第11話

文字数 691文字

 それから二人の共に過ごした年月はあっという間に過ぎていった。
 一人娘の天音はあっという間に成長して大学生になり、神戸の大学へ行く為に家を出た。
 
梓は自分が重い病に蝕まれていることを知ったときに、亨には何も相談しなかった。自分たちはとてもうまくいっている夫婦だとお互いに思っていた。それとこれとは別だということを梓は本能で感じていた。もしも、正直に病と闘えば長い時間を自分のために費やすことになるだろう。
 神戸に行った天音も巻き込んでしまう。
 ステージ4のすい臓がんなど、まともに戦っても勝ち目はないと梓は思った。それなら、今の幸せな生活の中で、自分だけを引き算すればいいのではないかと。
 お父さん、あなた、亨さん。そのどれでもない、お兄さんみたいだと思った時もあった。そしてただ一人愛した人。愛して、愛して、愛し抜いた男。
 梓は一か月入院した後で、静かにこの世を去った、最後に亨の手を握り、大好きでしたと一言だけ言い残して。

 亨はそれきり仕事もせずに、広い洋館で死んだように過ごしていた。梓の苦しみも悩みも知らずに。大好きだから、愛しているから、何も言わなかったのだということすら理解できなかった。
 五歳年下の妹は妻だったなんてことも知りはしない。
 野良猫に姿を変えた父親が懺悔しようにも、言葉を持たない。
 できることは亨を見守り、早くカメラを手にするようにと祈ることだけだった。最愛の妻の写真集を胸にして、涙を流す亨の姿を猫は今日も遠くから見ている。
 そして、梓も蒼い空から亨と天音を見ていた。どこまでも続く空の向こうから。
                        了
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