67 詠唱碑文
文字数 3,254文字
正面のドアの前まで来ると、右に折れた通路の突き当りにもドアがあるのが見えた。
とりあえず、とビヒトは目の前のドアのレバー状の取手に手をかけ、ゆっくりと押し下げる。そのまま押しても引いてもドアが開く気配はなかった。
もう何度も試したように、すぐに横にある魔法陣に魔力を流してみる。小さくカチリと音がしたのを聞いてヴァルムに目配せすると、ビヒトはゆっくりとドアを押し開けた。
思ったよりも空気は淀んでいない。
中央にいくつか固められた机の真ん中に透明な四角いケースが乗っている。よく見ると全ての面にうっすらと魔法陣が描かれており、中に入れたものに魔術的な力が働くようになっていた。
壁際には瓶や石、ステッキのような物などが散見される棚があり、一部には書類のようなものも残っている。
逸る心を抑えて慎重に触れてみたが、ひどく変色したそれは触れたそばからぼろぼろと崩れてしまった。
「こっちも、ダメだな」
瓶は辛うじて形を残していたが、石はヴァルムが持ち上げようと力を入れるといくつかに割れてしまった。
それ以上物に触れないように気を付けて視線を回すと、壁の一角に石板のような物が掲げられていた。半分以上崩れて落ちているが、残った部分に何か彫ってある。
「……天と、地を……繋ぐ? 結ぶ? 光の糸……綱? 一端を我が手、に……」
ゆっくりと口に乗せながら、ビヒトは詠唱の一部だと直感していた。今までに聞いたことのない言葉の並びに、確信は持てなかったけれど。
残りは崩れていてそこしか読み取れない。
床に落ちて割れている方をヴァルムも覗き込んでいたが、難しい顔をしている。
「ごく、簡単な炎の魔術の詠唱の一部、に似とる。気がする」
肩を竦めて、ビヒトに場所を譲るようにヴァルムは立ち上がった。入れ替わるようにしてビヒトが屈みこむ。
「……そう、だな。たぶん」
割れて崩れて所々しか読み取れないので憶測でしかないが、石板の大きさと文字の大きさから、文章は五行ほどだったと思われる。安直に考えれば、属性ごとの一番基礎的な詠唱文が書かれていたのではないだろうか。
炎、風、水、光。
そして、雷。
少し都合が良すぎやしないかと、自分を窘めつつも、もう一度壁の石板を見上げて、ビヒトは短い一文を目に焼き付けた。
「奥の部屋にもあるかもしんねえぞ」
「そうだな」
にやりと笑うヴァルムの誘い文句に、ビヒトはあっさりと乗ることにした。
同じものが無くとも、他の何かが出てくるかもしれない。
部屋を出て、通路の突き当りに向かう。
たいした距離じゃない。ほんの少し浮き足立っていたビヒトの背中を、ヴァルムが力いっぱい突き飛ばした。
バランスを崩して目の前に迫るドアに、ビヒトは反射的に手を伸ばしてその取手を掴み、身体を捻った。
背中からドアにぶつかりながら見た光景は、ヴァルムが後ろに飛び退くところだった。足元の低い位置に両側の壁から炎が噴き出して見える。
ひやりとしながらヴァルムに感謝の念を抱いたのも束の間、ビヒトの身体は重力に従って落ちていく。しがみつくようにしていた取手が音を立てて下を向いた。
とたん。
床が消えた。
正確には、ドアの前の通路が真ん中から割れて落とし穴になったのだが、ビヒトにそこまで把握する余裕はなかった。ひゅっと自身の息を呑む音をどこか他人事のように聞いて、穴の向こう側にヴァルムが残っているのを確認すると、あとは落ちるに身を任せるのみだった。
◇ ◆ ◇
体勢を立て直す間もなく、ビヒトは床に叩きつけられる。背から落ちたが、背負っていた袋がクッションとなってくれたのが幸いだった。意識を飛ばすこともなく、しばらく痛みに蹲る。
「ビヒト! 無事か!」
「……ああ。生きてる」
届いているか判らないが、一応口の中で返事を返す。
見上げるとヴァルムが覗き込んでいるのが見えた。思ったよりも遠い。ここは天井の高さが他のフロアの二倍ほどはありそうだった。上から差し込む光で天井まである金網のようなものや等間隔に並ぶ縦格子が見える。
が、全体を見通せるほどの光量はなく、ビヒトの周りは岩壁が確認できる程度。首を巡らせても闇が見えるだけだった。
周囲を警戒しながら、ベルトに吊るしておいたカンテラを取り出す。幸い、少し形がひしゃげた程度で済んでいた。
ちょうど、中の石を叩いたり交換したりするための小窓のところが歪んだようで、開けるのに手間取っていると、風が吹いた。
嫌な予感に、瞬間、手が止まる。
吹いていた風は止んだかと思うと、次には吸い込まれる音に変わった。静かな闇に響く息づかいに、手つきは乱暴になる。
何かが折れるような音をさせながら無理矢理開けた小窓から、中の石を指で弾く。
ぽっとついた明かりに、ビヒト自身も一瞬目を眩ませながらそれを掲げると、小さくギャッと声を上げて目元を隠した、ヴァルムと大差ない体格の腕の長い大きな猿が見えた。
素早く起き上がって、壁際に一歩下がったビヒトに、猿は甲高い声を上げて腕を振り上げる。
剣を抜いたビヒトだったが、猿の身体は格子に阻まれた。
猿とビヒトの間には中指程の長さの間隔で金属の棒が並んでおり、それを掴んで猿は悔しそうにがしゃがしゃと揺らした。
少し冷静になって、周囲を確認すると、ビヒトのいる場所は二方が壁で、もう二方が格子で区切られていた。猿のいない方の格子の一角は扉になっていて、向こう側に通路がある。どうやら、牢だか檻だかの中に落ちたようだ。
「ビヒト?」
「猿がいる! デカいヤツ。同じ部屋ではないが……」
金属の格子を掴んで揺する猿は段々と興奮を増していく。荒くなっていく息づかいの合間に甲高い叫び声が混じり始めていた。
壁に背をつけたまま、ビヒトはじりじりと扉に近付いた。幸運なことに鍵はかかっていないようだ。
ほっとしたのも束の間、隣も同じであれば、ビヒトが外に出ても追ってくるかもしれない。この猿がどのくらいの期間ここにいるのか知らないが、少なくともビヒトよりは
試しに踏み込んで剣を突き出すと、猿は素早く後ろへ飛び退いた。ギャーと、怒りの雄叫びを上げて再び前に出ると、格子の間からビヒトに手を伸ばす。
思ったよりも長い手にビヒトはまた壁際まで下がって、その手を払うように剣を薙いだ。瞬間引込められた腕はすぐにビヒトに伸ばされ、空を掻いたかと思うと床を叩きつけ、爪でガリガリと削った。
手首を落とそうと振り下ろした剣も、その頑丈な爪で弾かれる。
壁際にいればギリギリ届かないという微妙な距離で、左右から突き出される手を払い除けていく。
埒が明かない、と舌打ちすれば上からヴァルムの声がする。
「ビヒト、腕輪は?」
そうかと、一旦、奥に移動して荷物を開ける。猿も移動してきたが、微妙に届かない距離にイライラと床を引っ掻くばかりだった。
腕輪を着け、ついでに手に触れたチョークで壁に陣を描く。平らではないので少し苦労したが、複雑なものではないのでなんとか発動してくれるだろう。魔力を籠めるとフロアの半分ほどを照らす光が出現した。
暗闇に慣れた猿が喚きながら片手で光を遮り、もう一方の手を闇雲に振り回す。
ビヒトはそれを腕輪で受けに行った。
出現した三つの真空魔術 は、しかし猿へと向かう前に空に溶けた。
「……は?」
思わず声が出る。
飲み込めないまま、今度は盾 を発動させてみる。魔力は動く。だが、それも形となる前に霧散してしまった。
「使えない!?」
叫びとなった言葉はヴァルムにも届いただろう。
理由を考えるよりも先に、猿から反射した光に視線が吸い寄せられる。
掲げられた腕の間から、ちらちらと光る物。
猿の額で時折光を反射しているのは、ちょうど親指と人差し指で作った丸くらいの大きさの、黄色いトパーズのような石だった。
とりあえず、とビヒトは目の前のドアのレバー状の取手に手をかけ、ゆっくりと押し下げる。そのまま押しても引いてもドアが開く気配はなかった。
もう何度も試したように、すぐに横にある魔法陣に魔力を流してみる。小さくカチリと音がしたのを聞いてヴァルムに目配せすると、ビヒトはゆっくりとドアを押し開けた。
思ったよりも空気は淀んでいない。
中央にいくつか固められた机の真ん中に透明な四角いケースが乗っている。よく見ると全ての面にうっすらと魔法陣が描かれており、中に入れたものに魔術的な力が働くようになっていた。
壁際には瓶や石、ステッキのような物などが散見される棚があり、一部には書類のようなものも残っている。
逸る心を抑えて慎重に触れてみたが、ひどく変色したそれは触れたそばからぼろぼろと崩れてしまった。
「こっちも、ダメだな」
瓶は辛うじて形を残していたが、石はヴァルムが持ち上げようと力を入れるといくつかに割れてしまった。
それ以上物に触れないように気を付けて視線を回すと、壁の一角に石板のような物が掲げられていた。半分以上崩れて落ちているが、残った部分に何か彫ってある。
「……天と、地を……繋ぐ? 結ぶ? 光の糸……綱? 一端を我が手、に……」
ゆっくりと口に乗せながら、ビヒトは詠唱の一部だと直感していた。今までに聞いたことのない言葉の並びに、確信は持てなかったけれど。
残りは崩れていてそこしか読み取れない。
床に落ちて割れている方をヴァルムも覗き込んでいたが、難しい顔をしている。
「ごく、簡単な炎の魔術の詠唱の一部、に似とる。気がする」
肩を竦めて、ビヒトに場所を譲るようにヴァルムは立ち上がった。入れ替わるようにしてビヒトが屈みこむ。
「……そう、だな。たぶん」
割れて崩れて所々しか読み取れないので憶測でしかないが、石板の大きさと文字の大きさから、文章は五行ほどだったと思われる。安直に考えれば、属性ごとの一番基礎的な詠唱文が書かれていたのではないだろうか。
炎、風、水、光。
そして、雷。
少し都合が良すぎやしないかと、自分を窘めつつも、もう一度壁の石板を見上げて、ビヒトは短い一文を目に焼き付けた。
「奥の部屋にもあるかもしんねえぞ」
「そうだな」
にやりと笑うヴァルムの誘い文句に、ビヒトはあっさりと乗ることにした。
同じものが無くとも、他の何かが出てくるかもしれない。
部屋を出て、通路の突き当りに向かう。
たいした距離じゃない。ほんの少し浮き足立っていたビヒトの背中を、ヴァルムが力いっぱい突き飛ばした。
バランスを崩して目の前に迫るドアに、ビヒトは反射的に手を伸ばしてその取手を掴み、身体を捻った。
背中からドアにぶつかりながら見た光景は、ヴァルムが後ろに飛び退くところだった。足元の低い位置に両側の壁から炎が噴き出して見える。
ひやりとしながらヴァルムに感謝の念を抱いたのも束の間、ビヒトの身体は重力に従って落ちていく。しがみつくようにしていた取手が音を立てて下を向いた。
とたん。
床が消えた。
正確には、ドアの前の通路が真ん中から割れて落とし穴になったのだが、ビヒトにそこまで把握する余裕はなかった。ひゅっと自身の息を呑む音をどこか他人事のように聞いて、穴の向こう側にヴァルムが残っているのを確認すると、あとは落ちるに身を任せるのみだった。
◇ ◆ ◇
体勢を立て直す間もなく、ビヒトは床に叩きつけられる。背から落ちたが、背負っていた袋がクッションとなってくれたのが幸いだった。意識を飛ばすこともなく、しばらく痛みに蹲る。
「ビヒト! 無事か!」
「……ああ。生きてる」
届いているか判らないが、一応口の中で返事を返す。
見上げるとヴァルムが覗き込んでいるのが見えた。思ったよりも遠い。ここは天井の高さが他のフロアの二倍ほどはありそうだった。上から差し込む光で天井まである金網のようなものや等間隔に並ぶ縦格子が見える。
が、全体を見通せるほどの光量はなく、ビヒトの周りは岩壁が確認できる程度。首を巡らせても闇が見えるだけだった。
周囲を警戒しながら、ベルトに吊るしておいたカンテラを取り出す。幸い、少し形がひしゃげた程度で済んでいた。
ちょうど、中の石を叩いたり交換したりするための小窓のところが歪んだようで、開けるのに手間取っていると、風が吹いた。
嫌な予感に、瞬間、手が止まる。
吹いていた風は止んだかと思うと、次には吸い込まれる音に変わった。静かな闇に響く息づかいに、手つきは乱暴になる。
何かが折れるような音をさせながら無理矢理開けた小窓から、中の石を指で弾く。
ぽっとついた明かりに、ビヒト自身も一瞬目を眩ませながらそれを掲げると、小さくギャッと声を上げて目元を隠した、ヴァルムと大差ない体格の腕の長い大きな猿が見えた。
素早く起き上がって、壁際に一歩下がったビヒトに、猿は甲高い声を上げて腕を振り上げる。
剣を抜いたビヒトだったが、猿の身体は格子に阻まれた。
猿とビヒトの間には中指程の長さの間隔で金属の棒が並んでおり、それを掴んで猿は悔しそうにがしゃがしゃと揺らした。
少し冷静になって、周囲を確認すると、ビヒトのいる場所は二方が壁で、もう二方が格子で区切られていた。猿のいない方の格子の一角は扉になっていて、向こう側に通路がある。どうやら、牢だか檻だかの中に落ちたようだ。
「ビヒト?」
「猿がいる! デカいヤツ。同じ部屋ではないが……」
金属の格子を掴んで揺する猿は段々と興奮を増していく。荒くなっていく息づかいの合間に甲高い叫び声が混じり始めていた。
壁に背をつけたまま、ビヒトはじりじりと扉に近付いた。幸運なことに鍵はかかっていないようだ。
ほっとしたのも束の間、隣も同じであれば、ビヒトが外に出ても追ってくるかもしれない。この猿がどのくらいの期間ここにいるのか知らないが、少なくともビヒトよりは
先輩
だ。出口の方向すらわからないビヒトが逃げきるのは無理がある。猿が彼に気をとられている間に、格子越しに何とかしてしまった方がいいのかもしれなかった。試しに踏み込んで剣を突き出すと、猿は素早く後ろへ飛び退いた。ギャーと、怒りの雄叫びを上げて再び前に出ると、格子の間からビヒトに手を伸ばす。
思ったよりも長い手にビヒトはまた壁際まで下がって、その手を払うように剣を薙いだ。瞬間引込められた腕はすぐにビヒトに伸ばされ、空を掻いたかと思うと床を叩きつけ、爪でガリガリと削った。
手首を落とそうと振り下ろした剣も、その頑丈な爪で弾かれる。
壁際にいればギリギリ届かないという微妙な距離で、左右から突き出される手を払い除けていく。
埒が明かない、と舌打ちすれば上からヴァルムの声がする。
「ビヒト、腕輪は?」
そうかと、一旦、奥に移動して荷物を開ける。猿も移動してきたが、微妙に届かない距離にイライラと床を引っ掻くばかりだった。
腕輪を着け、ついでに手に触れたチョークで壁に陣を描く。平らではないので少し苦労したが、複雑なものではないのでなんとか発動してくれるだろう。魔力を籠めるとフロアの半分ほどを照らす光が出現した。
暗闇に慣れた猿が喚きながら片手で光を遮り、もう一方の手を闇雲に振り回す。
ビヒトはそれを腕輪で受けに行った。
出現した三つの
「……は?」
思わず声が出る。
飲み込めないまま、今度は
「使えない!?」
叫びとなった言葉はヴァルムにも届いただろう。
理由を考えるよりも先に、猿から反射した光に視線が吸い寄せられる。
掲げられた腕の間から、ちらちらと光る物。
猿の額で時折光を反射しているのは、ちょうど親指と人差し指で作った丸くらいの大きさの、黄色いトパーズのような石だった。