第3話 大森神社
文字数 6,792文字
村の山上にある大森神社。まるで村人から忘れたような古い神社。文子はここでこれからの仕事を考えることにした。
神社の跡取りの源之丞は神職をしている様子はなく、もっぱら山から木の実やキノコ。山草などを採ってきていた。下駄で走るその身の速さ。まるで忍者のような身のこなしである。
この神社に世話になることになった文子。これからの身の上を考える機会とするはずであったが、この屋敷は元来綺麗好きの彼女に火をつけてしまった。
古く痛みが激しい神社。源之丞は構わず暮らしていたが、見れば由緒ある神社。文子はこれを綺麗にしたいと思った。
できることは限られている。まずは朽ちた木々を集め薪にし、まだ壊れていないお堂などは掃除をしていった。
「おい。お前」
「はい。源様」
お堂を雑巾掛けしていた文子。背後では狐面をつけた源之丞が仁王立ちしていた。
「掃除をしても無駄だ。また汚れるぞ」
「でも。このままではあんまりです」
「……」
……なぜあんなに働くのだ。食べ物はあるのに。
いそいそと掃除をする文子の気持ち。それはせめて何か手伝いたいというものであった。しかし、彼はその意味が分からず、イライラしていた。
……まあ良い。元気になったし。
そんな彼は森の奥へと消えていった。文子はまた一人、掃除を進めていた。
埃を落とせば立派な社。彼女はどんどん磨いていった。
二階堂家にいた時の文子は家事ばかりであった。医者の娘で長女の彼女。世間的にはそうであったが、実情は異なる。後妻の照代の虐めに遭い、女学校にも行かせてもらえなかった。
父親の毅は仕事にかまけて見て見ぬふり。かわいそうに思った祖母は、病院に勤務する看護師や研修生の勉強に文子を混ぜさせてくれた。
実習資格はないが文子は医療に詳しく育った。
さらに。東洋医学を研究していた祖父の学びも継承し、実家の庭にあった薬草などを煎じて薬にする方法や、薬草医学の多くを知っていた。
……でも。ここに逃げてきても。仕事は何をすればいいのかしら。
大森神社という名前から。文子はここにくれば仕事を紹介してもらえると期待をしていた。しかし、想像と異なり、まずここは嫌われている。しかも源之丞という男が自給自足している山奥だった。賃金を得るような職業はここにはないのだ。どこか現実逃避を思いつつ、文子は必死に自分ができる事を考えていた。
……町外れに行けば。工場があるはず。そこに勤務できるかしら?あとは……何処かのお屋敷の女中くらいなら。
しかしあてはない。彼女はそっと空を眺めた。そこにはカラスが飛んでいるだけだった。
「はあ」
「……仕事は思いついたか」
「あ?すいません。そうですね」
夕食の囲炉裏端。文子はどこかぼんやりしながら今の考えを口にした。
「町外れの工場はどうかと」
「……この村の娘が行っておったが、大怪我をして帰ってきた。何をするか分からんが、力仕事のようだぞ」
「力仕事ですか?でも、それしかないなら、やるしかないです」
……いや。無理だ。この女子には。
怪我をして戻ってきたのは農家の娘。あの娘ができないことが、このたおやかな家出娘にできるとは源之丞には思えなかった。
「そうですか。では、どこかのお屋敷の女中さんとか」
「この村から。以前、布団屋に奉公に出向いた娘がおるぞ」
「本当ですか?それはどこで」
狐面を外した源之丞。澄まして答えた。
「……奉公は終わったのに。まだ帰してもらえぬ。清吉が申すには、仕事中に失敗をしたと難癖を付けれられて、その布団屋は年季を伸ばして奉公人を返さなぬということだ」
「ひどいですね」
「……娘には父親がおらぬでな。向こうは大きく出ているのだ。お前などは親なしだ。もっとひどい目に遭うぞ」
「そんな」
家庭では粗末に扱われていたかもしれないが、世間知らずのお嬢様。源之丞にはそう見えていた。
……金持ちに嫁に行くのが、一番楽であろうに。無理をして勤めに出たいという気持ちが知れぬ。
食べ終わった彼は立ち上がった。面をつけていた。
「この村ではそんなものしかない。俺はそれしか知らぬ」
「……はい。すいません」
そう言って源之丞は部屋を出た。文子は深くため息を付くしかなかった。
しかし一晩考え、翌朝、彼に相談した。
「新聞とな」
「はい。そこに求人が載っているはずなんです」
名案が浮かんだ文子。ちょっと嬉しそうだった。
「今日は村に行って、新聞を買ってこようと思います」
「ならば清吉に頼むと良い。駅まで行かねば買えぬはずじゃ」
「でも。私、バスに乗って」
自分で行こうとする文子。なぜか彼は嫌った。
「……勝手にせい。俺は知らぬ」
「あ?」
彼は背を向け出ていった。面でわからぬが、怒っている様子だった。そのあと、使用人の清吉が来た。文子は新聞の話をした。
「新聞ならわしの家に先週のがありますので、明日、持って来ましょう」
「ありがとうございます。でもあの。私、自分で駅まで行っていますけど」
文子の言葉。清吉は、うーんと首を捻った。
「それはちょっと。まだ待ってくださいますか」
「どうしてですか」
清吉は眉を顰めた。
「なんて言いいますかね。その。文子さんは悪くないのですが。その、あなたがこの神社にいるとなると。村人がちょっとですね」
……そうか。私がいると迷惑なんだわ。
寂れた神社。源之丞がいても良いというので安心していたが、やはり世間的には問題があると文子は認識した。
「すいません。私」
「いや?そこまでじゃないですよ。それに新聞なら本当に手に入るので」
清吉の様子は嘘がないよう見えた。文子は彼に託すことにし、神社の掃除をした。
……源様はいても良いと言ったけど。やはり、そうではないのね。
午後から曇り空。文子の心も曇っていた。
つづく
「源様。いませんか」
「何だ。爺」
神社からの帰り道。清吉は源之丞がいる川にやってきた。彼はここで魚を獲っていた。
「源様。文子さんのことです。新聞が欲しいそうで」
「あんなの嘘ばかり書いてあるなのに。なぜ欲しいのかわからん」
カゴに小魚を入れる源之丞。清吉はため息をついた。
「そうは申しても。文子さんは情報は欲しいのですよ」
「あれは仕事先を探しておるのじゃ。工場や女中がいいと申すが、ないと言ってやった」
「そうですな」
清吉は小魚を見ていた。
「でも。新聞には書いてあるやもしれません。源様とて、いつまでもここにいてほしくないのであれば。仕事を探してやりなされ」
「俺にはそんなことできぬ。自分の食いぶちくらい、自分で見つけねばどうする」
「それはそうですがね」
一人で生きている源之丞の言葉。確かにそうである。清吉は新聞の件を心得たといい、山を降りた。
……全く。俺は忙しいのだ。
山の仕事が忙しい源之丞。そう思いながらも文子の分も食料を得て、この夕刻、帰ってきた。
「おかえりなさいませ」
「これ」
「うわ?それはイワナですか」
魚を驚く文子。狐面の源之丞はニヤリとした。
「おお。これを焼いて食うぞ」
そして二人で焼いて食べた。
「美味しいです」
「そうか。そうか」
むしゃむしゃ食べる源之丞。しかし文子の食は進まなかった。
「いかがした?」
「いえ。美味しいです。食べます」
そうは言っても全然元気のない文子。彼は不安のまま寝床に向かった。
……あの娘御。外での仕事など、できるのであろうか。
彼から見たらお姫様。厳しい仕事は不向きに見えた。それにしても元気のない様子。彼は文子を案じながら眠りについた。
翌日。清吉は新聞を文子にくれた。しかし、そこには彼女が求める仕事がない様子だった。
……だから言ったのだ。あんな紙に良い話が載っているはずがない。
ますます元気がない文子。源之丞の胸はチクチク痛んだ。
翌朝。朝飯の後、源之丞は文子に向かった。
「お前。ちょっと来い」
「どこにですか」
しかし彼は彼女を手をつかんだ。そして森の奥へと進み出した。木々を抜け岩を登る獣道。文子は必死に付いていった。
「源様。どこまでいくのですか」
早い足の彼。ついて行くのが大変な文子。やがて、広い野原に出た。
「源様?」
「……着いた。ここだ」
「うわ」
そこには一面の花が咲いていた。源之丞は文子の手を離した。
「どうだ。綺麗だろう」
「はい……どこまでもお花だわ」
女は花が好き。そう思っていた源之丞。文子の笑顔を作るのに成功した。
「はい!それに、これは」
手に取った花。これは薬草だった。
「源様。これは、病を治す薬草ですよ」
「薬草?」
「薬になる草です」
ああと彼はうなづいた。
「そのようだな。この村には医者がいないからな。俺の婆様がどこかの医者から、薬草の種をもらって、植えたと申しておったな」
文子が元気になればそれでよし。これに関して興味のない様子の源之丞。野原に飛ぶ、蝶を追っていた。
「こんなにたくさんの種類があるなんて?すごい」
……嬉しそうにしておる。笑うとあんな顔なのか。
今まで沈んだ暗い顔だった文子。その彼女の笑顔に源之丞。憂しかった。
「使いたくば、勝手に使え、俺には無用だ」
彼はそういうとそばにあった木に登り始めた。スルスル登るその速さ。文子は驚きで見上げていた。
「源様?何をなさるの」
彼は無言で木々を揺すった。
「きゃあ?これは、李 」
「ははは、ははは!』
源之丞は木々を揺らし、文子に赤い実を落とした。文子は必死に拾った。彼は木からふわと地上に降りた。
「食ってみろ」
「……源様は、これを。甘くて美味しそうですよ」
拾った実。一番綺麗で美味しそうなものを文子は弦之丞に渡した。彼は首をかしげた。
「なぜ一番うまそうなのを俺に寄越すのだ?お前は李が嫌いか」
不思議そうな源之丞。文子は笑った。
「いいえ。大好きですよ。でも、やっぱり旦那様に食べて欲しいから」
「好きなのに?おかしな奴だな……」
そう言って彼は面の口元だけ上げて齧った。
「うん、うまい!お前の選んだのは甘い!」
「よかったですね。それは大きいから」
文子は拾った李を選んでいた。
……美味しそうなのは源様で。私はこれでいいか。
彼女は形が歪なものや、虫がかじった跡のある李を食べようとしていた。
すると源之丞、じっと文子を見た。
「なんですか」
「これは甘いから。お前が食え」
彼はそう言って食べかけの李を差し出した。
「さあ!食え」
「源様……」
意地悪ではない。食べておいしかったから。文子にあげたいと彼は言っている。文子は受け取った。そして彼のかじり掛けの李を食べた。
「うん?甘い。食べごろですね」
「食ったか。うまいか」
……私が落ち込んでいたから。ここに連れてきてくれたんだわ。
粗暴であるが優しい源之丞。文子の胸はジンとしてきた。
「はい、源様。文子はこんな美味しい李を食べたのは初めてです」
こうして二人で李を食べた。しかし食べ切れる量ではない。文子はこれを持ち屋敷に帰ろうとした。
「おい。俺はまだ仕事がある、お前、先に帰れ」
「はい。私はあっちの方角ですよね?」
しかし彼は返事をせず。風のようにサッと森の奥へ消えていった。文子はあっけに取られていた。
……確か。こっちのはず。
連れて来られたので方向に自信がない。文子は必死に歩いて進んだが、山の中で迷子になってしまった。
つづく
……どうしよう。
日は西に傾き始めた。このままでは暗くなる。歩き疲れた文子はひとまず岩に腰掛けた。そして冷静に考えた。
この神社は山の中腹にある。神社の階段は山の西側である。今、日が沈みかけているということは、太陽を追いかければ西方面に出られるということだ。
……大丈夫よ。文子。落ち着いて。
これに希望を持った文子。西へ西へと森の中を歩き出した。着物の素足。草履の足。胸には李を抱えていた。
「爺。あれはどうした」
……いない。おかしい。
文子がいない母屋。源之丞、慌てて爺に助けを求めた。
「森にご一緒ではなかったのですか」
「先に帰したのだが、どこにもおらぬ」
神社に戻ってきた源之丞。彼にとってはこの山は庭。しかし、不慣れな文子にとっては樹海。それに気付かず源之丞は境内をうろうろしていた。これに爺が声を掛けた。
「旦那様。森で迷っているではないですか」
「何?そうか。迷子か」
しまったと源之丞は頭を抱えた。
「爺!今から迎えにいくぞ」
「どこにですか?もう日暮れですぞ」
見上げても夕暮れにカラスが飛ぶだけ。源之丞は叫び出した。
「あれが泣いておる!あれは泣き虫なのだ」
文子を心配し爺の服を掴む源之丞。爺も眉を顰めた。夜になれば危険であった。
「源様。笛を吹いてみましょう」
「笛?俺の笛か」
「そうです。それで呼ぶのです」
「心得た」
彼は着物の脇から横笛を取り出した。そして境内の前の岩の上に立った。
その音色。山に奏でる風の調べ。優しく心地よく、文子の耳まで届いた。
それはまるで愛しい娘への愛の言葉のような、優しく甘い音色。そばで聞いていた清吉は目を細め、庭にて木々を燃やしていた。
その頃。文子はようやく気がついた。
「誰の笛かしら……こっちの方角。きっと神社かな。あ、あった!」
見えたのは神社の白煙。文子は思い切って彼を呼んだ。
「源様ー。源様ーー……って。やっぱり無理かな」
暗い道。足場の悪い木が茂る森。文子は必死に煙が見える方へ歩みを進めた。その時、ガサガサと音がした。
……え?もしかして熊?ど、どうしよう?
疲れ切った文子の思考。もう目の前が真っ暗になった。その時、なぜか背後から声がした。
「おい」
「きゃあああ!?」
「お前……何をしておるのだ」
突然現れた狐面の源之丞。文子は恐怖から解放され思わず腰を抜かした。
「なんだ?」
「……真っ暗で……帰れないかと」
泣き出す娘。思わず源之丞が手を差し出すと、彼の首に手を回し抱きついてきた。源之丞、どうして良いかわからなかった。
「わ、わかった。帰ろう」
「はい……」
半ベソの文子。疲れ切っていた。源之丞はまたしても彼女を背負い、森を抜けてきた。
「着いたぞ。もう泣くな」
「はい……いつもすいません」
玄関前で降ろしたもらった文子。源之丞は文子のその足が傷だらけと知った。
「お前。足」
木々や草で剃 ったのか。文子の足は血が出ていた。
「洗えば、平気ですよ」
気にしていない様子の文子。源之丞は彼女の気持ちが全くわからなかった。
……俺のせいなのに。なぜ怒らぬのだ。
森に置き去りにしたのは自分。なのに文子は怒らず、何事もなかったように清吉と一緒に夕食の支度を始めていた。
そして夕食となった。この夜、なぜか源之丞が部屋から出て来なかった。
「どうしましょう」
「放っておけば良いのです。では、私はこれで」
帰り道が暗くなるため清吉は帰っていった。支度ができた囲炉裏の前。しかし肝心の源之丞は部屋から出てこない。文子は声をかけた。
「旦那様。お支度ができました」
「お前が先に食え。俺は後で良い!」
……そんなわけには行かないのに。
居候の身でありながら、この家の主人よりも先に食べるなどという事は文子にはできない。しばらく待ったが、源之丞は出て来なかった。
そこで文子はまた声をかけた。
「私は居候です。先にいただく事などできません。今夜はこのまま休ませてもらいます。おやすみなさいませ」
そう言って襖に頭を下げた文子。静かに居間を後にした。そして離れの自室に向かっていた。すると背後から声がした。
「おい!お前」
「……源様」
「なぜだ。なぜ怒らぬのだ」
狐面の彼。ツカツカと文子に詰め寄った。
「怒るって?何をですか」
「俺のせいで迷子になったのであろう!もっと俺に怒れ!俺のせいしろ」
「……」
……もしかして。責任を感じているのかしら。
彼はまだ怒っていた。
「それに足!痛いんだろう?痛いと言え!」
「源様」
「俺は苦しい……俺はどうすれば良いのだ」
弱々しい彼の姿。文子はそっと彼の手を掴んだ。
「源様は悪くありません。文子を探してくれたではありませんか」
「……居ないからな」
彼はそっと握り返した。
「それに。お花畑も綺麗な笛を聞かせてくれたではありませんか。あれでわかったんですよ」
「そうか、綺麗か」
「はい。また聞かせてください」
「わかった」
少し元気になった源之丞。ほっとした文子。しかし、彼はスッと文子の足を指した。
「足」
「少し痛いだけです」
「……一緒に飯が食えるか?それとも痛くてもう寝るのか」
……こんなに心配しているなんて。
文子は首を横に振った。
「旦那様が一緒なら、痛くないです。一緒に食べましょう」
「ああ」
こうして機嫌の治った源之丞、文子と一緒に囲炉裏の前にやってきた。
食べる時だけ面を外す彼。文子は見ないふりをしていた。そしてお腹いっぱい食べて早々に部屋に入っていった。文子も早く床に着いた。
屋根の隙間から見える星の光。それを見ながら文子、涙で滲んできた。
……お婆様。文子は最初不安でしたが、源様はとても優しいです。これから頑張るから。見守っていてね。
流れる涙。最初は泣き祖母と己の境遇で悲しい色であったが、寝付く頃には源の優しさで、文子の涙は嬉しさで輝いていた。
三話『大森神社』完
神社の跡取りの源之丞は神職をしている様子はなく、もっぱら山から木の実やキノコ。山草などを採ってきていた。下駄で走るその身の速さ。まるで忍者のような身のこなしである。
この神社に世話になることになった文子。これからの身の上を考える機会とするはずであったが、この屋敷は元来綺麗好きの彼女に火をつけてしまった。
古く痛みが激しい神社。源之丞は構わず暮らしていたが、見れば由緒ある神社。文子はこれを綺麗にしたいと思った。
できることは限られている。まずは朽ちた木々を集め薪にし、まだ壊れていないお堂などは掃除をしていった。
「おい。お前」
「はい。源様」
お堂を雑巾掛けしていた文子。背後では狐面をつけた源之丞が仁王立ちしていた。
「掃除をしても無駄だ。また汚れるぞ」
「でも。このままではあんまりです」
「……」
……なぜあんなに働くのだ。食べ物はあるのに。
いそいそと掃除をする文子の気持ち。それはせめて何か手伝いたいというものであった。しかし、彼はその意味が分からず、イライラしていた。
……まあ良い。元気になったし。
そんな彼は森の奥へと消えていった。文子はまた一人、掃除を進めていた。
埃を落とせば立派な社。彼女はどんどん磨いていった。
二階堂家にいた時の文子は家事ばかりであった。医者の娘で長女の彼女。世間的にはそうであったが、実情は異なる。後妻の照代の虐めに遭い、女学校にも行かせてもらえなかった。
父親の毅は仕事にかまけて見て見ぬふり。かわいそうに思った祖母は、病院に勤務する看護師や研修生の勉強に文子を混ぜさせてくれた。
実習資格はないが文子は医療に詳しく育った。
さらに。東洋医学を研究していた祖父の学びも継承し、実家の庭にあった薬草などを煎じて薬にする方法や、薬草医学の多くを知っていた。
……でも。ここに逃げてきても。仕事は何をすればいいのかしら。
大森神社という名前から。文子はここにくれば仕事を紹介してもらえると期待をしていた。しかし、想像と異なり、まずここは嫌われている。しかも源之丞という男が自給自足している山奥だった。賃金を得るような職業はここにはないのだ。どこか現実逃避を思いつつ、文子は必死に自分ができる事を考えていた。
……町外れに行けば。工場があるはず。そこに勤務できるかしら?あとは……何処かのお屋敷の女中くらいなら。
しかしあてはない。彼女はそっと空を眺めた。そこにはカラスが飛んでいるだけだった。
「はあ」
「……仕事は思いついたか」
「あ?すいません。そうですね」
夕食の囲炉裏端。文子はどこかぼんやりしながら今の考えを口にした。
「町外れの工場はどうかと」
「……この村の娘が行っておったが、大怪我をして帰ってきた。何をするか分からんが、力仕事のようだぞ」
「力仕事ですか?でも、それしかないなら、やるしかないです」
……いや。無理だ。この女子には。
怪我をして戻ってきたのは農家の娘。あの娘ができないことが、このたおやかな家出娘にできるとは源之丞には思えなかった。
「そうですか。では、どこかのお屋敷の女中さんとか」
「この村から。以前、布団屋に奉公に出向いた娘がおるぞ」
「本当ですか?それはどこで」
狐面を外した源之丞。澄まして答えた。
「……奉公は終わったのに。まだ帰してもらえぬ。清吉が申すには、仕事中に失敗をしたと難癖を付けれられて、その布団屋は年季を伸ばして奉公人を返さなぬということだ」
「ひどいですね」
「……娘には父親がおらぬでな。向こうは大きく出ているのだ。お前などは親なしだ。もっとひどい目に遭うぞ」
「そんな」
家庭では粗末に扱われていたかもしれないが、世間知らずのお嬢様。源之丞にはそう見えていた。
……金持ちに嫁に行くのが、一番楽であろうに。無理をして勤めに出たいという気持ちが知れぬ。
食べ終わった彼は立ち上がった。面をつけていた。
「この村ではそんなものしかない。俺はそれしか知らぬ」
「……はい。すいません」
そう言って源之丞は部屋を出た。文子は深くため息を付くしかなかった。
しかし一晩考え、翌朝、彼に相談した。
「新聞とな」
「はい。そこに求人が載っているはずなんです」
名案が浮かんだ文子。ちょっと嬉しそうだった。
「今日は村に行って、新聞を買ってこようと思います」
「ならば清吉に頼むと良い。駅まで行かねば買えぬはずじゃ」
「でも。私、バスに乗って」
自分で行こうとする文子。なぜか彼は嫌った。
「……勝手にせい。俺は知らぬ」
「あ?」
彼は背を向け出ていった。面でわからぬが、怒っている様子だった。そのあと、使用人の清吉が来た。文子は新聞の話をした。
「新聞ならわしの家に先週のがありますので、明日、持って来ましょう」
「ありがとうございます。でもあの。私、自分で駅まで行っていますけど」
文子の言葉。清吉は、うーんと首を捻った。
「それはちょっと。まだ待ってくださいますか」
「どうしてですか」
清吉は眉を顰めた。
「なんて言いいますかね。その。文子さんは悪くないのですが。その、あなたがこの神社にいるとなると。村人がちょっとですね」
……そうか。私がいると迷惑なんだわ。
寂れた神社。源之丞がいても良いというので安心していたが、やはり世間的には問題があると文子は認識した。
「すいません。私」
「いや?そこまでじゃないですよ。それに新聞なら本当に手に入るので」
清吉の様子は嘘がないよう見えた。文子は彼に託すことにし、神社の掃除をした。
……源様はいても良いと言ったけど。やはり、そうではないのね。
午後から曇り空。文子の心も曇っていた。
つづく
「源様。いませんか」
「何だ。爺」
神社からの帰り道。清吉は源之丞がいる川にやってきた。彼はここで魚を獲っていた。
「源様。文子さんのことです。新聞が欲しいそうで」
「あんなの嘘ばかり書いてあるなのに。なぜ欲しいのかわからん」
カゴに小魚を入れる源之丞。清吉はため息をついた。
「そうは申しても。文子さんは情報は欲しいのですよ」
「あれは仕事先を探しておるのじゃ。工場や女中がいいと申すが、ないと言ってやった」
「そうですな」
清吉は小魚を見ていた。
「でも。新聞には書いてあるやもしれません。源様とて、いつまでもここにいてほしくないのであれば。仕事を探してやりなされ」
「俺にはそんなことできぬ。自分の食いぶちくらい、自分で見つけねばどうする」
「それはそうですがね」
一人で生きている源之丞の言葉。確かにそうである。清吉は新聞の件を心得たといい、山を降りた。
……全く。俺は忙しいのだ。
山の仕事が忙しい源之丞。そう思いながらも文子の分も食料を得て、この夕刻、帰ってきた。
「おかえりなさいませ」
「これ」
「うわ?それはイワナですか」
魚を驚く文子。狐面の源之丞はニヤリとした。
「おお。これを焼いて食うぞ」
そして二人で焼いて食べた。
「美味しいです」
「そうか。そうか」
むしゃむしゃ食べる源之丞。しかし文子の食は進まなかった。
「いかがした?」
「いえ。美味しいです。食べます」
そうは言っても全然元気のない文子。彼は不安のまま寝床に向かった。
……あの娘御。外での仕事など、できるのであろうか。
彼から見たらお姫様。厳しい仕事は不向きに見えた。それにしても元気のない様子。彼は文子を案じながら眠りについた。
翌日。清吉は新聞を文子にくれた。しかし、そこには彼女が求める仕事がない様子だった。
……だから言ったのだ。あんな紙に良い話が載っているはずがない。
ますます元気がない文子。源之丞の胸はチクチク痛んだ。
翌朝。朝飯の後、源之丞は文子に向かった。
「お前。ちょっと来い」
「どこにですか」
しかし彼は彼女を手をつかんだ。そして森の奥へと進み出した。木々を抜け岩を登る獣道。文子は必死に付いていった。
「源様。どこまでいくのですか」
早い足の彼。ついて行くのが大変な文子。やがて、広い野原に出た。
「源様?」
「……着いた。ここだ」
「うわ」
そこには一面の花が咲いていた。源之丞は文子の手を離した。
「どうだ。綺麗だろう」
「はい……どこまでもお花だわ」
女は花が好き。そう思っていた源之丞。文子の笑顔を作るのに成功した。
「はい!それに、これは」
手に取った花。これは薬草だった。
「源様。これは、病を治す薬草ですよ」
「薬草?」
「薬になる草です」
ああと彼はうなづいた。
「そのようだな。この村には医者がいないからな。俺の婆様がどこかの医者から、薬草の種をもらって、植えたと申しておったな」
文子が元気になればそれでよし。これに関して興味のない様子の源之丞。野原に飛ぶ、蝶を追っていた。
「こんなにたくさんの種類があるなんて?すごい」
……嬉しそうにしておる。笑うとあんな顔なのか。
今まで沈んだ暗い顔だった文子。その彼女の笑顔に源之丞。憂しかった。
「使いたくば、勝手に使え、俺には無用だ」
彼はそういうとそばにあった木に登り始めた。スルスル登るその速さ。文子は驚きで見上げていた。
「源様?何をなさるの」
彼は無言で木々を揺すった。
「きゃあ?これは、
「ははは、ははは!』
源之丞は木々を揺らし、文子に赤い実を落とした。文子は必死に拾った。彼は木からふわと地上に降りた。
「食ってみろ」
「……源様は、これを。甘くて美味しそうですよ」
拾った実。一番綺麗で美味しそうなものを文子は弦之丞に渡した。彼は首をかしげた。
「なぜ一番うまそうなのを俺に寄越すのだ?お前は李が嫌いか」
不思議そうな源之丞。文子は笑った。
「いいえ。大好きですよ。でも、やっぱり旦那様に食べて欲しいから」
「好きなのに?おかしな奴だな……」
そう言って彼は面の口元だけ上げて齧った。
「うん、うまい!お前の選んだのは甘い!」
「よかったですね。それは大きいから」
文子は拾った李を選んでいた。
……美味しそうなのは源様で。私はこれでいいか。
彼女は形が歪なものや、虫がかじった跡のある李を食べようとしていた。
すると源之丞、じっと文子を見た。
「なんですか」
「これは甘いから。お前が食え」
彼はそう言って食べかけの李を差し出した。
「さあ!食え」
「源様……」
意地悪ではない。食べておいしかったから。文子にあげたいと彼は言っている。文子は受け取った。そして彼のかじり掛けの李を食べた。
「うん?甘い。食べごろですね」
「食ったか。うまいか」
……私が落ち込んでいたから。ここに連れてきてくれたんだわ。
粗暴であるが優しい源之丞。文子の胸はジンとしてきた。
「はい、源様。文子はこんな美味しい李を食べたのは初めてです」
こうして二人で李を食べた。しかし食べ切れる量ではない。文子はこれを持ち屋敷に帰ろうとした。
「おい。俺はまだ仕事がある、お前、先に帰れ」
「はい。私はあっちの方角ですよね?」
しかし彼は返事をせず。風のようにサッと森の奥へ消えていった。文子はあっけに取られていた。
……確か。こっちのはず。
連れて来られたので方向に自信がない。文子は必死に歩いて進んだが、山の中で迷子になってしまった。
つづく
……どうしよう。
日は西に傾き始めた。このままでは暗くなる。歩き疲れた文子はひとまず岩に腰掛けた。そして冷静に考えた。
この神社は山の中腹にある。神社の階段は山の西側である。今、日が沈みかけているということは、太陽を追いかければ西方面に出られるということだ。
……大丈夫よ。文子。落ち着いて。
これに希望を持った文子。西へ西へと森の中を歩き出した。着物の素足。草履の足。胸には李を抱えていた。
「爺。あれはどうした」
……いない。おかしい。
文子がいない母屋。源之丞、慌てて爺に助けを求めた。
「森にご一緒ではなかったのですか」
「先に帰したのだが、どこにもおらぬ」
神社に戻ってきた源之丞。彼にとってはこの山は庭。しかし、不慣れな文子にとっては樹海。それに気付かず源之丞は境内をうろうろしていた。これに爺が声を掛けた。
「旦那様。森で迷っているではないですか」
「何?そうか。迷子か」
しまったと源之丞は頭を抱えた。
「爺!今から迎えにいくぞ」
「どこにですか?もう日暮れですぞ」
見上げても夕暮れにカラスが飛ぶだけ。源之丞は叫び出した。
「あれが泣いておる!あれは泣き虫なのだ」
文子を心配し爺の服を掴む源之丞。爺も眉を顰めた。夜になれば危険であった。
「源様。笛を吹いてみましょう」
「笛?俺の笛か」
「そうです。それで呼ぶのです」
「心得た」
彼は着物の脇から横笛を取り出した。そして境内の前の岩の上に立った。
その音色。山に奏でる風の調べ。優しく心地よく、文子の耳まで届いた。
それはまるで愛しい娘への愛の言葉のような、優しく甘い音色。そばで聞いていた清吉は目を細め、庭にて木々を燃やしていた。
その頃。文子はようやく気がついた。
「誰の笛かしら……こっちの方角。きっと神社かな。あ、あった!」
見えたのは神社の白煙。文子は思い切って彼を呼んだ。
「源様ー。源様ーー……って。やっぱり無理かな」
暗い道。足場の悪い木が茂る森。文子は必死に煙が見える方へ歩みを進めた。その時、ガサガサと音がした。
……え?もしかして熊?ど、どうしよう?
疲れ切った文子の思考。もう目の前が真っ暗になった。その時、なぜか背後から声がした。
「おい」
「きゃあああ!?」
「お前……何をしておるのだ」
突然現れた狐面の源之丞。文子は恐怖から解放され思わず腰を抜かした。
「なんだ?」
「……真っ暗で……帰れないかと」
泣き出す娘。思わず源之丞が手を差し出すと、彼の首に手を回し抱きついてきた。源之丞、どうして良いかわからなかった。
「わ、わかった。帰ろう」
「はい……」
半ベソの文子。疲れ切っていた。源之丞はまたしても彼女を背負い、森を抜けてきた。
「着いたぞ。もう泣くな」
「はい……いつもすいません」
玄関前で降ろしたもらった文子。源之丞は文子のその足が傷だらけと知った。
「お前。足」
木々や草で
「洗えば、平気ですよ」
気にしていない様子の文子。源之丞は彼女の気持ちが全くわからなかった。
……俺のせいなのに。なぜ怒らぬのだ。
森に置き去りにしたのは自分。なのに文子は怒らず、何事もなかったように清吉と一緒に夕食の支度を始めていた。
そして夕食となった。この夜、なぜか源之丞が部屋から出て来なかった。
「どうしましょう」
「放っておけば良いのです。では、私はこれで」
帰り道が暗くなるため清吉は帰っていった。支度ができた囲炉裏の前。しかし肝心の源之丞は部屋から出てこない。文子は声をかけた。
「旦那様。お支度ができました」
「お前が先に食え。俺は後で良い!」
……そんなわけには行かないのに。
居候の身でありながら、この家の主人よりも先に食べるなどという事は文子にはできない。しばらく待ったが、源之丞は出て来なかった。
そこで文子はまた声をかけた。
「私は居候です。先にいただく事などできません。今夜はこのまま休ませてもらいます。おやすみなさいませ」
そう言って襖に頭を下げた文子。静かに居間を後にした。そして離れの自室に向かっていた。すると背後から声がした。
「おい!お前」
「……源様」
「なぜだ。なぜ怒らぬのだ」
狐面の彼。ツカツカと文子に詰め寄った。
「怒るって?何をですか」
「俺のせいで迷子になったのであろう!もっと俺に怒れ!俺のせいしろ」
「……」
……もしかして。責任を感じているのかしら。
彼はまだ怒っていた。
「それに足!痛いんだろう?痛いと言え!」
「源様」
「俺は苦しい……俺はどうすれば良いのだ」
弱々しい彼の姿。文子はそっと彼の手を掴んだ。
「源様は悪くありません。文子を探してくれたではありませんか」
「……居ないからな」
彼はそっと握り返した。
「それに。お花畑も綺麗な笛を聞かせてくれたではありませんか。あれでわかったんですよ」
「そうか、綺麗か」
「はい。また聞かせてください」
「わかった」
少し元気になった源之丞。ほっとした文子。しかし、彼はスッと文子の足を指した。
「足」
「少し痛いだけです」
「……一緒に飯が食えるか?それとも痛くてもう寝るのか」
……こんなに心配しているなんて。
文子は首を横に振った。
「旦那様が一緒なら、痛くないです。一緒に食べましょう」
「ああ」
こうして機嫌の治った源之丞、文子と一緒に囲炉裏の前にやってきた。
食べる時だけ面を外す彼。文子は見ないふりをしていた。そしてお腹いっぱい食べて早々に部屋に入っていった。文子も早く床に着いた。
屋根の隙間から見える星の光。それを見ながら文子、涙で滲んできた。
……お婆様。文子は最初不安でしたが、源様はとても優しいです。これから頑張るから。見守っていてね。
流れる涙。最初は泣き祖母と己の境遇で悲しい色であったが、寝付く頃には源の優しさで、文子の涙は嬉しさで輝いていた。
三話『大森神社』完