第1話 神は死んだ、私も死んだ?

文字数 5,443文字

 午後四時過ぎの駅前は帰宅中の学生で賑わっていた。電車が駅に到着し、駅の改札からどっと人が出てくる。改札から少し離れたところで、天野愛心(あまのあこ)は人の流れの中に部活の先輩と後輩がいないか探していた。改札前に列をなしていた人もしばらくするとまばらになる。愛心の待ち人はまだ来ないようだ。

 「すみません」

 そんな愛心に声をかける人がいた。顔を向けると温和そうな初老の女性が立っていた。手には「聖書を知っていますか」と書かれたパンフレットを持っている。

 (ついてないな、宗教の勧誘か)

 愛心は心の中で溜め息をつき、初老の女性と目を合わせない様にスマホの画面に視線を落とした。

 「あの、あなたは聖書を読んだことはありますか」

 初老の女性はめげる事無く愛心に話しかけてきた。愛心は無視を決め込もうと思ったが、女性の存在を深いに感じたのでさっさと立ち去ってもらう事にした。

 「もし良かったら少しお話をしませんか? 若い方に色々と役立つ事が書いてあるんですよ」

 ニコニコと笑いながら話しかけてくる女性を一度睨みつけてから愛心は口を開いた。

 「『神は死んだ』ってドイツの哲学者が言ったのを知ってますか? そんな時代遅れの本、興味ありません」

 そして、早足にその場を立ち去る。

 (なんであんなのに声をかけられるのよ。まったくついてない)

 待ち合わせ場所の改札から少し離れてしまったところで、愛心の手の中のスマホがぶるっと震えた。たった今メッセー字を受信したようだった。内容を確認するとそれは待ち合わせ予定の後輩からだった。

 『急用ができて行けなくなりました。買い出しは狭山先輩と二人でお願いします。ごめんなさい』
 「やった!」

 メッセージを読んだ愛心は思わず声を上げた。あまりの嬉しいニュースに変な女性に絡まれていたことなど地平線の彼方に飛んでいってしまった。
 
 「これで狭山先輩と二人きり!」

 狭山圭一(さやまけいいち)は高校の演劇部の先輩で、愛心の片思いの相手だ。高校三年の狭山は次の公演を最後に引退するのだが、愛心はなかなか距離を詰められずにいた。

 「二人っきりで買い物なんて、まるでデートだ。よしよしっ、今日はついてる!」

 スマホを持って一人で喜ぶ愛心にちらりと注意を向ける人もいたが、女子高生が騒いでいる事は珍しいことでもなく一秒後には何事もなかったようにその場から去っていった。ただ一人、人込みの中で愛心を探していた少年を除いて。

 「天野さん? 何を言っているの」

 その少年、狭山圭一が当然二本脚で歩き出した猫を見るような顔で愛心の近くに立っていた。

 「ふえ? 狭山先輩、もう来てたんですか」
 「さっきの電車で来たところだよ。天野が知り合いと話していたみたいだから離れたところにいたんだ」
 「もしかして、ずっと見てました?」
 「いや、じろじろ見たら悪いと思って旅行のパンフレットを読んでた。そしたら天野の叫び声が聞こえたらから。さっきのついてるぞーって、第一幕のセリフ?」
 「え、あ、そうです。はい!」

 愛心は肝心な部分を圭一に聞かれていないことがわかりほっとした。圭一は役者である愛心が待ち合わせの時間を使ってセリフ練習をしていたと誤解したらしい。しかし圭一が「でもちょっとセリフが違ったような」といい記憶をたどり始めたので、愛心は慌てて話を逸らすことにした。

 「内村さん、来れなくなったみたいですね」
 「急用なら仕方ないよ。まあ二人でも運べる量だからなんとかなるさ」
 「今日は次の劇で使う小道具の買い出しですよね。発泡スチロールの長細いブロックを十個でしたっけ?」
 「そう。三人の学生が学校の地下で金の延べ棒を見つけるシーンで使うやつ」
 「あのお菓子の箱、見栄え悪かったですもんね」
 「手を抜こうとしたのが失敗だったな。あとスチロール塗装用の金のスプレーもね。お金は会計から僕が預かってるから」
 「わかりました。ではでは、早速行きましょう!」

 愛心と圭一は目的地の工芸ホビーショップに向かって並んで歩きはじめた。さすがに繁華街だけあり、周囲にはたくさんのビルが立ち並び、愛心と圭一の様に二人組の男女もちらほらとあった。

 (ふふ、他の人から見れば私たちもカップルだよね)

 愛心は隣を歩く圭一の手をちらりと見た。偶然を装って手を当てるくらいは出来そうだ。でも手を握るのは、ちょっと早すぎる。愛心が顔を上げると、なぜか圭一も愛心を見ていた。二人の視線が重なり愛心の心臓の鼓動がペースを上げる。

 「そういえば思い出した」
 「はいっ!?」
 「さっきの部分のセリフ、『ついてるぞー』じゃなくて『神様ありがとう』だよ」

 圭一の言葉の中に愛心の大嫌いな単語が出て来、せっかく浮かれていた気持ちが冷めていく。

 「アドリブもいいけど、まずは脚本通りにね。一応、書いた人間としてはセリフの一つ一つに設定とか思い入れがあるものだから」
 「別に神様なんて言わなくてもいいんじゃないですか? 金の延べ棒を見つけてラッキーって表現すればいいだけですよね」
 
 天野愛心は、神様が嫌いだった。

 「一応、意味はあるんだよ。今回の脚本はいくつかの昔話を組み合わせて書いてるんだ。その原型がね、最初の大金を手に入れる部分は聖書の物語から取ったんだ」
 「はあ、宗教ですか」

 天野愛心は、神様が嫌いだった。
 もし、本当に神様がいるのならこの世の中から犯罪、災害、戦争、人を苦しめるあらゆる理不尽など存在しないはずだ。

 「天野も聞いた事ないかな。主人が三人の召使いにお金を預け、金額を増やした二人を褒めて、何もしなかった一人を叱った話だよ。それを軸に脚本を展開させるんだけど、あれ、なんだか微妙な顔をしているね?」
 「私、そういうの苦手で」

 天野愛心は、神様が嫌いだった。
 数年前、愛心の祖父母、両親、そして出産のため里帰りをしていた一番上の姉は大雨で起きた土砂災害で命を落とした。東京に出ていた二番目の姉のところに遊びに行っていた愛心は運よく難を逃れる事ができたが、その幸運を感謝するよりも先に、突然家族の命を奪った災害を、そしてそんな運命を与えた神を恨んだ。愛心は特に宗教を信じていなかったが、祖母が熱心なカソリック教徒だったことは知っている。八十年近く神に祈り続けた結果は、娘と孫と生まれる直前のひ孫と一緒に泥水で窒息死だ。
 もちろん、圭一は愛心の過去を知らない。愛心が東京以外の場所から引っ越して来たことは知っていても、どうして当然表情を曇らせたのか、その心の内までは知りようがなかった。だから圭一は話を続けることにした。

 「別に宗教じゃないよ。現代の演劇はシェイクスピアとか西洋古典劇がベースになっているんだ。そしてその西洋古典の根底にあるのがキリスト教なんだ。聖書を読んでみると、どこかで聞いたたとえ話がいっぱい出てきて勉強になるよ」
 「はあ、まあ、先輩の言う事はわかりますけど」
 「何も神様を信じろってわけじゃない。知識として知っていればいいんだ。ああ、ちょうどいい」

 そう言うと圭一は自分の鞄の中から辞書の様に分厚い黒い本を取り出した。その本はだいぶ年季が入っており千ページ以上はありそうだった。背表紙にはアルファベットで何か書かれているが、擦れており読めない。愛心たちの高校の図書館のシールが貼ってあるので図書館の本なのだろう。

 「なんですか、これ?」
 「聖書だよ」
 「……」
 
 押し黙る愛心に圭一が少しだけ焦る。脚本の話をすれば愛心は乗って来ると圭一は思っていたのだ。
 
 「もしかして天野は熱心な仏教徒とか?」
 「いえ、単に神様が嫌いなだけです。宗教ってねずみ講みたいなものですよね。偉そうに当たり前のことを言って、それでお金を取ったりして。そのくせ肝心な時には助けてくれない」
 「ずいぶんと大げさだな。お盆にクリスマス、西暦だってみんな宗教由来なんだよ。天野だってクリスマスは楽しみだろ」
 「それは、まあ」
 「それに俺は天野には期待しているんだ」

 そう言って圭一は足を止めた。愛心もつられてその場に立ち止まる。

 「この前の脚本コンペ、天野の作品すごく面白かった。俺の後継者の脚本担当は天野だって思ってる」
 「それ、本当ですか?」

 愛心は中学では陸上部に所属しており、高校から演劇を始めた。元運動部のハキハキした元気の良さを買われて役者をやってはいるが、実は圭一のように脚本担当に憧れていた。この前のコンペでは当然のように上級生である圭一の作品に負けていたが、作品が評価されていたと聞いて素直に嬉しかった。

 「そう。だから天野には色々と勉強してもらって、俺よりもいい脚本を作ってもらいたいんだ。追い出し劇、期待している。またコンペに作品を出すよね?」

 愛心の所属している演劇部では毎年三月に卒業生の追い出しと新体制のデビューを兼ねた公演を行っている。今はまだ誰が脚本を書くか決まってはいなが、愛心は手を上げるつもりでいた。

 「そのつもりです」
 「うん、期待している。それで、その参考にだけど、この本の付箋がついてるところが今回の脚本で使った部分。演じる時の背景知識と、俺がどんな風に元ネタを料理したか参考にして」
 「……はい。ありがとうございます」

 愛心は一寸躊躇して圭一が差し出した聖書を受け取った。その本は国語辞書の厚みをそのままに、大きさを一回り小さくした感じで手にずっしりと重かった。ついでに愛心の心も少し重くなる。だから神様は嫌いだ。意味の無い内容の本が無駄に重い。

 「ついでに、読み終わったら図書室に返しておいて。返却期限、来週の月曜日だから」

 そういって圭一は愛心に向かってウインクをした。それがあまりにも下手で不自然だったので、愛心は思わず吹き出してしまう。

 「先輩、なにそれ。全然似合ってないです」
 「ははは、やっぱり僕は役者に向いていないね」
 「根っからの脚本家ですもんね。うん、わかりました」

 笑ったことで愛心の中に巣くっていた靄が晴れた。同時にいるわけもない神様相手に一人でイライラしていた自分がバカバカしくなる。

 「じゃあこの本、私が読み終わったら付箋を取って返しておきますね」
 「頼むよ、後輩」

 愛心は狭山から受け取った聖書を自分の鞄に入れようとしてそれができない事に気が付いた。聖書は右手、左手には鞄。これでは鞄のファスナーを開けられない。愛心は重たい本を一度圭一に返そうとしたが、ふといたずら心を抱いた。笑ってもやもやが晴れた事でさっきまでの恋愛モードが復活したのだ。

 「先輩、この本を鞄に入れたいんで、私の鞄を開けてくれませんか?」
 「え? 本を持つんじゃなくて? 天野の鞄、開けていいのか」
 「はい。お願いします」

 普通、後輩は先輩にそんな事を頼まない。でも持ち物を圭一に渡す事で、少しでも彼の意識を愛心に向けさせられればと思ったのだ。実は愛心が狭山に心を惹かれるようになったのは、一年生の冬、台本を読みながら投稿していた氷の張った水たまりで転んだ時、たまたま近くを通りかかった圭一が鞄を拾ってくれたことが切っ掛けだった。もちろん、圭一はそんな事を覚えたてはいないだろう。でも、愛心にとって圭一に鞄を持ってもらうことは少しだけ特別な事だった。
 圭一は少し戸惑いながらも愛心の鞄を受け取り、ファスナーを開ける。両手を使って鞄の口を広げると中には教科書やパステルカラーの小物入れ、ピンクのペンケースなど男子高校生の鞄とは違う世界が広がっていた。圭一は思わず顔を赤らめる。

 「なんか緊張するね」
 「そのまま開いててください。今入れますから」

 期待以上の結果を内心で喜びながら、愛心がすまし顔でスマホを鞄に放り込み、次に聖書を鞄に入れようとした。その時、突然それは起こった。駅前の広場の人ごみに一台のバンが突っ込んで来たのだ。バンの運転席では老人らしい人影がハンドルにもたれかかっている。誰かが悲鳴を上げ、バンがサラリーマンらしいスーツの男性をはねる。重く鈍いボンという音がして、愛心が音が鳴った方に顔を向ける。そこには自分たちに向けて一直線に走る黒いバン。

 「危ない!」

 圭一は車の進路から愛心を突き飛ばそうとしたが、その両手には鞄があった。すぐに鞄を投げ捨てたが、その数秒が二人にとって致命的な時間となった。愛心の鞄がアスファルトの上に落ち、圭一の手が愛心に触れる直前、既に二人の一センチ先に黒いバンが迫っていた。
 激突の直前、愛心は手にしていた分厚い本でバンの正面を叩こうとした。だが時速数十キロの速度で突進してくる機械の前ではいくら辞書の様に重い本といえども何の役にも立たなかった。
 
 (だから嫌い)

 愛心は最後の最後で神様を頼ろうとした自分に悪態をつき、それっきり目の前が真っ黒になった。愛心の全身から、まるで深い穴に落ちる様に感覚が離れていく。どんどんと底に落ちていく意識の中で、右手で掴んでいた重たい本の感覚だけはなぜか最後まではっきりと残っていた。
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