第14章・裁定

文字数 18,048文字

 スヴェルトの竜頭船が戻るや、浜は大騒ぎになった。当然だろうとは思っていたが、さすがに良い気持ちはしなかった。しかも、スヴェルトがジョスを伴って下船すると、直ぐに兄の衛士達が近付いて来た。
「スヴェルト殿、族長がお呼びです。奥方様も御一緒に」
 無表情を装ってはいたが、子供の頃から知る者だ。その目は厳しくはなかった。兄にしても体裁を護る為には直ぐに自分を呼び付ける必要があるという事も、スヴェルトには分かっていた。
 スヴェルトは無言で頷いた。ジョスは心配げなミルド――ようやく名を憶える事が出来た――に先に戻るように言い、スヴェルトに寄り添った。
 衛士達に囲まれながらも、スヴェルトは堂々と歩んだ。裁定が下るまでは、少なくとも罪人ではないのだ。ヨルドも他の乗組員も一言も発しなかった。
 館の大広間に通されるのも想定済みだった。今回の事は個人的な問題では片付けられない。軍船(いくさぶね)と乗組員を動員したのだから、族長である兄としては当然の処遇だ。
 高座には厳しい顔でダヴァルが座し、傍らには義姉がいた。タマラは怒りで打ち震えており、目はジョスを睨み付けていた。
 スヴェルトはジョスから離れると兄の前に進み出て跪いた。衣擦れの音から、ジョスも女性としては最上の敬意を現す姿勢を取ったのが分かった。
「とんでもないことをしてくれたものだな」
 兄が言った。「私の許可もなく船を出したのみならず、これ程長く不在するとはな」
「お怒りは尤もな事と存じております」スヴェルトは(こうべ)を垂れたまま言った。「如何ような処罰も受ける所存でおります」
「そこまで分かっているならば、何故(なにゆえ)、このような行動に及んだ」
 ダヴァルは深い溜息を吐いた。
「我が妻を追う為です」
「一言もなく勝手な事を。せめて一言、直接私に船を出す許可を求めれば済んだ事ではないか。案内人を引っ張って行く暇はあったのだろう」
「あの時は一刻を争う事態でしたので、申し訳ない事に、その事を考える余裕は御座いませんでした」
「何の為の副官か。ヨルドも頼りにならん奴だ」
「一刻を争う、ですって」
 ダヴァルの言葉はタマラの鋭い声にかき消された。「この島が嫌で逃げ出した妻を追うなど、女々しい事を」
「お言葉ですが義姉上、ジョスはこの島が嫌であった訳では御座いません。全ては某に責任のある事。個人的な事に御座います」
「父親の船に駈け込むなど、部族の恥です。それも、族長集会で」
「義姉上とて、盛大な夫婦喧嘩の挙句に実家に戻られた事が何度か御座いましたが」
 兄は顔をしかめたが、スヴェルトは黙らなかった。「某とジョスの間にも、そのような行き違いがあったに過ぎませぬ」
「それで船を出したと言うのか。我等で最も大きな軍船を」
 ダヴァルはもう諦め顔だった。
「はい。族長の娘である某の妻を連れ戻すのに、最も適した船で御座いましょう」
 スヴェルトは、兄がタマラに戻って貰うのにどれ程の贈り物をしたのかも知っていた。「族長たる父君には礼を尽くさねばなりませんから」
「あなたやこの島を嫌う妻など、放っておけばよろしいのです」
「そう言う訳にも参りますまい。某には夫として随分と到らぬ所が御座いましたから」
「どれほどの恥を、わたしたちがこの女にかかされたのか、あなたにはわかってるのですか」
「分かりません」
 スヴェルトは義姉を見た。やはり、最大の難関はタマラのようだった。
「海狼殿は、我々がジョス殿を受け入れなかったとはお思いにならなかったか」
 兄の心配は、海狼との関係だ。
「全く、そのような事は御座いません。御安心を」
「でも、噂は他の部族にもいずれ及ぶのでしょうね」タマラは再びジョスを睨み付けていた。「わたしたちが海狼どのの娘をいびったとね」
「違うのですか」
 スヴェルトは静かに言った。
「この女、あなたに何を言ったの」
 タマラが動き、スヴェルトはジョスの前に立ちはだかった。
「お止め下さい、義姉上、ジョスは身籠もっております」
 ダヴァルが愕いたように腰を浮かせた。だが、タマラは冷静だった。
「誰の子だか、わかったっものではないわ」
 背後でジョスの身体が震えるのが分かった。
「某の子です。それ以外に、誰の子だと仰言るのですか」スヴェルトは低い声で言った。「どうぞ、御心当たりが御座いますならば、仰言って下さい」
「スヴェルト」
 ダヴァルが鋭く言った。ジョスに聞かせたくはないのか、それとも別の意図があるのかはスヴェルトには分からなかった。だが、義姉には腹が立っていた。世話になっていた間は抑えていたが、それも終わりだ。一家の長としての姿を示さねばならない。
「いいえ、大事な事です。某と妻、双方の名誉に関わる事で御座います」
 タマラはさも馬鹿にしたような顔でスヴェルトを見た。
「あなたの家の男奴隷よ」
「タマラ…」
 ダヴァルは脱力したように椅子に座り込んだ。
「そのような噂のあった事は存じております。しかし、妻は貞淑な女。不義を疑われるとは心外ですな」
 二人は睨み合った。
「タマラ、止めろ」
 結局、二人を止めたのは兄だった。タマラはスヴェルトとジョスを一瞥するとその傍らに戻った。ジョスが息を吐くのが分かった。
「とにかく、妻は休息を取らねばなりません」
 兄はスヴェルトのその言葉に安堵したようだった。
「では、追って沙汰する。それまでは謹慎だ。分かったな」
「仰せのままに」
 スヴェルトは胸に右手を当てて頭を下げた。そして、ジョスを立ち上がらせてその腕を引いた。
 外へ出ると思い切りのびをした。
「さて、ヨルドに後を頼みに行くか」
 その様子に、ジョスは呆れたような笑みを浮かべていた。
「何だ」
「まるで、何もなかったかのように。あなたという方は」
「そうだ。俺はそういう男だ。知らなかったのか」
 スヴェルトは笑った。その声にまだ若い衛士は怯んだような表情になった。館の中でも聞えているであろうから、兄は頭を抱えている事だろうとスヴェルトは意地悪く思った。
 浜は既に片付けられており、二人はヨルドの家に向かった。その道すがら、出会う人々が自分達を遠巻きに見ている事にも気付いたが、どうという事もなかった。こういう場合には堂々としているが最も賢明だとジョスも言っていた。
 ヨルドの家は集落の外れだった。大体の裕福な戦士はそういう場所に居を構える。ヨルドの祖父が建てた家だが、裏には畑が広がっている。家畜もいたような気もしたが、スヴェルトには余り興味のない事だった。冬の間はほぼ家に閉じこもる形であったジョスがここまで来たとは思えなかったが、フレーダは、それでも、雪の中を何度か足を運んでくれたようだった。
 辻を曲がると怒鳴り声が聞えて来た。ヨルドの声だ。奴隷を叱りつけているのだろうかとスヴェルトは思ったが、ジョスの顔色がさっと変わった。そう言えば、浜にフレーダと子供達の姿はなかった。家族の出迎えを当然と思うのは、ヨルドの父親も同じだった。嫌な予感がした。
 ジョスがスヴェルトの袖を引いた。その目は厳しかった。怒っているなとスヴェルトは思った。スヴェルトは頷いた。
 急いでヨルドの家をぐるりと囲んでいる垣根を回った。庭の方に近付くにつれて、声ははっきりとしてきた。ヨルドがフレーダを叱りつけているのだ。あの男の普段の言葉からすれば、ここはジョスが荒れるのではないかと不安になった。
 やはり、とその光景を見てスヴェルトは立ち止まった。畑に面した庭ではフレーダが地面に倒れており、子供達は怯えた様子で母親を近くから見守り、奴隷達も遠巻きになっていた。
 いきなり、ジョスが垣根を飛び越えた。止める間もなかった。
 手には何時の間に引き抜かれたのか、スヴェルトの長剣を手にしていた。
 ヨルドに走り寄ると体当たりを喰らわせ、不意を突かれた男の顎に肘をぶつけた。
 その勢いにヨルドは仰向けに倒れたが、その前にジョスは男の長剣をも鞘から引き抜いていた。
 地面に倒れたヨルドに立ち直る暇も与えず、ジョスはヨルドの腹の上に膝をつき、二本の長剣を首の両側に突き刺して交差させた。
 全ては一瞬の出来事だった。だが、スヴェルトの目には時間が引き延ばされたように見えた。
「少しでも動けば、首か喉がかっ切れるわよ」
 ジョスが低い声で言った。大人しい「奥方様」の影は微塵もなかった。戦士の詩にこそ相応しいような素早さと行動だ。これが女戦士としてのジョスなのだとスヴェルトは驚嘆した。あの俊敏な動きでは、並の男では太刀打ち出来まい。そしてあの目。かつて見た凶暴な光が、そこにはあった。
「団長、何とかして下さい」
 精一杯の声でヨルドが言った。
 だが、スヴェルトは垣根に寄り掛かり、笑いを浮かべた。
「女に手を上げる男は嫌いだと、俺は言ったはずだ。それに、今のジョスを俺はとてもではないが止められんな。俺も生命が惜しい」
 力なく立ち上がろうとするフレーダをジョスが助け起こした。
「なあ、ヨルド、お前もいい加減に観念したらどうだ」フレーダはジョスに力なく凭れている。「俺は知っているのだからな」
「何を、です」
 掠れた声でヨルドが言った。相当、苦しそうだった。恐怖もあるだろう。
「お前が本当はフレーダに惚れてる事だ」
 愕いた様子でジョスとフレーダがスヴェルトを見た。
「何を言い出すんですか」
 ヨルドが言った。
「この期に及んでも認めんとは、往生際が悪すぎるぞ」ヨルドは黙り、スヴェルトは続けた。「お前の親父さんが俺の親父殿に話したのを知っているぞ」少し、意地悪な気分になった。散々、言われた事への仕返しだ。「お前がフレーダと結婚したがっているから、フレーダの親父さんとの話し合いの場を設けてくれと頼んでいたなあ。フレーダの親父さんは頑固者で、特に一人娘のフレーダには婿を取るつもりだったようだし」
「ああ、分かりました。分かりましたから」ヨルドは精一杯の声で言った。「それ以上は――」
「じゃあ、きちんと自分で伝えるんだな。女房や子供を怯えさせるものではない」
 スヴェルトはジョスに頷いた。渋々と言った様子でジョスは、ヨルドを地面に貼り付けている剣を抜き、ヨルドの分を地面に放った。
 ゆっくりとヨルドは首をさすりながら上半身を起こし、剣を拾って鞘に収めると立ち上がった。スヴェルトの剣を手にしたままジョスは後ろに下がったが、ヨルドから目を離さなかった。信用していないのがありありと分った。
「さあ、ヨルド、俺達が見届けてやる。しっかりと言えよ」
 深い溜息をヨルドは吐いた。そして、フレーダと子供達に目をやった。
「ああ、その通りですよ、団長、貴方の仰言る通りです」
「それはフレーダに言う言葉だろう」
 スヴェルトはすっかり楽しくなって来ていた。
 ヨルドはフレーダを見た。
「団長の仰言った通りだ。俺は、お前にずっと気があった。お前以外とは結婚する気はなかった。だが、俺も一人息子だ、お前の親父さんの事も知っていたから、どうしても親父と族長の力を借りるしかなかった。俺が、お前との婚姻を望んでいるのではなく、飽くまでも家同士の関係を族長が望んでいるという形を取って貰った」
「それなら、どうして殴ったりなどするの」
 ジョスが言った。
「離れられないようにです」
 短くヨルドは言った。地面に目を落とし、誰とも顔を合わせようとはしなかった。
「そう言えば、お前の親父さんも良くお前やお袋さんを殴っていたな」スヴェルトは思い出した。「厳しくした後で優しくすると、女子供はそれで逃げないと自慢していた」
「そうです。だから、私もそれに倣ったまでです」
「それは間違っているわ」ジョスが言った。「殴っても、そこに恐怖と憎しみは生まれても愛情は生まれはしないわ。あなたは、自分のお母さまがそんな目にあっていて、どう思ったの」
 ヨルドは沈黙したままだったが、握り締めた拳が雄弁に物語っていた。
「快くは思わなかったのでしょう」
「――はい。親父をいっその事、殺してしまおうかとも思った事もありました」
「それなのに」ジョスは大きく息を吐いた。「いいこと、よく憶えておきなさい。殴ったからといって、愛情が手に入らないことは、あなたが一番よく知っているじゃない。それを繰り返してはだめよ。あなたが本当にフレーダと子供達のことを思うなら、傷付けるようなことをしてはいけないわ。今はフレーダも子供達もあなたを愛しているかもしれない。でも、このままでは、いつか、それが消えてしまっても仕方がないことなのよ。それにね」ジョスはフレーダに目をやった。「フレーダは身籠もっているわ。何かあれば苦しむのはあなたでしょう、ヨルド」
 スヴェルトは愕いてフレーダを見た。ジョスと同じく、そんな様子は全く見受けられなかった。ヨルドも同じく愕いたようだった。そして、力なく地面にへたり込んだ。
「大体、幼い子を二人も連れて浜へ出迎えるのがどれほど大変なことなのか、少しはわからないと」
「申し訳、ありません」
 ヨルドは絞り出すような声でそう言った。
「謝るのはわたしにではなく、フレーダにでしょう」
 静かにジョスは言った。
「俺は族長の裁定が下るまでは謹慎だ。後はお前に任せたからな」
「それは無茶です。

を私だけで統率出来る訳がないでしょう」
 ヨルドの抗議は聞えないふりをした。
 ジョスはフレーダを抱擁し、微笑みながらスヴェルトの元へ戻って来た。あの強い目の光は既に消えていた。長剣をスヴェルトに渡すと、そのまま再び垣根を乗り越えようとしたので、それは目で制した。身籠もっているのはフレーダばかりではない。ジョス自身もなのだ。なのに、それを忘れたかのような行動にスヴェルトは言うべき言葉を失ってしまった。
 子供を抱き上げるように、スヴェルトはジョスを持ち上げた。地面に降ろすと、ジョスはスヴェルトを見上げて笑みを浮かべた。
「お前という女は、全く」
「わたしが、こういう女だということを、ご存じなかったのですか」
 スヴェルトは声を上げて笑った。

    ※    ※    ※

 家の異変に、ジョスは直ぐに気付いた。
 扉を開ける迄もなく、荒んだ感じが伝わってきた。暫くの間に、ここはジョスの築き上げた場所ではなくなっていた。まるで、知らない家のように感ぜられた。
「ジョスさま」
 家の裏からミルドが走り出て来た。「大変です」
「どうしたの、そんなに慌てて」
 ソールトも、裏から来た。そして二人の姿を見ると頭を下げた。
「ハザルが、わたしを入れてはくれないのです。イズリグが、泣いてお許しを乞うておりましたが、鍵を開けさせて貰えないようです。スヴェルトさまとジョスさまがお帰りになったと伝えてもだめなのです」
 そのような権限はハザルにはない。女主人のみが出来る事だ。
「大丈夫だ、俺に任せろ」
 そう言うとスヴェルトは表の扉を蹴飛ばした。扉はひとたまりもなかった。
「もう少し、穏やかな方法もあったでしょうに」
 ジョスは呆れた。どうもこの人は、こういう時には力加減を忘れてしまうようだった。
「蝶番など、直ぐに修理できる」
 物音に愕いたのか、イズリグがやって来た。
「奥さま」
 その顔は、ほっとしたようにも泣きそうにも見えた。頬が腫れており、右目の下には紫の痕があった。誰かに殴られたのは明らかだった。娘はミルドに抱きついた。
「どうしたの、その顔は。なぜ、鍵をかけるように言われたの」
「あの人が誰も入れてはいけないと言ったのです。それに、今では、あの人が奥さまのお部屋を使っています」
 スヴェルトの機嫌が悪くなるのが分った。だが、ジョスはその腕に触れて頭を振り、冷静に対処しなくてはならない事を示した。
「話をするには、どこがいいかしら。食堂は大丈夫かしら」
「はい」
 ジョスとスヴェルトはいつもの席に着いた。ミルドには、厨房から椅子を持って来て隅に座ってもらった。
「ハザルを呼んできて」
 ジョスはイズリグに言った。怯えた様子の娘に、ミルドが腰を浮かしかけたが、それはスヴェルトが制した。ミルドは最早使用人ではない、という事をスヴェルトが認めた証拠だった。ジョスはそれを見て嬉しく思った。
 ひとしきりの騒動があって、ふて腐れた様子でハザルが姿を現した。その首に奴隷の鎖はなく、タマラから贈られたのであろう、良い生地の服を身に着けていた。そして、その腹部はそれと分るくらいに大きくなっていた。日数にすれば大きすぎるのではないかと思ったが、スヴェルトのような大柄な男の子ならそういう事も有り得るのだという事もまた、ジョスも知ってはいた。ハザルの席は用意されてはいない。
「留守居役、ご苦労さま」ジョスは静かに言った。「急なことで大変だったでしょうけれど、どうして鍵を開けなかったの」
「タマラさまからの指示です」敬意の欠片もなく、ハザルは言った。「わたしが、ここを仕切るようにと言いつかりました」
「でも、あなたは女主人ではないわ」
「族長の奥方さまには、そう認めていただいています」
「確かに、義姉上は族長の妻だ。だが、ここの主人ではない」
 スヴェルトが苦い顔をして言った。
「でも、奥さまはここを捨てられたのですよね。そうお聞きしましたが」
「そうだとしても、正式に離縁しない以上はあなたがここの女主人になることはないわ」
「離縁されるから、戻ってこられたのではないのですか」
 後ろにタマラがついているという自信からくるのだろうか、ハザルは落ち着いていた。
「離縁はしない」スヴェルトが言った。「ここの主人である俺が承知しない限り、離縁はない。お前が女主人になる事もない」
「タマラさまは、わたしを解放してくださいました。そして、あなたの正式な妻にとお考えのようですわ、スヴェルトさま」
 ジョスは屈辱で手が震えた。如何に族長の妻とは言え、勝手に物事を決められるのは、もう嫌だった。
「ジョスに離縁されたとしても、俺は再婚するつもりはない。必要ならば認知はするかもしれない。だが、ジョス自身も身籠っている。その意味くらいは分かるだろう。お前の子は、相続権も持たぬ庶子でしかない」
 怒りを含んだスヴェルトの口調に、ジョスは落ち着かせようとその腕に軽く触れた。その手に目をやり、スヴェルトは大きく息を吐いた。
「奥さまの子は、旦那さまのお子ではないとタマラさまがおっしゃっていましたが」
 スヴェルトは目を閉じ、腕を組んで椅子の背にどっかりと凭れた。もう、何を言う気も失せたようだった。
「族長の裁定が下るまで、ここの女主人はわたしです。あなたは元の部屋に戻りなさい」
 口調を強くしてジョスは言った。どれくらいの人が、その嫌な噂を信じているのだろうか。
「イズリグ、申し訳ないけどハザルを手伝って」ジョスは娘に優しく声を掛けた。「それと――」と身振りでミルドを示した。「ミルドは解放されました。これからはわたしの義妹(いもうと)として接するように」
 イズリグの顔が輝いた。食堂を去ろうとしていたハザルが、鋭い目でミルドを見た。だが、その挑発に乗る娘では、もう、なかった。ミルドはフラドリスの愛情を受けて以前よりもはるかに強くなっていた。あの打ちひしがれた不健康な娘の面影は何処にもなかった。
「ソールトの様子はどうかしら」
 ジョスは立ち上がった。家畜の事も気になった。
「わたしが見てまいります。どうか、ここでお休みになっていてください。ついでに薬草茶をお淹れしてまいります」
 ミルドが言った。
「あなたは扉の修理よね、スヴェルト」
 ジョスはにっこりと微笑んだ。

    ※    ※    ※

 族長の裁定の報せが来るまで五日が掛かった。長い時間だとスヴェルトは思った。普通ならば二、三日で決定が下る。タマラが口出しをしているか、長老達の間で意見が紛糾しているのだろうと、のんびりと構えていた。なるようにしか、ならない。その為に、二人で帰途の船で話し合った。法外追放も辞さない、と。
 果たして、兄がその決意を聞いてどう思うのかは分からなかった。法外追放者を出すのは、一族にとっても恥だ。しかも、ジョスは兄が欲しがった海狼との繋がりを強固にする子を宿している。誰の子か、という事は、この際、問題にはならないだろう。スヴェルトの子ではないのではと疑いはしても、ジョスの子を兄は切望していたのだから。
 だが、スヴェルトには分かっていた。
 ジョスの子は自分の子だ。
 その一方で、あの女奴隷――今は自由人だが、スヴェルトにはそうとしか考える事が出来なかった――の子には疑問を持っていた。海狼も男としての違和感を理解してくれた。それは大きな自信となった。
 やはり、自分とあの女の間には何もなかったのではないだろうか。あのでかい腹にしてもそうだ。ジョスは、大柄な男の子は往々にして胎内で日数よりも大きく育つと言った。かつて、兄の言った腹の中で育ち過ぎる、というのと同じなのかもしれない。その事を思うと、ジョスの身に何が起こるのかが心配にもなった。
 あの女の子が自分の子かどうか、産まれれば分る事だ。だが、もし、自分と同じ眼と髪の色をしていたら、どうなるのだろう。それ程珍しい色でもないが、否定も出来なくなるのだろうか。
「スヴェルトさま」
 ミルドが声を掛けて来た。まだジョスの弟の婚約者だとは思えなかったが、それなりの待遇をするだけの気持ちはあった。
「どうか、ジョスさまをよろしくお願いいたします。もし、スヴェルトさまの潔白の証人が必要でしたら、ソールトをお連れください。できればイズリグも」
「ソールトを」家に残った年配の奴隷の事だ。「何故」
「ドルスがソールトに、あのハザルから目を離さないようにと頼んでいたらしいのです。わたしもイズリグに同じことをもうしておりましたので」
「それで、俺の潔白が証明されるのか」
「ソールトには自信があるようでした」
「――済まない、恩に着る」
 スヴェルトは言った。本心だった。ドルスにもあらぬ疑いを掛けてしまった事への詫びでもあった。
「いいえ、ジョスさまのおためでしたら、何でもないことでございます」
 スヴェルトは頷いた。
 家の者は誰もが、その形は違えどもジョスを愛し、その役に立とうとする。ジョスが皆を愛するから、大切にするから。
 それはスヴェルトには真似の出来ない事だった。ジョスを知って、スヴェルトは初めて大切にされる事を知った。愛する事、愛される事を知った。両親は、跡取りで出来の良い兄は大切にした。だが、出来が悪い上に大きな身体を持て余した乱暴者だったスヴェルトは、十歳を過ぎると早かったが、戦士の館で未婚の叔父の監督下に置かれた。それを恨んだり、兄を羨んだりする事はなかったし、叔父もそれなりに可愛がってはくれたのだが、何かが、やはり欠けていたのかもしれない。
 戦いには長けてはいても、愛でる事を知らなかった。
 だから、ジョスをどう扱って良いのか分らなかった。
 それが、全てを狂わせる元だったのだろう。
 だが、今はそんな過去に囚われている場合ではなかった。裁定を受ける為に正装をしなければならず、スヴェルトは緋色の胴着を選んだ。革の剣帯をジョスが締めてくれた。ジョスは眼の色と同じ空色の長着姿だった。飾り帯にはスヴェルトの正妻である事を示す為か、熊の紋章が織り込まれている。
「参りましょうか」
 ジョスがまず、言った。裁定の場に相応しく、持参財の一つでもある片刃の小太刀も携帯している。
 スヴェルトはいつもの長剣を吊すと、頷いた。


 裁定の場には、兄夫妻の姿が既にあった。そして、スヴェルトの愕いた事に、ヒュルガと例の女奴隷――ハザルの姿もあった。念の為に連れて来た家の二人の奴隷は館の外に待たせていた。
 スヴェルトとジョスは族長に対峙し、拝礼した。スヴェルトは跪き、ジョスもその後ろで膝を付くのが分かった。
「残念だが、弟よ、我々はジョス殿を離縁する事に決めた」
 開口一番に兄が口にしたのはその言葉だった。「身籠った子の父親について不審な点がある事、今回の騒動の張本人であることが、その理由だ」
「某は、妻の子の父親に関しては自信があります」スヴェルトは言った。「そして、騒動の大元は某で御座います」
「そうかもしれん。だが、重大な事が判明したのでな」
 スヴェルトは愕いて兄を見た。その顔は苦々しげであり、出来れば胸に収めておきたかったと言うような表情だった。
「そこのハザルが、はっきりと聞いたそうだ。ジョス殿の母御は奴隷であった、と」
 そこを突いて来られるとは思わなかった。知っているのが兄だけであれば、海狼との縁を望んでいたので胸に収めてもくれていただろうが、他の者が知っているとなれば話は別だろう。知らぬ振りをする事も出来ない。いや、義姉が知ったとなれば只では済むまい。
「したが、兄上、ジョスの母君はれっきとした海狼殿の正妻。奴隷では御座いません。その言葉は、引いては海狼殿への侮辱に当たりましょう」
「その事実を知らされてはいなかった」
 兄の顔は柔らがない。
「知っておれば、何か変わっておりましたか」
「大いにな」
「例えば」
「この婚姻自体がなかったであろう」
 スヴェルトは兄を睨み付けた。海狼との縁を最も望んだのは兄ではなかったか。
「某からも申し上げましょう」
 スヴェルトは思わず立ち上がった。衛士達が慌てたように槍の穂先を向けたが、スヴェルトが 怒りに満ちた目を向けると怯んだように立ち竦んだ。ダヴァルはそれを手で制し、下がらせた。作法には反しているが、害意のない事くらいは誰もが承知している事だ。
「ジョスの母君は元は大陸の高貴の出。我々の祖父に一族を皆殺しにされて奴隷に落とされた方で、この島の伝説の織り()です。だが、海狼殿の正妻となられても、その権利があるにも関わらず血の復讐は望まれなかった」
「奴隷根性の染み付いた臆病者の言い訳です」
 タマラがさも馬鹿にしたように言った。
「いいえ、七部族の結束の為です。族長家同士が争えばどうなりましょうか。そして、某とジョスとの婚姻は、あちらにとり和解の意味もあったのです」
 ダヴァルは溜息を吐いた。
「だが、産まれはどうあろうと、正妻であろうと、奴隷には相違ないであろう。それとも、戦士の養女になるという手続きは踏んでおられたのか」
「こちらでは確かにそうでしょう。ですが、あの島ではそのような事は必要とされておりません。そもそも、戦士階級自体が存在しておりません」
 まだまだ言い足りなかったが、ジョスがスヴェルトの服を引いて頭を振った。これ以上、族長の意に逆らうな、という意味だろう。
「それで、某にジョスと離縁させて、どうする御積りなのかお聞かせ願えますか」
「ハザルとあなたを結婚させます」
 タマラが言った。
「これはこれは片腹痛い事で。ジョスを奴隷の子であるとして離縁を迫りながら、某に奴隷女を正妻にせよと仰言るので」
 おどけたような言葉しか浮かばなかった。兄は顔をしかめている。
「ハザルを解放しましたので、ヒュルガの養女にします。戦士階級の養女ともなれば、あなたの妻に相応しいでしょう」
「某はその女の胎の子を認めはしません」
「そうではないという証拠でもあるのですか」
 スヴェルトは衛士に外に控えさせている二人を呼ばせた。
「某の家使いの者です」スヴェルトは言った。「族長に申し上げる事があれば、ここで申せ」
「はい」農夫が口を開いた。「あの夜、その、私ともう一人は家畜小屋の隣に寝ておりました。冬の事もあり、仕事の量はそれ程多くありませんでした。ですから、夜中に家畜が騒げば目を醒まして、様子を見に行く事くらいは出来る状態でした。あの朝、旦那様がそこの女と共にいらっしゃるのを見た時には、思わず叫んでしまう程に愕きました。夜中、我々は寝ておりましたし、もし、酔った旦那様が家畜小屋の扉をお開けになられたのなら、絶対に気付いておりました。女連れであれば尚更です。それが、我々にも理解出来ない事です」
「他には」
 奴隷の長々しい言葉にうんざりしたようにダヴァルは言った。
「実は、旦那様と奥様のお留守の間、あの女は」とハザルを見やった。「男と会っておりました」
「何を言うの」
 立ち上がろうとしたハザルを、衛士の槍が止めた。
「わたしは、家の中のことをお留守の間にお世話をしておりました」勇気を奮い起こしたような声で奴隷の娘が言った。「お留守のあいだ、そちらにおいでの奥さま――とヒュルガの方を見た――とハザルさんとがよくお会いしているのを見ました。族長の奥方さまがご一緒のこともありました。旦那さまがお帰りになった時に、奥さまがご一緒なら、決して扉を開けてはならないと、わたしに三人でおっしゃいました」
「どういう事だ、タマラ」
 ダヴァルの声は震えていた。「お前は、この件にどの位深く、関わっているのか」
「わたくしは部族のことを考えましたわ」タマラは胸を張って言った。「この部族に合わない者は必要ありません。いいえ、合わないだけではなく、合わせようという気持ちすらも持ち合わせていない者は、追い出すべきです」
「三人で何を話し合ったのだ」
 ダヴァルの声は厳しかった。
「さきほど、あなたがおっしゃったのと同じことですわ」
 悪びれる様子もなく、また、ダヴァルの纏っていた雰囲気が一変したのに気付かぬようにタマラは言った。
「あれはお前の進言だった。それが最も良い方法だと思ったのは確かに私だ。だが、お前は全てをこの裁定の前に決めていたと言うのか」
「あなたでは、実の弟に厳しいご判断を下せませんでしょう」
 ダヴァルはヒュルガとハザルに目を移した。
「今の話は真実(まこと)か、ヒュルガ」
「はい、奥方さまのおっしゃるとおりでございます。わたくしも、それが最善の解決方法だと思いました」平然としてヒュルガは答えた。「こちらといたしましても、それ以上のお話はございませんから」
 兄が怒りをこらえているのがスヴェルトには分かった。族長である自分を(ないがし)ろにして、女達だけで全ての話は決まっていたのだ。そして、自分はそれにまんまと乗ってしまったのだから、仕方あるまい。
「族長」スヴェルトは兄上とは言わなかった。「某は、妻を離縁する気は毛頭御座いません」
 ダヴァルは改めてスヴェルトを見た。その動きは緩慢だった。
「裁定に従わぬ、その代償は知っているのだろうな」
「法外追放、で御座いましょう」
 タマラが愕いたようにスヴェルトを見た。
「何という不名誉な。そのような者を一族から出すわけにはいきません」
「某は一向に構いませぬ」
 スヴェルトは静かに言った。
「族長家から法外追放者を出すなど、とんでもない。その女」とジョスに指を突きつけた。「その女の母親が伝説の織り女なら、紫の目の魔女だわ。その女は魔女の血を引いているのよ。災いの元だわ」
 髪の毛を掻き毟らんばかりの姿に、スヴェルトは呆気に取られた。癇症な女だとは思ってはいたが、ここまでとは思わなかった。
 その時、背後から微かな笑い声が聞こえた。
 ジョスだった。

    ※    ※    ※

 これ以上、笑いをこらえるのは無理だった。
 何という茶番だろう。
 全ては最初から決まっていたのだ。自分の子は不義の子になり、ハザルの子はスヴェルトの子になる。そう、決められていたのだ。あの子はスヴェルトの子ではない。ジョスは確信した。
「どうされた。気でもおかしくなられたか」
 族長の声に、ジョスは立ち上がった。
「これ以上の話し合いは無駄と存じます、族長」ジョスは言った。「どなたもわたくしの意見は聞こうとなさらずに、全てを終わらせるおつもりですのね」
「あなたの偽りなど、聞きたくもありません」
 タマラが吐き捨てるように言った。そう、この女性はそもそもの始めからジョスの事を嫌っていた。
「わたくしの側の者の言葉は全て偽りで、あなたの側の者の言葉は無条件で真実ですのね、奥方さま」
 冷静にジョスは言った。
「母親だけが子の父を知ると言うのでしたら、わたくしの子はスヴェルトさまのお子、生命を賭してでも身の証を立てましょう」
 ジョスは父からの結婚の贈り物でもある片刃の小太刀に手をやった。スヴェルトが振り向いた。さすがに愕きは隠せないようだった。ダヴァルも瞠目してジョスを見た。
「わたくしも海狼の娘、そのくらいの覚悟がなくてどうしましょう。スヴェルトさまがそうされるのしたら、わたくしも法外追放を受け入れます」
 ジョスは族長から目を離さなかった。
 広間は張り詰めた空気で満ちた。ジョスに引く気はなかった。全てが自分を埒外に進められて行く事にはもう、うんざりだった。
 そう、これは、恐らく、タマラとヒュルガの画策した事なのだ。意のままにならぬジョスへの、スヴェルトへの意趣返しなのだ。
 嫌なその緊張を破ったのは、外から飛び込んで来た衛士だった。
「族長、大変です」
「今は裁定の最中だ、わきまえろ」
 鋭くダヴァルは言ったが、明らかに安堵していた。それが何事であろうとも、この今の状況よりはましだろう。
「船団の者達が…」
 スヴェルトの顔が曇った。不在の間の不祥事も船団長の責任だ。ジョスもそれは避けたかった。だが、スヴェルトの部下達はそのような事にはお構いなしに、衛士の言葉が終わらぬ内に大広間になだれ込んで来た。
「団長、犯人を見付けました」
 広間に入るなり戦士達は口々に言った。
「気を付けっ」
 スヴェルトの大音声が響いた。
「お前達、少しはわきまえろ」
 髭面で体格の良い戦士達がまるで子供のように畏まる姿に、ジョスは不謹慎にも笑みを浮かべそうになった。やはり、スヴェルトは指揮官なのだ。
「ヨルドはどうした」
「ここにおります」
 後方からヨルドが姿を現した。「もう、どうもこうもありゃしない」
「お前がいながら、なんて(ざま)だ」
「こいつらに言う事を聞かせられられるのは、貴方ををおいておりませんよ、やはり」
 ヨルドが言った。そしてジョスを見て

が悪そうに目礼した。
「団長、ようやく尻尾を摑みました」
 真剣な顔でヨルドは言い、部下達に合図した。
 縄でぐるぐる巻きにされた若者が引っ張り出され、ヨルドはその男を床に転がした。ヒュルガとハザルの顔色が変わったのを、ジョスは見逃さなかった。
「族長、御無礼の段、お許し下さい」
 ヨルドは跪き、他戦士達もそれに倣った。
「何事だ」ダヴァルが問うた。「その男は何だ。今は他の事にかかずらっている暇などない、下がれ」
「船団長の裁定に、大いに関わる事で御座います」ヨルドの言葉が広間に響いた。「我が船団長と奥方様の名誉に関係しておりますれば、どうぞ、お耳を傾けて戴きたく存知ます」
「どういう事だ」
 族長は身を乗り出した。弟のスヴェルトを裁くのは、この人にとり辛い事なのだ。その罪が軽くなるかもしれないのならば、どのような話でも聞くだろう。そこが不機嫌そうなタマラとは異なっているようだ。
「今回の騒動の前から、私共は事あれば団長の周辺を探っておりました。不愉快極まりない噂話が巷間に流布しておりましたので、動向を窺っていたのです」
 スヴェルトの顔に、思い当たるような節があるといった表情が浮かんでいた。
「ようやく、捕まえました。こいつが、そこにいる女の腹の子の父親です」

    ※    ※   ※

 空気が凍り付くのが、鈍感なスヴェルトにも分かった。
「詳しく族長に申し上げろ」 
 低くスヴェルトは言った。
 ヨルドこれまでの経緯を淀みなく語った。
 あの日、ヨルドは探ってみようかと言った。スヴェルトは断ったが、皆は密かに協力し合っていたのだ。指揮官として、これ程誇れる事があるだろうか。
「――で、御二人がいらっしゃらない間に、この男が御宅に上がり込んいるのをようやく、見付けたという訳です」
 感慨に耽っていて長々とした説明は耳には入らなかった。だが、ヨルドの最後の言葉ははっきりと聞こえた。農奴の言葉が裏付けられた。スヴェルトは床に転がされたままの若者を見た。自分の目と髪の色に良く似ている、まだ髭も生え揃っていないような若造だ。見覚えがあった。今回の全てをを仕組む程、頭が良いようには見えなかった。
「力ずくで吐かせたのではないだろうな」
 ダヴァルは静かに言った。それは肝心な所だ。
「そのような事は一切、御座いません。逃げ出さないのであれば、直ちに縄を解きましょう」
 スヴェルトはジョスを見た。急な事に愕いているのか、顔色が良くなかった。
「族長、真偽を問う前に、どうぞ某の妻に腰掛けることをお許し下さい」
「許可しよう」
 上の空でダヴァルは言った。完全に混乱しているのが分かった。それでも衛士は命令に従ってジョスの元に床几を運んで来た。
 まず兄はスヴェルトの奴隷に、ハザルを訪れたという男はこの者なのかを確認させた。答えは肯だった。
「どういう事なのか、説明して貰おうかクロス」
 そう、この若者の名はクロスだった。集会に随伴する積荷船には乗船した事はないが、父親は交易では随分とやり手だった。スヴェルトの父も兄も、交易島での龍涎香の取引を一任する程だった。そこの末息子だ。
 縄を解かれたクロスは震えていた。まだ宴会でも末席にしか座らせて貰えぬ十代の若者だ、仕方あるまい。
 スヴェルトはヒュルガと奴隷女を目の隅で見た。二人とも表面上は平然としているようであったが、内心の動揺が透けて見えた。脅えている、という事が戦士であるスヴェルトには分った。あの若者の一言で、二人の運命が決まるのだ、当然と言えば当然だろう。
「正直に申せ」
 ダヴァルが、次にはやや厳しい声で言った。
「わ…わたくしめが、ハザルの、腹の子の父である事に、間違い御座いません」
 震える声でクロスはつかえつかえ言った。
真実(まこと)か。我等が大神に誓えるのか」
 がっくりと若者は項垂れた。
「はい」
 大きく息を吐き、ダヴァルは椅子の背に凭れた。
「全てを説明して貰おうか」
 若者は語った。
 ハザルとは、ヒュルガの許へ通うようになって暫くでそういう関係になった事。ハザルに子が出来たが、末子である自分ではまだ愛人を囲うには早いと父が考えている事。ヒュルガの考えで、近頃、酔いどれているスヴェルトにその子を押し付けてしまおうではないかと進言された事、等々。
 呆気に取られる話だった。子の流し方など、ヒュルガは幾つも知っているはずだ。これは、要は、ヒュルガを切り捨てたスヴェルトへの復讐だったのだ。その為に、これ程の手の込んだ事をしてのけるとは思わなかった。
 家に戻る途中で酔い潰れて他家の家畜小屋に潜り込んでいたスヴェルトを、奴隷を使って運ばせた。その際には、起きぬように一服盛る事も忘れなかったというのだ。確かに、あの時分にはそういう事もたまにあった。だが、結局はひと眠りすると寒さに起きてジョスの待つ家に、暖かな寝床へと帰って行っていた。その行動を知らなければ、この計画は意味をなさなかったであろう。動向を、探られていたという事だ。
 処女の血も家畜の血だった。まるで乱暴されたように見せかけるのに、わざわざ女の衣まで引き裂くという念の入れようだ。足跡などの痕跡は夜半の雪に隠されてしまう。
 もし、納屋に奴隷がいなければ、誰も疑わなかっただろう。
 療法師も、実際にはタマラの息の掛かった者だった。そもそもの最初から、義姉は全てを知り、操っていたのだ。
 ジョスやヨルド、部下達が自分を信じてくれなければ、真相は闇の中だったかもしれない。
「族長」ヨルドがクロスの話が終わると言った。「差し出がましい事とは存じますが、我々一同、スヴェルト殿以外の誰の命令にも従う事は出来ませぬ。スヴェルト殿は(わたくし)めをこの五日間の代理に申しつけられましたが、(わたくし)では役不足で御座います。どうぞ、正当な裁きを」
「ヒュルガ、今の話を聞いて、何か申す事はあるか」
 兄はヒュルガを見た。その目に温かみはなかった。
 ヒュルガは黙っている。そして縋るようにタマラを見たが、ダヴァルはその仕種を見逃さなかった。
「タマラ、お前から言う事はないのか」
 聞いた事のない冷たい声だった。兄は常に義姉には甘かった。助言を求める事も多かった。だが、今は違う。これ程に厳しい兄は初めてだった。
「わたくしは部族の事を考えただけですわ。全くわたくしたちに馴染もうとしない者よりは、部族の中からあなたの弟君の妻を選んだ方がよくはありませんか。もともと、スヴェルトはヒュルガと関係がありましたし、わたくしは、ヒュルガを妻の座にとずっと思っておりましたわ」
 ジョスの前でヒュルガとの事を持ち出されるのは気分が悪かった。
「でも、この奴隷が身籠もったと言うではありませんか。それならば、ヒュルガの養女にして娶らせようと思ったしだいですわ」


「ええ、でもよい機会ではありませんか、父親としての自覚をうながすには」タマラは肩を竦めた。兄の言葉の語気の強さは通じてはいないようだった。「次の子が出来れば、廃嫡なら、簡単に出来ますわ」
 安楽椅子の肘掛けを摑む兄の拳が震えていた。愛人の子であろうと女子であろうと、子煩悩な兄にとっては道具のように子を用いるのは我慢ならないだろう。
「某とヒュルガとは、先の遠征の後に終わっております」スヴェルトは胸を張って言った。ジョスの為にも、その事ははっきりさせておきたかった。「最早、何の関係も御座いません。例え、義姉上がヒュルガを某の妻にと画策された所で、甲斐はなかったでしょうが」
「スヴェルト、お前はジョス殿がこの島に馴染もうとしていないと思うのか」
「某には、そうは思えません。我々の神々にも礼を尽くしておりますし、最初の頃は奴隷も貸しては戴けませんでしたので、妻は全てを一人でこなさねばなりませんでした。服装や生活の上での不満は、某には一切御座いません。むしろ、感心しております」
「わたくしが教えて差し上げようと言いましたのに、拒否したのはそちらですわ」
 タマラも負けてはいなかった。
「あれは」
 ジョスが思わず立ち上がった気配がした。だが、スヴェルトは敢えて振り向かなかった。
「失礼いたしました」
 ジョスはそう言い、席に着いたようだった。わきまえるべき所は良く分っている証拠だ。それを兄に分らせたかった。
「ジョス殿、理由があるなら述べられよ」
 兄の言葉に、ジョスは再び立ち上がったようだったが、口を開かなかった。不審に思ってスヴェルトは振り向いた。族長に物怖じをするような女ではないはずだ。
 ジョスは俯き、恥ずかしげにしていた。
 スヴェルトがジョスに近付くと、はにかんだ様子で誰にも聞えないように小さな声で耳打ちされた。それは、この部族の明け透けな女にはないものだった。
 兄の許へ行き、スヴェルトは同じ事を繰り返した。
 ダヴァルは大きな溜息をついた。
「ジョス殿は貞淑にして恥じらい多い婦人だ。その事が証明された。全ての疑いは晴れた」
 要はジョスとしては夫婦生活の有無が他人に――特にタマラに知られるのが嫌だったのだ。その責任はスヴェルトにあったのだが、さすがに兄にでもその事を言うのは憚られた。
「では、改めて裁定を下そう。スヴェルト夫妻はこの騒動の原因として、既に五日間の謹慎を受けた。それ以上はなしだ」
 未だに広間にいる戦士達の間から、歓声が上がった。それを咳払いで鎮めると、ダヴァルは続けた。
「ヒュルガ、お前は船団長のみならず族長をも欺こうとした。それ故に、お前は神々の長たる大神の巫女として余生を償い、財産の全てを神に捧げよ」
 ヒュルガは力なく頭を垂れた。清廉な巫女としての生活は、多情なこの女には辛かろうと思ったが、同情はしなかった。
「そして、クロスとハザルの罪は許し難い。両人共に法外追放と為す」
 二人は死を宣告されたも同然だった。
「タマラ、お前は二度と族長の領域に踏み込んではならん」
 その言葉に、スヴェルトは兄がようやく一人前の族長となった姿を見た。何処か頼りなげであった姿は、そこには微塵もなかった。
「ジョス殿」ダヴァルは声を和らげて言った。「このような兄弟と義姉であって申し訳ない。もし、貴女が我々に愛想を尽かせてスヴェルトめを離縁なさろうとも、止める術は持たぬ」
「わたくしは――」ジョスはスヴェルトの傍らに立った。「わたくしは、族長、スヴェルトさまを自らの運命と思い定めてまいりました。何もためらうことはございません。わたくしは、一生、スヴェルトさまのお側にいたいと存じます」
 ダヴァルは微笑んだ。
「お前は果報者だな、スヴェルト。これ程の良い嫁御はそうそう見付かるものではないぞ」
「はい、心得ております」
 スヴェルトはジョスを見た。 
 ジョスもスヴェルトを見上げていた。
 二人は微笑みを交わした。
 ああ、幸せだと、スヴェルトは思った。
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