一話完結

文字数 4,906文字

「ねぇ、もう一回だけ弾いてくれない?」
 ピアノを指さしながら、ぼくの目を見て、彼女は言った。後ろにある窓から差し込む火照った茜の光が彼女の顔を照らしていた。
「そんなに好きだったか、ピアノ」
 すっかり手首まで落ちてきたシャツを再び丁寧に上げていると、直立していた彼女は近くの席に座って「うん・・・好き」とささやいた。
「そっか」
 それだけ言って、ぼくは譜面に目をやった。いま、弾いている演奏がどこまでも響けばいいのに。そんな思いを胸に秘めていた。どこまでも。校内へ、そして校庭まで。どこまでも、どこまでも。
「あのさ、最後に一回だけ」
 四分ほどの短い演奏だった。コンクールは終わったばかりで、次のコンクールまでは時間があるから、詰め込む理由もない。遊戯に近い演奏も、彼女は終わったら、いつも拍手をした。手のひらが真っ赤に染まるほど激しい拍手を。
「えぇ、また?」
「またよ、また。ね、お願いだから」
「まだコンクールまで時間あるから早く帰りたいんだけど」
「そんなこと言わないでさ。どうせ家帰ってもピアノに籠ってるんでしょ。だったら、私に聞かせなさいよ」
「そんなに音楽すきじゃないだろ」
「何言ってんのよ。好きよ、好き。大好きだから」
「どうだか。昔は音楽なんてだいっきらいとか泣きじゃくってたのに」
「ちょ、あれは。違うって」
 顔を赤らめて「あれは夕方までレッスンなんてするから」、そう呟き、ぼくの腋をつついた。そのこそばゆさに、思わず声を出して笑い、その態度をみて、彼女もまた嬉しそうに微笑した。
「ねぇ」
「ん、どうした?」
 ひと笑いを終えて、少しの静寂がやってきたが、あっけなく彼女によって破られた。
「わたし、夜が嫌い。ずっと夕暮れのまま、夕日が沈まないでほしいって思うの」
「夕暮れのままも、ぼくは嫌だけどな」
「え、そう?」
「そうさ。だって、夕日を眺めるときほど寂しいことはないからな」
 窓を見た。家々の屋根に隠れようとしている夕日に導かれて映る茜空。すっかり東の空は群青に夜を目覚まし、三日月を浮かび上がらせている。
「私は夕方が好きよ」
「まるで合わないな、ぼくたち」
 そう言ったら、彼女は微笑した。
「そうかもしれない」
「でも、夕方が好きなんて意外だな」
「そうかな。よく分からないけど」
「そうさ。だって、泣きながら音楽を辞めて私と遊べぇ、なんて言った時だって夕暮れの時だったと思うからさ」
 おどけながら話し、彼女の反応を確かめようと顔を覗き込むと、見惚れる美しさが、そこにはあった。
「よく覚えてるね」
「え、いや、さすがに強烈だったから忘れられないだけっていうか」
「そうね、だから私は好きなのかもしれない」
「夕方が?ふつうは忘れたいほど恥ずかしいことがあると嫌いになると思うけど」
「ううん。私が何か大切なことをするときって、いつも日が沈んでいる時なの。始まりにしろ、終わりにしろ。私の心の中の思い出は、いつも、いつも夕方に始まって、夜前に終わるの。だから、夜は嫌い。思い出が終わってしまうから」
 返す言葉がみつからなかった。逃げるように窓を覗くと、もう辺りは真っ暗だった。冬の夜は早起きだ。少しでも目を離したら、風と共に消え去ってしまう。
「ねぇ、もう一回だけ、ピアノ弾いてよ」
 強い口調で彼女は言った。こぶしを握りしめ、汗が床にしたたり落ちていた。ぼくは時計を見た。短い針は真下を通過していた。もう六時だ。時間になった。
「ごめん。今日はもう無理だ。これからレッスンに行かなきゃだから」
 楽譜をバッグの中にしまいながら、淡々と返した。今学期だけで、いったい何回、同じ言葉を吐いただろう。記憶にない。
「一分だけでいいから。ね、お願いだから」 
 突っ立ったまま言葉を紡ぐ彼女を見て、ぼくの心に真綿が優しく締め上げた。
「ごめん。また明日」
 ぼくは駆けだすように音楽室から出た。入り口のとびらを閉め、暗く沈んだ廊下を走った。もう下校時間は過ぎている。音楽室からだけ、ずっと光が漏れ出していた。
 ぼくは少しの時間ロスを埋めるために、慌てた足音を鳴らして、昇降口で上履きからシューズへ最速の履き替えを披露し、白んだ息を吐きながら校門前まで向かった。この時間帯は、部活を終えた人たちでごった返していた。バッグを振りながら友達とじゃれ合う野球部に、石ころを蹴飛ばすサッカー部。重そうな金管楽器のケースを背負いながら大きな声で先輩に挨拶する吹奏楽部。他にも数えきれない多種多様な部活が入り乱れていた。みんな等間隔に灯されている街灯を目印に校門へ向かっていた。
 校門前に到着すると、ぼくは目立たないように影ができている場所へ駆け寄り、そこで下校している生徒をひとりひとりに向かって目を光らせた。
 時々、街灯に混じってスマホの明かりが空を照らした。その光が吐き出される白い息と重なって、細雪のような煌めく結晶を生み出すこともある。その瞬間を見ると、微笑んでしまうほど、幸運を捕らえられたのだと実感した。
「あ」
 幻想的な光景に魅せられても、その人を見かけると、どうしても胸が張り裂けそうになった。校門前の街灯の下、あの人は立っていた。チラチラとスマホを確認しながら、重厚感のあるリュックを背負って、友達や後輩に声をかけられると「おう、じゃーな」、と笑って返している。
「土井先輩」
 小さな声も、先輩は見逃すことがなかった。声の方に目を向け、スマホを持った手をぶんぶんと振った。サイリウムのように光が眩しく、ぼくの目を奪った。その輝きに魅せられながら、先輩の元まで向かった。
「よぉ、今日も待ちぼうけかよ」
「はい、先輩もですよね」
「まぁ、そうだけどな。すっかり慣れっこだよ」
 頭上の街灯が気まぐれに光を弱らせたりしている。流れるまま溢れる学生たちの声が、ぼくには救いに感じられた。雪よ、降ってくれ。心の中でそう願った。そうすれば、傘をさすのに。
「あぁ、言い忘れたけど」
「はい?どうしたんですか?」
「コンクール。入賞したんだって?」
「あ、はい。一番ではなかったですが」
「すごいじゃん。ほんま、かっこええわ」
「そんな、先輩。買いかぶりですよ」
 右手で後ろ髪をかきながら口角を上げていると、その腕を掴まれ、先輩の元まで引っ張られた。驚いて、先輩の顔を覗くと、息を呑むほど真剣な顔がそこにはあった。
「いや、誇るべきだ。吹奏楽や野球と違って、完全に一人の実力で手に入れたんだ。すべて、自分一人の力でだ。それで表彰されたんだから、もっと誇っていいはずだ」
 先輩は、いつも言う。一切の冗談をのせることなく、ただ真っすぐに人を見つめ、そこに嫉妬や羨望を含めずに、純粋に言いたいことだけを残す。数分もすれば、本人は忘れるだろうが、ぼくの脳裏には、先輩の言葉が張り付いて脳を響かせる。
「あ、ありがとう、ございます」
 目をそらすこともできず、お互いに熱い視線をかわしながら、ぼくが感謝を述べると、握られていた腕がようやく離され、何度も満足そうに大きくうなずいていた。
「おれも頑張らなきゃって、会うたびに思うよ」
 ぼくはようやく目線をそらした。苦しくならない最大の反抗だった。歯をかみしめ、感情を殺し、地面に寝そべっている石ころやペットボトルを黙々と数え始めた。
「お、もうすぐ来るって」
 その声にぼくの肩は反応した。そんな気がしてならなかった。冷たい嫌な汗が首元を通った。この人は全てを理解している。そんな考えが頭をよぎるたびに、決まって敗北感が胸を押し込み、ぼくを絞め殺そうとした。
「もう、一月も終わりか」
 空気を裂く悲しき小さな声がぼくの耳を包んだ。
「先輩。もう卒業ですか」
 その声は明るかった。
「あぁ、もうすぐ春が来て、おれもついに高校生かぁ」
「それにしても、先輩。こんな時間まで学校にいていいんですか。受験はどうするんですか」
「だいじょうぶ、とは言い切れないかもなぁ。でもよ、安心しろって。さっきまで教室で勉強してたんだから」
「そうですか。そう信じときます」
「信じろって。でも、もう春かぁ。はやいなぁ」
 その哀愁に吐き出された言葉と、視界に映っている萎れた雑草がぼくの五感を刺激した。大変な冬を我慢して過ごし、ついに春になり、咲こうとするフキノトウは、人によって慈しめられながら刈り取られるだろう。耐え抜いた果てに、理不尽な力が外から襲ってきて、その生涯に幕を下ろされる。この時のフキノトウの気持ちとは何なのだろう。悲しいのかな、苦しいのかな。恨めしいのかな。それとも、安心、なのかな。
「ぼくは、寂しいですね」
 下を向きながら言った。すると、一回り大きい手が僕の髪の毛をワシャワシャと愛撫した。
「へぇ、そうかい」
「そうですよ」
「おれも正直、寂しいわ。なんか、その『寂しい』って言葉を聞くだけで、痛く胸に染みわたるんだよね。こう、綿毛が飛び散るまでジッとしているタンポポみたいで」
「そうですか。なんか、詩的でいいですね」
「バカにしてんのかい」
「してませんって」
 一回り大きな声を上げて否定すると、ぼくの耳元から「キャッ」という悲鳴が聞こえた。声の方向を見ると、思わず体が凍った。
「ちょっと、突然おおきな声ださないでよ」
「み、あ、い、五十嵐さん」
「別に、美紀で良いって言ってるのに。ひさしぶり、ヒーくん」
「うん、ひ、ひさしぶり」
 快活で明るい、夜さえも照らす声。その声すら耳に届かないほど、ぼくの心臓は騒がしく鳴っていた。唇も震え、淀んでいた血行が急に滑らかに全身を回りだし、冬の空に湯気が立った。
「どうしたの。またアカリを待っているの?」
「そう、なの。あいつ、また連絡せずに居残りで練習してるんだよ。きっと」
「ふふっ。そうなの。寒い中おつかれさまです」
 そうしてペコリとお辞儀をする美紀に、ぼくの左手が動いたが、すぐにそれを制止して、いたずらな笑顔を向けた。それを見て、美紀もまた嬉しそうに笑った。
「おい、美紀」
 ぼくたちが目を合わせていると、低い声がうなりを上げてぼくらを阻んだ。すぐに美紀は振り返って、先輩の顔を見上げた。
「あっ、高田先輩。いえ、あの、ごめんなさい。待たせてしまって」
「いいって、それに、かずおで良いって言ってるでしょ」
「は、はい。えっと、か、かずお、くん」
 美紀の背中だけで、表情が分からなかった。それでも、両手で髪の毛を顔に引っ張っている姿を見て、すぐに目線を地面に向けた。
「それじゃ、ヒーくん。またね」
 胸元でしおらしく手を振って、美紀は歩き出している先輩の後ろを追っかけた。あぁ、今日も晴れてよかった。おかげで美紀に影ができなくて済む。傘に守られず、自分の足だけで進んでくれる。
 夜は嫌い。彼女はそう言ったけど、ぼくは思わない。だって、夜になれば、下校時間になれば、美紀に会えるから。会って、言葉を交わすことができるのだから。夜がやってきて、ようやく始まるから。それでいい。それだけで満足だ。
「ちょっと何してんの」
 振り返ると、そこに彼女はいた。両手でノートを抱え込んでいる。街灯で薄暗く照らされたそのノートには、ぼくが弾いていた曲の名前が書かれていた。
「なにって、何もしてないよ」
「レッスンは?」
「今日はお休みになった」
「へぇ、そっか」
「うん。ところで、そのノート。どうしたの?」
「へ、いや、これは、さっき先生に数学で分からない場所があったから、聞いてきただけで」
「そう」
「・・・うん」
 忙しなく持っていたノートをバッグの中に詰めて、彼女は数メートルだけ歩き出し、そうして踵を返して、ぼくの前に戻ってきた。
「ね、帰ろっか」
 ぼくはうなずいた。そうして、足を前へ進めた。マフラーで覆われている彼女の口から煙が溢れ、ぼくの体に当たって静かに消えた。
 横に並んで歩みを進める彼女に、ぼくは微笑んだ。
「明日も、ピアノ弾いてやるよ」
 そう言うと、彼女はぼくに視線を合わせ、喜々とした声で「よろしく頼みます」と言って笑った。
 その顔を受けて、ぼくは咄嗟に目線を前へ戻した。街灯も少なくなり、完全な暗闇になりつつある道路に、二つの影が見つかることなく消えていった。
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