていない。二人組が将来産むかもしれない子どもにはこの音が届くのだろうか。この音が届くような子育てをするのだろうか。
 倒れた彼女に手を差し伸べた背の高い青年がいた。青年は聞いてもいないのに安藤と名乗った。そうなると安藤一族の社会的地位を上げるために善行に励んでいるように見えてしまう。彼女はその手を振り払う。助けてもらいたくて倒れたのではないから当然だ。青年は振り払われた手を見つめて怪訝な顔をすることで、その手を自分の保有物ではないことにした。そこまでしたのに、青年は再び手を差し伸べることはなかった。
 代わりに彼女の背中と地面の間に手を入れて、抱えるように彼女を持ち上げた。彼女にとってそれは見たことのない高さだった。気になった彼女は青年に問いかける。
「あの音は?」
「聞こえやしない」
 彼にも、あの音は聞こえていなかった。彼は優しく彼女を立たせてあげた。
 この青年の名字は安藤ではなく、安倉だった。彼にとって安藤とは意味のない記号だ。だから言えた。彼にとっての非日常がここにはあった。非日常の最中にあっても、指の爪は伸びていた。この事態こそ、我々が非日常から日常に戻ることができている唯一の命綱なのかもしれない。


 私が言いたいことはこんなことではない。
 
 そぼろ殿も男の子よ。
 
 私が言いたいのはこういうことだ。

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