第25話 波間に漂う日常

文字数 6,000文字




「よしっ、と……」

そう言って私は、台所にあるテーブルの上で弁当箱に(ふた)をした。

自分の弁当は、毎朝自分で作っている。

うちは母子家庭。
お母さんが外で一生懸命働いているのだから、家事はなるべく私がするようにしていた。


この朝の時間、お母さんはだいたい眠っている。
というのも、お母さんの仕事は水商売だからだ。

私はお母さんの仕事があまり好きではなかった。
しかし水商売の方が、効率よくお金が稼げるというのがお母さんの言い分だった。


弁当を小さなカバンに詰め、学生カバンも持ち、足音に注意して台所のすぐそばにある玄関に向かう。

靴を履こうとしたところで、後ろの方ですっと、ふすまが開く音がした。

奥の暗い部屋から明るい台所に出てきたお母さんが、目を細めてぼさぼさの頭をかいている。

ショートパンツにTシャツという格好。
Tシャツの首回りが伸びてしまって、白い肩がのぞいている。

「おはよ…… 琴音(ことね)ちゃん…………」
「おはよって、お母さん……さっき寝たとこでしょ?」
「娘の見送りはちゃんとしたいのよ……」

そう言って、大きくあくびをしたお母さんが水道からコップに水を注ぐ。
ごくごく一息に飲んで、ぷはっーと息を吐いた。

少しお酒臭い……

「琴音ちゃんは例によって、また一晩中起きてたの?」
「夜中は起きてたけど、昨日学校から帰ってすぐに、少しだけ寝たわ」
「そんなことして睡眠不足が続けば、肌も荒れてすぐにおばちゃんになるから。ぴちぴち高校生の時代なんて、あっという間に過ぎてしまうわよ?」
「ぴちぴちって…………」


お母さんには自分の体質……もう一つの世界で戦闘をしなければならないこと……については話していない。
正確には一度言ったのだけれど、信じてもらえなかった。

それ以来、深夜の方が勉強しやすいからという理由で、学校から帰ると晩御飯を作って眠り、22時前に起きて、朝までそのまま寝ないという生活を続けている。


「そう言えば、3丁目の土井(どい)さんが数日前に、琴音ちゃんが男の子とファミレスにいるところを見たって言ってたけど、彼氏でもできた?」
「ッ! そんなんじゃないから!」

思わずムキになってしまった。
ご近所ネットワークを甘く見ていた。

お母さんの顔を見ると、その近くに『はてな』が出ているように見える。


――――彼氏どころか、一緒に戦ってもらう確約さえ保留になっている。

そして仲間になるどころか、もう一度向こう側で会ったとき、また戦うことになるかもしれない。


お母さんから顔を(そむ)け、玄関口で靴を履き始める。
それから『いってきます』を言うために、再びお母さんの方を向いた。

すると、お母さんはにやりと笑っていた。

「男の子の友達はできたのね?」

お母さんはなにか誤解したようだ。

「だからそうじゃないって言ってるでしょ!」

いちいち説明するのも面倒だったので、そのまま学校へ行くことにした。

「今日はお赤飯にするから」

そう嬉しそうに宣言したお母さんを無視して、玄関の戸を閉めた。


(さび)の浮いた手すりに触れないようにして階段を下りる。
しばらく歩いてから、くるりと振り返り、自分とお母さんが住んでいるボロいアパートを見た。

いつもの習慣をこなしてから、学校に向け歩き出す。


私は自分の家の貧しさからくる劣等感を燃料に、学業を頑張っていた。
そしてこの辺では、かなりの進学校に合格することができた。

この劣等感をバネに、これからも頑張ろう。
そう胸に刻み、斜めから朝日が視界に降り注ぐ、(まぶ)しい住宅街を足早に急ぐ。


学業のほかにも、九条(くじょう)君との関係をどうするか、早く決着をつけなくては……

九条君は、私の隣のクラスの中でも、特に目立つ生徒というわけではない。
砂浜で一つの砂つぶを探すような感じの、周りになじんでいて気にならない存在だ。


そんな九条君のことを私が知っていたのは、学級委員をやっていたため、私が職員室によく行くことが多いからだ。
職員室での九条君の評判はすこぶる悪い。

遅刻常習、授業中によく寝ている、授業態度が悪いなど……

これらの先生の嘆き声が聞こえた後、たまにくっついている言葉がある。
…………成績は優秀なのに、という言葉だ。

1年生は入学後、まだこの学校でテストを受けていない。
なのに成績優秀とはどういう意味なのか?

入試の結果のことを言っているのだろうか?

とにかく先生たちの怨嗟(えんさ)の声のおかげで、さきの戦闘前に、私は九条君のことを知っていたということだ。


前回のファミレスでは、私が変にマウントを取ったため、停戦合意にも至れなかった。
このままでは本当にもう一度、同じ相手と戦闘を行うことになりかねない。

同盟とまではいかないまでも、なんとか九条君のご機嫌をとって停戦合意はしなくては…………

そう思い、通学路を急いだ。


 
目の前をたくさんの人が通り過ぎる。
いろんな人が、俺を見てゆく。

ある人は『コイツは何をやっているんだろう』という好奇(こうき)の眼で……
ある人は、かわいそうなものを見る眼で……
ある人は、汚いものを見るような眼で……

そろそろ足がしびれてきた。
両手を使い、体を浮かせるようにして足の位置を変えた。


最近よく見るようになった同級生が、自分がいる場所とは違う、反対側の職員室の引き戸から廊下に出てきた。
その人物が目ざとく俺を見つける。

その眼を見ると『面白いものを見つけた』という眼をしていた。

俺は無視するように目を閉じた。

「あなた何やってるの? こんなところで……」

片目を開けると、河西が近くまで歩いてきて、そばで見下ろすように話しかけてきた。

「見りゃわかるだろ…… (さと)りを開いてるんだ」
「ふ~ん。21世紀の悟りは菩提樹(ぼだいじゅ)の下じゃなくて、職員室前の廊下で正座(せいざ)をして開くのね」

そう言って俺の(かたわ)らでしゃがむと、しびれている俺の足を指先で突いてきた。

「ばっ……バカ、やめろ! ピリピリするだろうが!」

河西はそのまま俺に話しかける。

「学校……何時に来たの? また遅刻したのよねえ?」

『ちゃんと言わないとお仕置きするわよ』といわんばかりに、俺のしびれた足を突いて、もうすでにお仕置きしていた。

「にっ……2限目の途中です。これでも自分の中では頑張った方です……ハイ…………」
「全然反省の色が見えないんだけど……2限目の途中ってかなりの重役出勤よね」
「ッ……つねるな! マジでしびれてるんだって! ハイ、ウソです……ごめんなさい。つねらないでください。お願いします」

河西が途中で、しびれた足につねる力を強めたので、お願い口調になる。


その時、廊下にチャイムが鳴り響いた。
3限目の開始の合図、休み時間の終了だ。

同時に河西が俺の足を少しさすった後、解放した。

「今日の放課後、このあいだのファミレスの近くにある喫茶店に来なさい」

河西は喫茶店の名前を言ったあと、廊下をスキップするかのように歩いてゆく。

俺は少し足を崩し気味(ぎみ)にして、さっきまで河西が触っていたところをさすった。


河西の後ろ姿を見ていると、自分が座っているそばの職員室の引き戸が開いた。
引き戸から顔を出した担任の馬場(ばば)が、俺に声をかける。

「九条、もういいぞ。早く教室にいけ」
「すみません。立てません。少し時間をください」

スパーンッ、と教科書で頭を叩かれた。

――――――不条理(ふじょうり)だ。



昼休みが終わって5限目。
化学の授業は、先生が休みのため自習だった。

しかし自習というのは名ばかりで、誰一人として勉強している奴はいないように見える。


……いや、一人いた。

教室の後方に席がある外田(そとだ)だ。
ノートを開いてペンを動かしている。真面目な奴だ。


それを横目に俺は、3限目の始めに河西に来いといわれた喫茶店の場所をスマホのマップで調べていた。

ケーキ屋が併設(へいせつ)された喫茶店らしい。
ケーキ屋はこのあたりではかなり評判のいい店のようだ。

前回はパフェで、今回はケーキ。
俺は甘味処(かんみどころ)を食べ歩くための財布になりつつあるのではないだろうか?


さっきまで背中を向けていた、目の前の席に座っている木場(きば)が後ろを向いた。

「そういやさ、九条。3限目の休み時間に、隣のクラスの河西(かさい)と職員室前の廊下で楽しそうに話していたそうじゃないか?」

コイツはどこからそんな情報を仕入れてくるのだろう……
なかなかの情報収集能力だ。

というより職員室前の廊下で正座させられている奴なんて、そうそういないから目立って当然なのか?

「別に楽しくなんてないぞ。職員室前で正座されられていた俺を見て、遅刻した俺を河西が責めていただけだ」

俺はつまらなそうに、事実を話した。

「どうして河西は、お前とだけは話をするんだろうな? 性別を問わず、河西が話しかける相手は今のところお前だけ。上級生でも河西に告白する奴はいなくなっているらしい。それで、ついたあだ名が『鉄壁の黒百合(くろゆり)』だ」

…………黒百合って、高山植物のことだろうか?
手が届かないという意味と、滅多にお目にかかれない希少性という意味が掛かっているのか?

そんなやつに俺だけ話しかけられているのだとすれば、それは俺にとって、とんでもなく面倒なことに巻き込まれている、といえるのではないだろうか…………


他の人間からはわからないだろうが、河西が俺と話す理由は2つだけだ。

俺が河西と同じ体質であること。
もうひとつは、一度戦って、二人とも向こうの世界から帰ってきたということだ。

しかし二人のあいだに不戦協定が結ばれているわけではない。
いつでも銃口を向け合う仲であり、そのくせ、現実世界では俺だけに話しかけてくるという面倒くさい間柄(あいだがら)だ。


だがそんなことを木場に言えるわけがない。
……眠ると戦わないといけないなんて言っても、木場に理解できるわけがないんだけど。

「確かに河西は『鉄壁のつるぺた』だな。もっと牛乳を飲むべきだ」

俺は話をそらし、自分の体質のことから逃げることにした。

「お前バカなの? 河西は()せているだけで普通に胸あるだろ…… それに今高1だし、これからまだ伸びしろがあるんじゃねーか?」


木場の話の途中で、隣の4組がざわつくのが聞こえた。
自習時間であるこのクラスもかなりうるさいのだが、それよりも隣のクラスの方が(にぎ)やかに感じる。

右斜め前の席に座っている佐々木は、他のクラスメイトと話していたが、野次馬(やじうま)根性丸出しで廊下に出ていく。
そしてすぐに戻ってきた。

俺は佐々木の席まで歩いていき、話しかける。

「隣のクラス、なんかあったのか?」

真面目な顔で尋ねると、佐々木は少し困った顔で答えた。

「なんか、河西さんがどうとか言ってたけど……」

河西の名前を聞いた途端、ヤな予感がして、俺は一瞬顔がこわばってしまった。

俺のあとについてきていた木場に見られているのに気づき、すぐにいつもの調子に戻す。
佐々木にさらに質問した。

「河西さんがどうかしたのか?」
「いや、わかんないんだけど……」

佐々木の答えは要領を得ないものだった。

廊下まで出たのなら、ちゃんと調べて来いよ。
そう思いながら、俺はさっきの佐々木と同じく、廊下に出た。


英語教師の田中先生が河西を背負って、4組から廊下に出てきたところだった。

廊下には、田中先生に先立って、一人の生徒が走っていくのが見える。
…………保健委員だろうか?


田中が河西を背負い、教室から遠ざかっていくのを見ながら、俺は河西のクラス、4組の引き戸を開けた。

隣のクラスの生徒が一斉(いっせい)に俺の方をみる。
だが、そんなことお構いなしに、すぐ近くの女生徒に声をかけた。

「河西さん、どうしたのかな?」

戸惑(とまど)っていたが、答えてくれた。

「わかんない。なんか先生が肩を揺すっても起きなくて…… ちょっと前にも同じことがあったから、すぐに保健室にって……」


………………間違いない。

河西は向こうの世界に(とら)われてしまった……

「河西さんは、いつ頃からそんな感じだった?」
「いつ頃からって…… 五限目開始の起立の時、立ってなかったけど……」

短くお礼を言って、教室を出た。
すると俺のあとについてきたのか、廊下に木場と佐々木がいた。

「悪い。……俺、今日早退するから。先生に言っといて」

俺のあまりに急な発言に、木場が()頓狂(とんきょう)な声を上げる。

「はあ? お前、早退って……」

その声を背中で聞きながら、廊下を急いだ。

「おい! カバンは? カバン忘れてるけど?」

木場の声を無視して、俺は廊下を走り出した。



体育館の東側のフェンス前。
日の当たらない場所に、俺はやってきた。

目の前には鬱蒼(うっそう)と茂った林。
林の中には急な下り坂がある。


この学校は丘の上にある。
そして正規のルートを使わずに、学校の丘を下ろうとする場合、目の前の(けもの)道を通るしかない。

以前、学食が混んでいた昼休みに、木場達と一度降りたことがある。
食糧調達代替計画……通称プランC。

かなり急な坂を昇り降りするためと、この道を使うと生徒指導の先生に目を付けられるため、この道はもう使うまいと思っていたけど…………


俺は目の前の高さ3メートルのフェンスを(にら)みつけた後、フェンスに指を食いこませ、登り始めた。

…………悠長(ゆうちょう)にしている暇はなかった。
こちらの世界で1時間経てば、向こうの世界ではその約3倍、3時間が経過する。

3時間も過ぎた後、河西が生きている保証はない。


フェンスを飛び降りて、林の中の急な坂道を、足の裏を滑らすように下り始めた。
相変わらず急な下り坂。

「うおッ……」

いきなりつまずいた――――

バランスを崩し、急な下り坂で前屈みになる。
転ばないように足を前に出すと、そのまま坂を駆け下る姿勢になった。

あっと言う間に坂を下り、目の前に横たわる歩道に出た。
しかし減速できず、目前に迫ったガードレールを、ハードルのように飛び越してしまった。

そこに……学校の丘を回り込むように右方向からやってくる車。
急ブレーキ音が響き渡る。

俺は着地と同時に体を(ひね)り、車のボンネットに両手を突く。

アスファルトに着いた両足が少し後ろに押されるような感覚の後、体は停まった。


運転席の男性はしばらくハンドルに額を付けた後、気持ちが落ち着いたのか、目を見開いて手の甲を俺に向けて中指を立てた。

胸の前で両手を合わせて、俺は頭を下げる。
そしてすぐに道路を横切り、反対側のガードレールを乗り越えた。


…………こんなところで死んだらシャレにならない。
ここで死んだら、俺が何をしようとして学校の獣道を下ったのか、誰もわからないだろう。


点滅し始めた青信号を渡り、もう看板が見えているドラッグストアに走る。

どうしてドラッグストアなのか……?
河西と一戦を交えた後、腑抜(ふぬ)けてしまったのか、最近俺は、家で爆睡してしまっているからだ。

このまま保健室にいって、河西の隣のベッドで横になっても、いつ睡魔(すいま)が訪れるのかわかったものじゃない。


――――運に任せるぐらいなら、行動したほうがいい。
ドラッグストアで、睡眠薬のようなものが手に入らないか賭けてみることにした。


――――少なくとも、睡眠改善薬はあったはずだ。


目の前でゆっくり開く自動ドアの間をすり抜け、俺はドラッグストアに滑り込んだ。










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