第1話
文字数 1,293文字
理科室には一種独特の臭いがある。
教室に入った瞬間、つんと鼻をつくアルコールの臭いやセラミックの焦げた臭い……。
それもさることながら、生き物の液浸標本、今にも動き出しそうなガイコツの模型、三角フラスコとかビーカーなどの無機的な実験道具たち、そうしたもののすべてが、真夏の蒸し暑い夜なのに、かえって一脈の不安を感じさせ、背筋をゾクッとさせるようなひんやりとした雰囲気をかもしだしている。
未知の体験――いや、むしろ、過去の苦痛の思い出といってもいい。
そんな理科室のドアの前に、ぼくはいま、なぜか立っている。
こんなおぞけを震う時間に――時刻は草木も眠る丑三つ時、小学校の理科室に入るのは、いや、忍び込むのは、もちろん、初めての体験だった。
「ごちそうさま……」
言うが早いか、ぼくはもう、「いってきまーす」と玄関のドアに、背中を押しつけていた。
「カッちゃん、寄り道しないで、早く帰ってくるのよ!」
という母さんのヒステリックな声を、ドアの向こう側の自由が窒息しかかった世界に封じ込めるようにして……。
ぼくが通う小学校では夏休みになると、毎年、プールが開放される。
学校によって、開放される期間は様々にあるらしい。いや、それより中には、開放されない学校だってあるという。
それを思えばぼくの運もまんざら捨てたもんじゃないのかもしれない。
ともあれ、ぼくの学校ではおりしも、プールが開放されているさなかだ。
プールで泳ぐのを待ちわびていた人たちにとっては、いよいよ、うってつけの時節の到来というわけだ。
もちろん、ぼくもそのひとり。でもぼくは、単にプールで泳ぎたいから、この季節がくるのを待ちわびていたわけじゃない。
たしかに、夏休みがくると、先生の監視のもとで窒息しかかっていた自由をとりもどすことができる。たぶんみんなは、だから夏休みがくるのを今か今かと待ちわびているのだろう。
けれどぼくは、ちがうのだ。ぼくにとって、夏休みはけっこうつらい。
つらいのは、夏休みになると家に一日中いるからだ。そうすると、今度は、先生のかわりに母さんの監視下に置かれてしまう。ぼくにとって、こっちのほうが、むしろ自由は窒息しがちだ。
それでなくても、母さんはふだんから、ああしろこうしろと、ぼくに対してつべこべうるさい。
たとえば、ふだんなら、とくに宿題についてだけれど、それが、夏休みになると、さらにエスカレートする。やれ、カッちゃんお風呂掃除しといてとか、お使いに行ってとか、さらには、庭の花壇のお花に水やりしといてとか、とにかく、いいように、こき使われてしまう。
そこへいくと、プールが開放されると、母さんのくびきからようやっと解放される。
「父さん、プールに行きたいんだけど」
「おー、いってこい、いってこい。夏休みは、何かと運動不足になりがちだからな。だからカツユキ、むしろ積極的に行ってこい」
などという、とっても素敵な大義名分すらできる。そうすると、母さんに気兼ねなく、家を抜け出せる。
というわけで、ぼくは昼食を摂るやいなや、そっこう、家を飛び出していた。
つづく