スウィートタイム

文字数 6,087文字

 俺は時計のアラームが鳴るより先に目が覚めた。

 時間は午前七時二十九分。

 あんまり余裕はないな。

 パジャマのままベッドから出るとそのまま洗面所に向かう。

 蛇口をひねって水を出し、何度も顔を洗った。

 横にかかってる白いタオルで顔を拭いた後、鏡を見て目ヤニが残っていないかを確認してから階段を降り、台所へ移動した。



「おはよー」



 台所で俺の朝食の支度をしてくれているお袋に声をかける。

 親父の姿はない。

 いつも通り、とっくに出勤したのだろう。



「おはよー」



 お袋は返事をした後口元を綻ばせた。



「最近早起きになったねー。圭子ちゃん効果かしら」



「おおそうだよ」



 俺はややむすっとしながらも即答する。

 圭子とは最近できた俺の彼女である。

 毎日のようにこうしてからかわれるのでそろそろ慣れてきた頃だ。

 明敏な人はもう察したかもしれないが、圭子は毎朝俺を迎えにやってくるのだ。

 だから俺もそれまでに学校に行く準備をしておく必要があった。



「あらあら。そんな顔じゃ圭子ちゃんに嫌われるわよ」



 元凶はしれっとして朝食を並べ終える。

 言い返したいところであるが、どうせ倍になって返ってくるのがオチだし、あまり時間に余裕がない。



「それじゃいただきます」



「はい、どうぞ」



 俺は手を合わせて挨拶をし、食事を始めた。

 我が家の朝食は親父の好みに合わせて和食である。

 今目の前に並んでいるのは湯気が出ている白いご飯と豆腐の味噌汁、卵焼きにほうれん草のおひたし、魚の塩焼きだった。

 生まれた時からこの味で育ったせいか、俺もすっかり和食党である。

 まずは味噌汁を一口飲み、それから卵焼きを頬張る。

 味噌汁の塩分は薄めだし、卵や甘辛く仕上げられている。

 俺と親父の好みは似ているようで違うのに、お袋はいつも俺達に合わせて微調整してくれるのだ。

 圭子の事でからかわれたりしなければもっと素直に感謝できるのにな。



「今日も美味しいよ」



「そう。よかったわ」



 お袋は大げさなくらい嬉しそうな顔をする。

 俺や親父に美味しいと言ってもらえるのが何よりの喜びらしい。

 残念ながら俺にはよくわからない境地だけど、毎日美味しい料理を作ってもらっている礼を言っても罰は当たらないだろう。

 次にほうれん草を口に入れる。

 しょうゆをほんの数滴たらしてあるだけなのに十分なまでに美味しい。

 ご近所の農家さん、いつもありがとう。

 野菜は美味しくて栄養満点な事に越した事はないしな。

 白いご飯はふっくらとつやつやと光沢を放っているようで、ご飯好きの俺には既にご馳走の領域である。

 ご飯の美味さを大いに語り、パン食派の奴には理解してもらえなかったが、ご飯派の連中とは友情を深める事が出来た事もある。



「うん、幸せだなぁ」



「いやね。褒めても何も出ないわよ」



 お袋は照れ臭そうに俺の肩を何度も叩く。

 熱いお茶くらいは出てくるんじゃないかとは思うが、今言う事でもないな。

 お袋の料理は世辞を抜きにして美味しいのだ。

 店屋物や出来合いの総菜ですませる友達の母とは大違いで、この点は大いに感謝している。



「お前食道楽かよ」



 友達の一人はやっかみ半分、羨望半分といった顔で言った事がある。

 俺は否定も肯定もしなかった。

 美味しい食事が好きなのは人間の真理だと思うのだ。

 圭子はこの点について大いに賛同してくれて、愛を深め合えた気がした。



「おかわりしてもいい?」



 出された分を綺麗に平らげた後、ご飯の二杯目があるか聞いてみる。



「用意はしてあるけど、時間は大丈夫?」



 そう言われて時計を見たら七時五十分になっていた。

 やばい、時間が足りない。



「ごめん。やっぱりいいや」



 圭子は毎朝必ず八時に家に来るのだ。

 インターンフォーンが鳴ったらすぐ出てやりたい以上、おかわりどころじゃなくなった。

 くそ、美味しいものを食べると時間が経つのが早いんだよなぁ。



「ご馳走様でした」



 両手を合わせて、小走りで部屋に戻る。

 部屋に戻るとパジャマを脱いでたたみ、制服へと着替える。

 ブレザーで青色のネクタイを締める。

 鏡の前で身だしなみチェックをした後、歯磨きをする。

 今のところ圭子とは一日一回キスをしているので、口臭にも気をつけたいところだ。

 歯磨きを終え口をすすぎ、最終点検をすませて鞄を取りにいく。 

 この時の時刻は七時五十八分。

 鞄を持って階段を降り、玄関へと行く。

 靴を履いたところでお袋が姿を見せた。



「いってらっしゃい、気をつけてね」



「うん。行ってきます」



 玄関のドアを開けて閉めたところで、遠くから圭子の姿が見えた。



「おはよー」



「おはよ」



 圭子は俺を認めるとにこりと微笑む。

 彼氏の贔屓目込みになるが圧倒的破壊力を持っていると思う。

 肩までストレートに伸ばした黒髪はさらさらで艶もあるし、一六〇センチに届かない背もちょうどいい感じだ。

 手足はすらっと細長く、肌も色白だけど不健康な印象はない。

 一言で言うならば清純系の黒髪少女だ。

 容姿に関しては美少女だと思うが、脳内で大幅に上方修正されている可能性がゼロとは言えないのでノーコメントを貫こうと思う。

 真面目な優等生で大人しくて控えめな、文化系女子とも言える。

 圭子の事なら一日でも語れる自信があるが、朝からだといい迷惑だろうから割愛しよう。



「おはよう。今日もお弁当を作ってきたんだけど、食べてくれる?」



 小首をかしげ上目遣いでどこか不安そうに見つめてくる圭子に対し、ノーと言う選択肢を俺は持っていない。



「もちろんだ。口がなくなっても食べるよ」



「口がないなら“食べる”とは言わないんじゃないかな……」



 圭子は苦笑する。

 確かに口がないと単なる栄養摂取か……?



「そうだな。栄養と圭子の愛情を摂取するわけだな」



「もう……」



 圭子は頬を染めて俯く。

 これがまた飛び切りに可愛いんだが、いつまでもここで喋っていると遅刻してしまうので、俺は圭子を促した。

 俺はともかく圭子は無遅刻の優等生だから、一回たりとも遅刻させる訳にはいかない。



「ごめん、そろそろ行こう」



「あ、うん」



 俺と圭子は肩を並べて歩き出す。

 俺達が話すのは大抵勉強の事、それから互いの趣味の事だ。

 圭子は読書家で毎日一冊は読んでいるようだ。

 俺は対照的に読書よりも体を動かす方が好きなんだが。



「小説の話とか退屈じゃない?」



 圭子は不安そうに尋ねてくる。

 確かについていけない場合もあるけど、圭子が好きな事を知りたい俺としては決して退屈じゃない。



「いや、俺でも読めそうなものを教えてくれればいいよ。小説の話ができるようになるまで待っててくれってのは厚かましいかもしれないけどさ」



「ううん、平気だよ。ずっと待てるよ」



 圭子は嬉しそうに微笑み、それを見て俺も何だか嬉しくなってくる。

 時々制服を着た同世代がこぐ自転車が俺達を追い抜いたり、反対側からやってきてすれ違ったりする。

 車道に出ると圭子には内側を歩かせ、俺が車道側に移動する。

 彼女には車道側を歩かせないのは彼氏のマナーだとお袋が言っていたのだ。

 圭子の為ならこれくらいは平気である。



「ありがと」



 圭子は恥ずかしそうにしながら小声で礼を行って来る。

 いちいち礼なんていらないと言ったんだが、「感謝を忘れたくない」と返されて何も言えなくなってしまった。

 車道を歩いていくとちらほらと制服姿が増えてきた。

 部活の朝練がない生徒の登校時間が大体この時間帯なのだ。

 その中には俺達のように男女ペアで登校している奴らもいる。



「ひゅーひゅー今日もおアツイね」



 自転車に乗った俺の同級生がそう言って冷やかしてくる。

 いつものパターンなので俺は圭子の肩をそっと抱き寄せてからドヤ顔で答えてやった。



「おう。アツアツだぞ。羨ましいか?」



「くそー、爆発しろ」



 からかいが不発に終わってそいつは悔しそうに舌打ちをし、自転車をこぎ始めた。

 からかってくる奴はこの手で撃退するのがいいと気づいた。

 圭子は顔も耳も真っ赤にして俯いているが、この際気にしてはいけない。

 圭子だとあの手の連中を撃退するのは困難だろうから。

 学校の門をくぐり、玄関に入ったところで圭子と別れる。

 圭子とは下駄箱の場所もクラスも別々なのだ。



「それじゃ昼休みに」



 小さく手を振る圭子に手を振り返して俺は自分のクラスに向かった。











 昼休みになって俺は圭子のクラスへ向かう。

 うちの学校は弁当か購買か、それとも外で買ってくるかの三択だ。

 五時間目までに戻ってくるなら、昼休み中に学校の外に出るのは許可されているのだった。

 どうせこっそり買う奴がいるのだから条件付きで許可した方がまし、という理由らしいが真偽は不明である。

 クラス前に到着するとちょうど圭子が弁当箱を二つ持って中から出てきたところだった。



「あ、孝君」



「おう。今日はどうする?」



 もちろん食べる場所の事だ。



「中庭にしないか?」



「うん、いいよ」



 こうして大抵即決するのが俺達というカップルだった。

 天気がいい日は中庭か屋上だが、中庭は日陰が多くて涼やかなので屋上よりも頻度は高い気がする。

 皆も教室で友達と食べるか、中庭や屋上で食べるかだ。

 部室で食べる人もいるが、それは大抵三年である。

 最上級生にならないと先輩に遠慮しながら食べなくてはいけない。

 文化部なんかはあるいはゆるい雰囲気で和気藹々としているかもしれないが、運動部の体育会系は理不尽だったりする。

 俺が圭子の手作り弁当なんて持って行ったりしたら、空腹のピラニアの群れに遭遇したかのように食い散らかされてしまうだろう。

 何故か俺が圭子に弁当を作ってもらっている事は皆が知っているし、「女子の手作り」に弱い先輩は多いし。

 中庭に出ると既にビニールシートを敷いて弁当を出している人達がいた。

 大抵は女子同士だったり、男女のカップルだったりして男同士で、という光景は見ない。

 もしかしたらうちの学校だけなのかもしれないが、でも男同士で外でビニールシートを広げて食いたいか、と言われたら疑問だ。

 ちなみに俺は圭子という彼女が出来るまでは教室で友達と食べていた。



「男の友情なんて女にあっさり壊されるもんなんだな」



 最近昼食を一緒にしなくなった友達の一人がそう言ってハンカチで目を拭っていた。

 反対の立場ならそうしたかもと思いつつ、イラッとしたのも事実なので圭子とその手作り弁当を散々自慢してやった。

 俺達の友情に見えない亀裂が生じたか、今のところはっきりとしない。

 それはさておき、俺と圭子は大きな木の陰が空いているのに気づき、そこに腰を下ろした。

 二人ともそれぞれハンカチを取り出し、敷いてからの話だ。

 俺は本来気にしないタイプなんだが、圭子の「洗濯するのは孝君のお母さんなんでしょう?」の一言で心が折れた。

 ありていに言えば圭子の前でこれ以上かっこ悪い態度を取りたくなかっただけなのだが。



「さあ召し上がれ」



 圭子は初めて俺に弁当箱を手渡す。

 移動の際俺が持つのがセオリーと言うかマナーみたいなものだと思うのだが、圭子はそういう事を嫌がるのである。

 食べてもらう直前に渡したい、という主張に俺の方が折れた。

 こんな事で喧嘩するのも馬鹿らしいしな。

 言われるがまま弁当の蓋を開く。

 今頃言わせてもらうが、俺の弁当箱は二段重ねである。

 上の段にはおかず、下の段にはご飯というのがいつものパターンだ。

 今日は上の段にはブロッコリーとソーセージの炒め物、ポテトサラダ、ヒジキ、サヤインゲンのゴマあえにトンカツ。

 下の段にはオニギリが八個。



「今日も美味そうだな。いただきます」



 弁当にかぶりつく俺を圭子は楽しそうに見ている。

 本来、美味しい弁当はじっくり味わって食べるべきなんだろうが、生憎と腹が減っていてそんな余裕がない。



「圭子も食べなよ」



 俺はポテトサラダを飲み込んでから圭子に注意する。

 自分が作った物を美味しそうに食べる俺の姿を見るのが幸せ、と言うのはいいんだが、じっと見つめられているのも何だか具合がよくない。



「うん」



 圭子もようやく食べ始めた。

 上手に箸を使いながら、上品さすら感じる仕草で食事を摂るのが圭子だ。

 見習いたいと思うが、なかなか上達しないのがもどかしい。



「あ、孝君」



 呼ばれたから振り向くと圭子の白い指が伸びてきて俺の頬を撫でる。



「ご飯粒ついてたわよ」



 そう言って指をぺろっと舐める。

 そんな動作にエロスを感じるのは俺だけなんだろうか。



「ああ、すまん」



 俺は馬鹿な考えを追い出しつつ誤る。

 そんな俺を見て圭子は声を立てて、楽しそうに笑う。

 俺が感じたバツの悪さなんて簡単に吹き飛ばされてしまった。

 圭子はつくづく凄い女だ。

 俗に言う惚れた弱みってやつかな……ちょっと違う気もするが。



「ご馳走様でした」



 俺は食べ終わると両手を合わせて挨拶する。



「お粗末さまでした」



 まだ食べ終えてない圭子が返事をしてくれる。

 暇だから圭子の様子を眺めようと思う。

 圭子なら何時間眺めていても退屈しないのだ。

 下手をすると変態になりそうだが。



「なあに?」



 圭子は小首をかしげる。

 そんな姿さえ様になっていて可愛らしいと思うので口に出した。



「いや、圭子が彼女でよかったなぁとしみじみと思っていたところだよ」



「やだ、孝君」



 圭子は顔を紅潮させてもじもじとする。

 何回褒めてもすぐ照れるところもいいなって思う。

 俺は確かに圭子にイカれている。

 しかしそれはとても素晴らしい事じゃないだろうか。

 俺達は五時間目の予鈴がなる少し前まで、まったりとした時間を過ごした。
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