第1話 いとしいとしという心

文字数 2,884文字

 なんでこのひとと結婚したんだっけ。
 ふと、そんなことを思った。

 外は、どしゃ降りの大雨。まだ八月も(なか)ばだというのに、早くも秋雨前線の到来らしい。もう一週間も、お日さまを見ていない。
 なんとなく、気が滅入(めい)る。

 夫は、いま目のまえで、カリカリに焼いた、というか焦げかけたトーストをもくもくとかじっている。うっかり焼き過ぎたのだ。わたしが。すぐ焼き直すから、といったのに、いいよ、とひとこというと、彼はなんでもないようにバターを塗り、サクッと軽い音を立ててかじりついた。

 いいよ、というのは、夫の口癖だった。口癖というのかわからないけれど。たいてい、ふたことめには、いいよ、という。結婚して以来、なんで、とか、駄目だよ、とか、いわれたことはない気がする。

 あれが欲しいんだけど。
 いいよ。
 これ、どう思う?
 いいんじゃない。
 これとこれ、どっちがいい?
 どちらでもいいよ。

 会話は、ほとんど一往復で終わってしまう。
 このひと、わたしに興味ないんじゃないかな。最近、とくにそんなふうに感じてしまう。もっと話がしたい。なんでそれが欲しいの、とか、いやそれはやめたほうがいいよ、とか、とにかく、ただの「いいよ」以外のことばが欲しい。

「ねえ」
 自分のトースト(もちろんこちらも焦げている)をお皿に戻すと、夫に尋ねた。
「わたしたち、なんで結婚したんだっけ?」

 夫は、一瞬、動きを止めた。顔をあげてわたしを見ると、咀嚼(そしゃく)を再開する。しまった、と思う。タイミングが悪い。口のなかにものを入れたまま話すひとではない。
 ゆっくりと時間をかけて口のなかのパンを飲み込み、ミルクたっぷりのカフェオレで流し込むと、ようやく彼は口を開く。
「私が、転勤になったからでしょう」

 そうだった。思い出した。
 というか、ほんとうにひさしぶりに「いいよ」以外の台詞を聞いた気がする。自分から問いかけておいて、返ってきた応えにポカンとしていると、視線を外して彼が聞き返してきた。
「どうして、そんなことを聞くの」
 いよいよ、青天の霹靂(へきれき)だ。
 夫がわたしに質問するなんて。

 彼とは同じ職場で働いていた。彼のほうが先輩だった。
 神経質で、気難しそう。第一印象はそれだった。
 そういう男のひとが、わたしの好みだった。
 細身で、きれいな指をしていて、だれに対しても淡々とした敬語で話す、笑わない男のひと。
 ダメ(もと)で、生まれてはじめて男のひとに告白をして、あたって砕けるつもりが、なぜか付き合うことになって。
 それからしばらくして
「転勤が決まりました」
 と告げられたとき、ああ、これでお別れなんだ、と思ったのに
「いっしょに来ますか」
 といわれて。
「え、お別れじゃないの」
 と思わず口走ったわたしに、彼はしばらく黙り込んだあと
「別れたいということですか」
 と低い声でいった。あわててぶんぶんと(かぶり)を振るわたしを、彼はじっと見つめて
「いっしょに来ますか」
 と繰り返した。
 遠距離恋愛とかじゃなくて、いきなり同棲なの?
 呆気にとられながらも、ああ、もしかして、もしかしなくても、わたしと別れたくないと思ってくれている? と思うとうれしくて、なにも考えずにその場で「うん」とうなずいてしまったのだ。

 両親に挨拶に行く、といわれて、そんなわざわざいいのに、と思いながらも両親にそのことを告げると、なぜか大騒ぎになり。
 当日、きっちりとスーツ姿でやってきた彼の
「お嬢さんと結婚させていただきたいと思い、ご挨拶にあがりました」
 という台詞に、隣に座っていたわたしはびっくりして飛びあがった。
 結婚? そうなの?
 父親は渋い顔をしていたけれど、母親はまえのめりでよろこんで、
「こんなぼんやりした娘をもらっていただけるなんて。ええ、もう、ふつつかな娘ですが、どうかよろしくお願いいたしますね」
 と勝手に承諾していた。
 そうして、あれよあれよというまに、彼と籍を入れて、新天地での生活がはじまったのだ。

 ちょっと待って。
「わたし、プロポーズされてない」
 叩きつけるような雨の音が聞こえる。
 向かいに座る夫が、ちいさくため息をつく気配がした。
「プロポーズ、したでしょう」
「うそ、されてない」
 ふたたび、ため息。
「この結婚は不本意だった、ということ?」
 そんなことはいっていない。ひとことも。
「違う、そうじゃなくて」
 彼はじっとわたしを見つめている。
「そうじゃなくて、あなたが、いつも、なにを聞いても『いいよ』としかいってくれないから、わたしに興味ないんじゃないかと思って」
 あ。
 思わずぜんぶ正直にぶちまけてしまった。

 はあ、と今度は思いきりため息をつく気配がした。
「そんなはずがないでしょう」
 呆れ果てたような声で、夫がつぶやく。
「なぜ、そうなるんですか」
 朝から疲れた、という風情に、さすがに申し訳なくなってくる。
「あの、ごめんなさい、出勤まえに、こんな」
「いいから、座りなさい」
「は、はい」
 あれ、いま、命令形だった?

「私がいいよとしかいわないのは、あなたが選んだことならかまわない、と思っているからです」
「はあ」
 ぼんやりとうなずくわたしに、こいつわかっていないな、というふうにゆるく首を振ると、彼は続けた。
「あのとき、あなたは私といっしょに行くことを選んでくれた。だから、私はあなたが選んだことならどんなことでも受け入れると決めています」
 このひと、こんなに長い台詞、話せるんだ。
 いや、そうじゃなくて。
「えっと……、どういうこと?」
「自分で考えなさい」
 そういうと彼は席を立つ。トーストは半分残ったままだ。
「待って、あの」
「話の続きは、帰ってきてからしましょう」

 スーツに(そで)を通しながら彼がいう。身支度(みじたく)を整えて、最後にマスクをつける。
 ワクチンが行き渡っても、まだまだマスクなしでの暮らしは見えてこない。いつ感染するかもわからない状況で、それでも毎朝おなじ時刻に出勤していく夫を、祈るような気持ちで送り出す。
 どうか、無事に帰ってきて。
 ましてや、この長雨。各地で災害が発生しているとニュースが伝えている。
 ふつうに暮らせることが奇跡に近い。
 それなのに、わたしは。

「ごめんなさい。もう、わがままいわないから、気をつけて、無事に帰ってきて」
 鞄とお弁当を渡しながらそういうと、手を(つか)まれる。
「わがままではないし、べつに、わがままをいってくれてもかまわない」
 わたしの好きな、骨張(ほねば)ったきれいな手が、わたしの手をぎゅっと握る。ウイルスが蔓延(まんえん)しはじめてから、彼はわたしに触れることをためらうようになった。仕事から帰ってくると真っ先に手を洗い、シャワーを浴びて着替える。そうしてようやくわたしに近づく。

 大事にされているのは、ちゃんとわかっている。
 焦げたトーストを文句のひとつもいわずに食べてくれるところも、なにをいっても「いいよ」といってくれるのも、たぶん、彼のやさしさなのだろう。

「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 この結婚が不本意だなんて、そんなことあるはずがない。
 こうしていっしょに暮らして、毎日、彼の帰りを待つことができるのだから。
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