第1話

文字数 2,959文字

 ネコ様にお仕えした日々を、下僕が振り返ります。
 そう、あの輝かしく美しかった黄金の日々を……

 我が家のネコ様は生後2~3ケ月ほどのご幼少のみぎり、路上にて知人に保護されました。住宅事情が許されずネコ様と一緒に住まうことができなかった知人は、当家にネコ様を託すことにしました。
 以来、わたくしがネコ様にお仕えすることになったのでございます。

 ネコ様の一日は優雅に始まります。
 起床した下僕に飲み物と食事を催促なさいます。
 下僕のすねに頭部をゴンゴンこすりつけながら、
 ああっ、ネコ様、ちょっと痛うございます。
 ネコ様は冷たい水は好みません。
 冬の朝は下僕が飲み水にお湯を足すまで待っておられます。
 お気に入りのカリカリがないなど、もってのほかでございます。
 お気に入りのものが給されるまで食されません。
 かくも厳しいネコ様でございますが、時折下僕に腹などを見せ、褒美である、好きなだけモフるが良いと鷹揚な態度をお見せになることがございます。
 しかし、程よいところでやめておかねばなりません。
 モフりすぎはネコ様の勘気に触れ、ネコキックを頂戴することとなってしまいます。
 また、おもちゃの猫じゃらしなどを持ち出し、下僕をその愛らしさで翻弄するのもネコ様ならではの魅力と申せましょう。
 しかし、その気にならなければ下僕がどのような玩具でお誘いしても乗って下さらない、そんな気まぐれなネコ様なのでございます。
 ああ、もふもふネズミさんぬいぐるみはお気に召さないのですね……
 ネズミさんも頑張っているのですが…

 冬場はさんざん下僕を湯たんぽ代わりに重宝されていたネコ様でございますが、夏場は寄ってきてくださいません。
 クーラーで冷えすぎた時にたわむれに下僕の膝にお乗りになることがございますが、すぐに暑くなるのかソファーに移動されます。
 暑い日は冷やっこい床でとろけるチーズよろしく溶けていることが多いネコ様ですが、猫缶を開ける音は聞き逃さない耳ざといネコ様。
 夏バテを知らないネコ様の食欲がやや恐ろしい下僕なのでございます。
 当家のネコ様はやや太ましく、体形は球体に近いので、ネコというよりタヌキなのではと、まことしやかに噂されておりますが、そのようなことはございません。
 わたくしのお仕えするネコ様は世界一。
 そのふくよかな腹部も、太腿も、肉球も、短めのしっぽもすべて完璧、完璧なのでございます。
 下僕は時折、ネコ様をひっくり返して点検を行います。
 乳首はきちんと八つあるか、
 おなかの毛が渦巻いているところは、おへそなのですが、紛失されていないか、
 お腹は相変わらずふかふかのモフモフなのか、
 肉球はぷにぷにと薄桃色なのか、
 点検箇所は無数にございます。
 しかし、大抵の場合、お腹のモフモフを点検しているところでネコ様に叱られ、ネコキックかネコパンチを頂戴することとなってしまいます。
 しかし、大事な業務でございます、わたくしは下僕としてネコ様をひっくり返すことをやめるわけにはまいりません。
 太ましいネコ様ですが、そこはそれネコ様でございます。
 カーテンレールの上を伝い歩くなど朝飯前、
 あああ、レールがみしみし言っております、ネコさまああぁぁぁっ
 高い家具の上に潜み下僕の背中に飛び降りられたり、
 いきなり足首を狙ってきたり、
 油断ならないのがネコ様でございます。
 これらの行為はネコ様の狩猟本能によるものなのか、
 下僕への愛ゆえの戯れなのか、悩ましいところでございます。
 また、当家のネコ様におかせられましては、何故か、魚よりも野菜をお好みになる傾向がございました。
 うっかりと野菜を放置しようものならキャベツも白菜も、お齧りになってしまわれます。
 それだけならばよいのですが、お吐きになられます。
 ベランダに猫草は用意しているのですが……
 猫草だけでは足りないのか、
 アブラナ科の植物がお好みなのか、
 下僕にとっても頭の痛い問題です。

 そんな蜜月は長く続いて、愛らしい子猫であったネコ様も20を超えようかという高齢になられました。
 変わらず愛くるしいネコ様でございましたが、
 ジャンプ力も稲妻のような俊敏さも今は昔、
 お気に入りの座布団の上でウトウトされることが多くなりました。
 薄っすら白くなられた毛皮を見ながら、
 遠い日の花火のようにネコ様がお小さく、わたくしの手掌に収まって居られた日々を思い出します。


 ここから、ちょっと、さみしいはなしをします。
 ネコ様が20になられる3~4年前のことでございますが、時折、けいれん発作が見られるようになりました。
 主治医の御見立てでは「腎臓が弱っているので、脱水によるけいれんではないかと思います、ご飯を変えて様子を観ましょう」とのことでした。
 高齢のネコ様が腎臓・甲状腺に異常をきたすのは珍しいことではなく、加齢による変化でしょうとのお話に不安を感じながらも「よくあることです」との先生の説明に、さすがのネコ様も寄る年波には勝つことができないのだなぁ、しっかり管理して差し上げねばと下僕は思いました。

 しかし、けいれんの回数が徐々にですが、増えてきたことに下僕は一抹の不安を感じました。
 そして、セカンドオピニオンを、と考えて大きな病院の門をたたきました。


 …ネコ様は「脳腫瘍」でした。
 まだお若い獣医師の丁寧で優しい病状説明の後、
「手術するか、対症療法で自宅療養するかを選択してください」
 と、まことに悩ましく、狂おしい選択が下僕に突き付けられました。

 当家のネコ様はペットクリニックカルテの性格項目の「シャイ」に二重丸が付けられ、その横に「狂暴」と書かれるほど「病院」が苦手です。
 注射の一つも打たれようものなら下僕は小一時間、ウニャウニャと小言を頂きます。
 そして、しばらくの間、下僕はシカトされます。
 手術のために移動が大嫌いなネコ様が車に乗って大きな動物病院に片道2時間以上かけて移動しなくてはならないのも悩ましい事柄のひとつです。

 悩んだ末、
 下僕は自宅療養を選択しました。
 週二回の点滴、内服…
 これでどれほどネコ様が永らえられるのか、
 この選択は良かったのか……

 ただ、現代医学の恩恵は素晴らしいもので、発作はほぼ見られなくなりました。
 一時的なものでも、穏やかに過ごせるのは良いことでした。
 老婦人の夏の様に、日々が緩やかに過ぎていきました。

 そして、
 ある花曇りの穏やかな日にネコ様は旅立たれました。
 ネコ様用のベッドで、眠るがごとき魂の飛翔でございました。
 下僕は、今にも目を開けそうなお姿に、
「猫缶をぱっかんしたら、歩いてきそうなのに…」
 と、実感がわかないまま、泣きもせず、ぼんやりと考えておりました。

 荼毘に付される前、出棺の時に
 ネコ様が逝ってしまうと、
 ただ、晴れ晴れと寂しかったのが思い出されます。

 ネコ様のお世話になった霊園さんは小さい山をお持ちで、納骨堂に入ることも、散骨を選ぶこともできるので、下僕は散骨をお願いいたしました。
 後日、墓参に伺った折、山桜が薄桃色に山を彩っているのを拝見して、その選択は良かったと、下僕は思いました。
 ネコ様の肉球も桜のような薄桃色でしたね。

 山桜が吹雪いています。
 下僕はすこし、泣きました。
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