第6話 冬の滞在者①

文字数 3,759文字

パウル大叔父の葬儀後、エトガルとマティアスに伴われファルケンブルク本邸に戻ると、そこはそろそろ冬が訪れようとしてる気配でした。

ファルケンブルクの本邸がある辺りはライズソールと呼ばれ、険峻な山々に囲まれた谷間の長閑な土地でした。冬の夜長を利用して、私は従兄たちから少しずつ、色々なことを学びました。
その日の講義は帝国の版図について。
サルーンのソファでマティアスに膝枕されながら、私はエトガルの声に耳を傾けました。
「私たちの住んでいるこの国は帝国でね、いくつかの国から成り立っているんだ。ここはロイシュライゼという国で、帝国のほぼ中央だから普段はただ単に『中央』と呼ばれている。帝国の要所で、首都のベルクリースと並んで軍事の要となる場所だね。ここの北東はセルセティア大公国。そのすぐ北に学都エリスファリア。エリスファリアから海を渡って西へすぐの島国がリーフリヘリオス。――先日葬儀で訪れた場所だ。ここの南西はノルディオン。――ワインがうまい。このロイシュライゼの南のほうにパルレキアとマルレキアという穀倉地帯が仲良くならんでいる。首都ベルクリースがある辺りはユークレイと言って、ここから遠く、エリスファリアよりもまだ北だ」
「――いつか連れて行ってあげるよ、ベルクリースに。大きな都市だよ」
マティアスが私の髪を撫でながら口を挟みました。全くこの従兄たちときたら、猫の子のように気軽にもらってきた私を、そのまま猫の子のように猫可愛がりしているのでした。
「北のユークレイから海を挟んだ西隣にもう一つ島国があって、そこはイザールという。とても寒い場所だ――…」
こんな風にして、私は従兄たちから少しずつ自分の住んでいる世界について知識を得たのでした。

日中、従兄たちが軍のお仕事で中央の基地へ出払ってしまうと、私にはとくにやることがありません。時折、次兄の妻バーバラが訪ねてきて、お茶を飲んでお喋りしたりして過ごしましたが、彼女とて毎日来るわけではありません。暇を持て余した私はもっぱらライブラリーに籠もって本を読み漁りました。しかし、それにも問題があって――あまり一箇所に籠もり切りになると、家人が心配してしまうのです。
特にフランツィスカは過保護でした。この穏やかな老婦人をあまり心配させるのも気が引けて、考えた末、私はある解決策を思いつきました。
ライブラリーに籠もるのは午前中のみにして、午後は家人の仕事を邪魔して過ごすことにしたのです。

天気の良い日には庭に出て、庭師のレーニエの仕事を観察し、彼の傑作ともいえる庭園や温室を堪能しました。ファルケンブルク本邸は薔薇の園として有名な屋敷で、従兄たちの父親、先代のアーダルベルト伯父様が薔薇を特にお好みだったのだとか。エトガルとマティアスも花は好きなようで、とはいえ、エトガルは父親と同じく薔薇など豪華で壮麗な花が好き、マティアスはハーブや山野草のような可憐な花が好き、と、好みはずいぶん分かれていました。
何事も盛大にやるのが好きな気質のエトガルは私に言いました。
「父は薔薇の園を作ったが――私は百合の園を作ろうと思う」
唐突な構想を聞かされて目を丸くする私に、
「きみの名前だろう? リリ」
エトガルは可愛くて堪らない、といった笑顔を向けて、私の頭を撫でるのでした。
後日、その百合の園は本当に庭園の一角に造られて、初夏には馥郁たる甘い香りを辺り一帯へ運んだものでした。
 
雨の日は厨房に忍び込んで、シェフのアランの邪魔をしました。
私が殊の外ジャムが好きなのを知っているアランは、片っ端からジャムの味見をさせてくれました。多分、ジャムを食べている間は私がおとなしく、仕事の邪魔にならなかったからでしょう。
 
邸内を散歩するとき、必ず立ち寄るところがありました。
邸内にある軍の支局の休憩室です。人見知りだった私も、この屋敷で初めての冬を迎えるころには、そこに勤める軍人さんたちと打ち解け、お喋りして過ごす仲になっていたのでした。
そこで私は色んな情報を仕入れました。まさか軍事や国政に関する重要な情報のわけはなく、社交界のゴシップなどが主でしたが。
一番よく聞かされたのは彼らの思い出話で、特に士官大学時代に無茶をした話など、彼らは自慢話のようにして話すのでした。
例えばこんな具合です。
「士官大学生ってのはとにかくモテるんですよ――ほら、制服はカッコいいし、家柄も確かな若者ばかり。捕まえれば将来は約束されてるようなものでしょ?」
「――そうなの? でも捕まえるのは難しそうね。卒業後はどうせあっちこっち飛ばされる身でしょ。捕まえたつもりでいても、逃げていっちゃいそうね」
人に慣れてきた私は、この年頃らしく少し生意気になってきていました。
「まぁそういうのも込みで『恋愛』ってやつですからね」
セシル・ドゥ・メルローズは苦笑して先を続けます。
「それで、俺も若い頃はそれなりに派手に遊んでいました」
「――うん? そこは過去形なのか?」
セシルの同期だという、リカルド・フォン・ブランフォーレが狼のような灰色の目を瞬いてまぜっかえしました。
「うるさいな。話が進まないだろう。――で、俺の2つ下の弟にリュシアンってやつがいまして。こいつも2年遅れて士官大学へ入ってきた。そして初めての休暇に『さぁ遊ぼう!』と意気込んで街へ繰り出して――」
「ああ、その話か――通りの女が皆『セシル!』ってリュシアンに呼び掛けてきたんだろ」
「そう、それだ」
「セシルとリュシアンってそっくりなんですよ。リュシアンが『どれだけ兄貴遊んでんだ――…』って天を仰いだって話ね」
私はケタケタ笑って「それはお気の毒に!」と、会ったこともないリュシアンとやらに同情したのでした。
 
日々は穏やかに過ぎていきました。
冬は深まっていき、雪が降り、厚く積って世界を白銀に染めました。
そんなある日のこと。
その日はいつもより早くから眠りについていて、目が覚めて時計を見るとまだ日付が変わる頃でした。
(エトガルとマティアス、帰ってきてるかな――…)
そう思った私は自室を抜け出し、従兄たちが寛ぐのに使っている階下のサルーンを目指しました。静まり返った廊下を足音を殺して歩いていたとき、微かな音が聞こえた気がしました。
(なんだろう――…どこから?)
気になった私は階段を降りるのを止めにして、音源を探すべくそのまま廊下を進みました。
廊下の一つ目の角を曲がると、音は途端に鮮明になりました。
(ピアノだ――…)
でも、誰が?
それは暗い情念に溢れた激しい音色でした。
私自身は習っていないのでピアノを弾けませんが、この国の貴族は嗜みとしてなにか楽器を習うのが慣例でした。というわけで、この屋敷にはピアノを弾ける人間は多いはずですが、しかし、この音色は。
マティアスは時々ピアノを弾いてくれましたが、彼が弾くのは明るく優雅な音色ばかりで、彼の手からこんな音が紡ぎだされるのは聞いたことがありません。 
支局の軍人さんたちの誰かでしょうか、とも思いましたが、彼らがこんな私的な居住空間まで入ってくるとは考えられませんでした。
(誰が――…)
オレンジ色の仄かな灯りが漏れている扉がありました。暗く激しい音色はそこから流れてきています。
扉は人ひとりがギリギリ通れるくらい、薄っすらと開いていました。
覗き込むと、蝋燭が灯されただけの薄暗い部屋の中、白っぽい人影がこちらに背を向けてピアノに向かっています。そのシルエットは男性のものでしたが、誰だか分かりません。
音色は続いています。
そして私は――魅入られたとしか言い様がないのですが――気づくと、室内に足を踏み入れていました。
途端に重苦しい音色が渦のように耳に迫ってきました。
演奏の邪魔をせぬよう気配を殺して進み、ソファではなく廊下側に突き出た出窓のスペースに腰を下ろしました。その白っぽい男性は、私に気づいていないのか、こちらに目もくれずピアノに向き合っています。

寒い部屋で、どのくらい彼の演奏を聴いていたでしょうか。
いつしか音色は柔らかいものに変わり、私は眠気を誘われて、出窓に丸くなりました。うとうとと天上の調べのような音色を楽しんでいると、ふいに音が止みました。
不思議に思って目を開けると、目の前に白い人影が立っていて――
「――ご清聴、ありがとう」
人影は身をかがめてそう言うと、
「演奏はこれで終わりだ。――部屋におかえり。こんなところで寝たら風邪をひく」
その言葉が耳に届いていたのか、いないのか――私の視線はその人に釘付けでした。
見たことも、会ったこともない人でした。
驚くほど色が白く、髪も白に近いブロンドのようで、目の色は光源が乏しいためはっきりとは分かりませんが、きっととても淡く透き通っているに違いありません。
とても綺麗な人でした。
逞しい首や肩のラインは間違いなく男性でしたが、お顔は中性的といっていい繊細さを湛えています。
その人の美しさを前にして、私は急に、寝間着で出窓に転がっている自分が恥ずかしくなりました。慌てて起き上がると、
「弾いてくれて、ありがとう」
とだけ不器用に告げて、踵を返しました。
熱に浮かされたような心地でどうにか部屋までたどり着き――…ベッドを前にして、私は考えました。
今の出来事は――…夢だったのかしら、と。
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