過ち

文字数 4,289文字

アディムらの観察方法は大きく分けて2通りある。モニター越しの映像体験としての観察と、実地体験である。アディムはその両方を活用しているが、今回はとりわけ関心をそそられた内容であったため、後者の方法を選択した。
 彼の関心。それは単純にも、恋についてであった。この単純な関心に彼が囚われて珍しい観察方法を採ってしまったのは、イバの存在が原因だった。つまり、彼とイバは恋仲だったのだ。
彼とイバの出会いも、そして恋仲になった理由も、とても単純なものであった。
 2人の初めての出会いは食堂。それはちょうど彼が研究に行き詰っているときだった。夜間営業で薄暗い照明が食堂全体を照らす中、その隅っこの方でひっそりと一人ため息をついて、明日が自分の命日だと予感しているモノが見せるような蒼白に染まった顔面を黒い机と対面させ、しかしその瞳は反射する自分の顔を見つめているわけでもなく、ただ机の黒のさらにその奥底の何かを放心状態で見ている彼に、弾力のある声がゆっくりと投げかけられた。それは意識の隙間に違和感なく溶け込む声だった。彼の意識は一瞬にして机の奥地から戻って来た。
 すると目の前には、うっすらとした女性が立っていた。見上げる彼の顔を目にして軽く一笑した彼女は、「なんて馬鹿みたいな顔なの。」と労わりと微笑みで包んだ言葉を発した。
 アディムのにべのない態度にも臆することなく猛進してくる彼女に、彼も次第に心を開いていった。それはまるで、崖を背にして行き場を失った子ウサギが最後の望みをひとえに引っ提げて行う猛突進の最中の狂気溢れる雰囲気に気圧されたからではなく、不思議と彼女の表情や声音が、絶妙に彼と相性が良かったからだった。
とても珍しかった。彼自身もそう感じていた。彼から話しかけることなど。もう曖昧な記憶を辿っても思い出せないほどに。彼の心中は、自分の奇妙な行動に七転八倒のうえ、驚天動地のすえ、醜態を晒した。それほど珍しかった。
 そのくせに話し始めると、饒舌で雄弁だった。いつもと変わらぬ側溝に浮き沈むヘドロさえも包み込んでしまう勢いの聖母感が、騒然な口喧しさに拍車を駆けていた。むろん手綱を握るのは、聖母たるイヴァの方なのだけれども。
 昔も今も巷で良く行われているこの手の異性間交流の、つまりは恋愛への発展の紋切り型から、彼らもコップの縁でへばる表面張力さんよろしく漏れ落ちることはなかった。ただ生命体がほとんど皆無なこの孤独な場所において実を結んだということが特別なだけであった。いや、あと一か所典型と違う点がある。特段どちらがということもなく、まるで朝から夜に、夜から朝に、黄昏時から宵の口になるように。はたまた枯れ木に青葉が生え、若葉に変わってゆくように、事の流れとして全く緩急も凹凸もなく、2人の関係が発展していったこともだ。その特殊性は、彼らの相性というか、本音よりもより深い場所で理解し合えると試行錯誤している互いの信頼感というかを深く映し出していた。
そうだからアディムの当面の関心は、恋愛にあった。何かにつけて恋人や夫婦たちには感情移入してしまう。観察行為に私情を持ち込むことはもちろん御法度なのだが、なぜか関知されずにいた。おそらくは、監視に当たるORIONのどこかしらに不具合でもあるのだろうと、彼は勝手に揣摩していた。彼女に向ける信頼感と同じほどの過信だ。
 もちろんオクディトゥルの決戦においても、危険を顧みず現地調査をわざわざ行ったのは、専らの関心事である恋愛が、その引き金となったからだ。
 恋愛は常に人を貶めようとニタニタ付け狙っている。強烈に良いものには、必ず表裏がある。アディムはまだそのどれも知りようがなかった。全ては主の能力そのものに委ねられることも。全てが主の意思に従順過ぎるが故に。全てを自在にできることへの責任も。何も彼は知りようがなかったのだった。
 言い訳ではない。常々世はそういうモノなのだ。ただ知りようがない。その一言に尽きるのだ。その一言が全てを赦してしまい、台無しにしてしまう。そう、それさえも。知りようがないのだ。仕方のないことだ。
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 「心拍数の上昇のため一時的に感覚を遮断しました。」
 寝ぼけ眼を擦りながら、無事感覚遮断に成功したことを察知した。虚しい典型文なのに、言葉の全部をつぶさに脳内に焼き付けなければ理解できないほどに、意識が錯乱していた。頭の中でぐわんぐわんと拡がる波紋を、それ以上拡がらないように制御しながら、ようやく意識を保っていた。
 (水を・・・・・)
 心の声に呼応したシステムが、アディムの目の前にコップ半分くらいの水を用意してくれた。それをひと息で飲み込むと、最後のひと踏ん張りで現実に戻りつつある意識を、完璧に自分の中へと取り戻した。
 どうやら手動で遮断を行うよりも早く、システムが危険を察知して遮断したらしい。
 無事意識が戻ったアディムには、先ほどまでひっそりと同行していたコインケたちの命運を確認しなければという考えが、何よりも先に歩み出てきた。
 目が飛び出しそうになった。まずアディムが確認したのは、この星の驚異についてであった。それに驚愕した。彼の直面している環境、それがさっきとは比類するべくもなく変容していたからである。
 鏡面世界を思わせる灼熱の白銀砂漠から一変、同じ白銀でも対極な世界、そう、そこには分厚い氷が巣くう氷雪の世界が拡がっていた。さらには吹き乱れる吹雪が、白銀の世界を一瞬にして紫紅の世界に豹変させては止み、またさせては止みを幾度となく繰り返した。この奇妙さに気を取られコインケたちのことを思い出すまでのわずか少しの間にさえ、白銀から紫紅へ、紫紅から白銀へ、その慌ただしい模様替えが幾度となく行われた。
 アディムにはコインケたちにとってこの状況がいかほど不味いか、そのことが気がかりでならなかった。それを煽るように観察室から異形な世界を眺めてみても、彼らは見つからない。珍しく焦ったアディムは、強い語気に任せてシステムを呼び出し、捜索に当たらせた。
すると即座に、ことによるとこれはもう駄目かもしれないと悲観している無能なアディムに対し、とても優秀なシステムが彼らの存命と姿を指し示した。
 状況はというと、予想よりも悪くはなかった。彼らはこの雪風と寒さと、そして変貌の真っただ中で、即席の雪の地下室を作って見せたのだった。彼らの故郷メイトドスは、今のこの環境と似通っていた。先ほどの灼熱世界とは打って変わって、ここは彼らの縄張りみたいなものだった。
 それもさらに好都合なことさえあった。断続的に、そして短時間的に吹き荒れる雪のおかげで、新雪が常にある状態で、雪は多くの空気を含んでいた。それが断熱材の役割を果たし、肉体から発する熱を部屋に留め、他方部屋に入り込もうとする冷気から彼らを守ってくれていた。
 ただいくらコインケたちと言えども、激変する気候と降り積もる新雪のせいで、地上に簡易の避寒地を築くことは不可能に近かった。猿も木から落ちるのに、木が茨のようになっていては、そもそも登るのも無理だろう。それと同じことだ。いくらその道の達人であろうとも、全てにおいて万能というわけでは決してないのだ。
そこでまず吹雪の止む幾何の時間に、故郷で培った独特の身体能力を用いて、素早く入り口を作った。彼らの手は、雪かきが得意なスコップのような形をしている。それが命綱であった。
 そして、そこから積雪の中に巨大な空洞を掘り、即席のかまくらが完成といった具合だ。しかし空気の確保には四苦八苦していたようで、新雪が積もるたびに新しい通気孔を繋げるという手段で妥協した。さすがのコインケたちもこの激変に至っては、未曾有の有様だったのだ、仕方ない。
 さらに良いことには、雪や氷からは水分も摂取できる。焼けつくような業火の中で汗を垂らし切った彼らにとってこの世界は大げさではなく極楽浄土そのものだ。まさに運命が彼らの味方をしていた。
 アディムにはただのコードの成り行きに過ぎないのだが、しかし彼もまた運命を感じざるを得なかったのは、疑いようのない真実であった。
 そしてコインケたちは、かまくら式地下室の中で氷雪に貪りついた。
火などはない。しかもこの密閉空間で火を熾すことは自らを死へ誘うことを、彼らは野生的にも理屈的にも良く理解していた。
 この気候ではそもそも何者も好き好んで足を踏み入れることはないだろうし、この新雪の量だ。雪や氷は綺麗なままで、むしろろ過した水より綺麗かもしれない。彼らはそう期待して―いや実際にはメイトドスでも雪を食べることもあるのだから経験則に照らし合わせて―水分を思う存分味わった。
「おい、マーク、これは愚行じゃないのか?」
 ふと、そう自分の疑問を口にしたのは、アディムだった。
 すると、マークと名指しされた人物がすぐさま返答した。
 「いえ。データによると、もちろん予想もついているとは思いますが、彼らはあなた方とは身体構造が異なります。氷雪からの水分摂取はむしろ彼らに適しています。」
 アディムには彼の返答の一部分が引っかかっていた。こいつらAIたちはいつも気分を逆なでしやがると。いつも余計な言葉で台無しにする。奴らにとってこの余計な言葉が、素晴らしいコミュニケーションの一部だと勘違いしていることが余計腹立たしい。なんてポンコツなんだ。これが超進化を遂げた機械だっていうのか?全く無駄な進化だな。アディムは珍しく憤慨した。心底失望し、内心言葉を荒立てた。
 近頃珍しいことがよく起こる。
 「・・・・・そうか。ありがとう。」
 彼は素っ気なく返事をし、皮肉を込めて謝辞を一言付け加えた。しかしマークにはそれは伝わらないだろう。彼にとってこのやり取りは、全く持って順調に行っているように見えるのだから。
 ところで彼ら研究者たちには、マークやORIONたちとの長い共同生活を経て、凡人とは異なる能力がいくつか身についていた。進化するのは機械だけではないとういことだ。そしてその一つが意識の遮断であった。完璧ではないものの、感覚でその方法をなんとなく理解していた。おそらくマークが何も機嫌取りをしてこないということは、この技がうまく効いたということなのだろう。アディムはまたそう邪推した。彼はまた何も知らないのだが。
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