空みたい海みたい

文字数 5,371文字

 陰日向の多肉植物の葉が茶けてぶよぶよに腐っているのを見たとき、ああこれでやっと自分の中に衣吹くんと別れる明確な理由を見つけられたと思った。
「水を遣るのは月に一、二回でいいの。それ以上では腐ってしまうから」
 何度説明しても、衣吹くんはそれに対して「なんか可哀想な気がする」との言葉を返した。あのね、衣吹くん。衣吹くんのそのピントのずれた愛情こそが、この植物を水中毒で殺しちゃった要因なんだよ。そうやってはっきりと言ってやったなら、彼は一体どれぐらい盛大に顔をしかめて、どれぐらい私への言い訳を重ねるのだろう。
 結局私は衣吹くんのそういう言い訳がましいところをどうしても好きになれなくて、きっと衣吹くんだって私のこういう言葉尻の冷たいところをどうしても好きになれなかったのだと思う。大学のサークル内で知り合い、就職を機に一緒に暮らし始めて一年と六ヶ月。好きな音楽も、好みのファッションも、味覚も性格も笑うポイントも、何もかもが相容れない私たちの唯一の共通点は「異常なほどに青色が好き」ただその一点で、本当に、それだけを理由として恋愛関係を貫いてきた私たちはよくここまで続いたものだと自分でも感心してしまう。


 晩御飯を食べながら同棲の解消を申し出たとき、衣吹くんは間の抜けた声を上げて驚いていた。けれどそれもわずかな時間だけのことで、しばらくすると彼は、
「あー……、となると俺も引っ越さなきゃだ。ふたりだからここの家賃も払えていたわけだし、ひとりになるならこの広さは要らないもんなあ」
 そうして食べ終わった食器をシンクに置き去りに、通帳を見ながらかったるそうに電卓を弾き出す。ずっと前から私の心持ちがそうであったように、衣吹くんの中でも私はとっくの昔にただの“同居人”へと成り下がっていたのだろう。友人などの部外者からどう見えていたのかは知らないけれど、少なくとも私たちの認識が共通して「愛しの恋人」などという甘ったるいものであった時期なんて暮らし始めてから最初の数ヵ月そこらが精々だったはずで、それに関して私自身「私たちなんてそんなものだろうな」としか思えない。それでもこの事実はどうしても私の心にある何らかのしこりの輪郭を明らかにする。
 衣吹くんがブツブツ数字と格闘する声を背に、私はふたり分の食器を洗う。冷しゃぶを載せていた、掌を広げたよりも大きな紺色の平皿。モヤシと韮のナムルは空色の小皿に、取り皿に使ったコバルトブルーの豆皿は駅前の雑貨店で四枚ずつ買ったものだ。衣吹くん用のお茶碗はネイビーブルー、私のお茶碗は茄子紺。ふたつ揃いのマグカップはそれぞれ浅葱色と白群、お互い気分によって好きなほうを選んでいた。
 家にある全ての食器が青いだなんて、この街じゃきっと私たちだけだよね、と顔を見合わせて笑った一年六ヶ月前の私たちが今の私たちを見たら、一体どんな顔をするのだろう。訳もなくスポンジを繰り返し握り締める。肌理の粗い泡が立つ。
「なあー、未波はいつごろ出て行きたいとかあるの? 特にないんだったらさ、悪いんだけど二ヶ月ぐらい待ってもらえない? せっかくならじっくり家探ししたいけど、俺いま仕事死ぬほど立て込んでてしばらく内見だ荷造りだってできそうにないんだよな。となるとまあ先延ばしにはなっちゃうけど、お互い三月の引っ越しシーズン辺りに新居探しに行ったほうがむしろ得な気がするんだよね。そっちのほうが絶対、いま慌てて決めるよりいい部屋見つけられるだろうし。あ、それとも未波は実家戻る予定だとか?」
 蛇口をひねる。スポンジごと右手を水道にかざす。白い泡が排水溝へと吸い込まれていく。
「……んーん、私もまたひとり暮らしする予定。確かに三月くらいのほうが空き部屋の数も多いだろうし、そっちのがいいかもね。じゃ、お互い目標はその辺りってことで」
 衣吹くんとの生活もあと二ヶ月だけなのだと思うと、自然と嫌味は出てこなかった。
 最後ぐらいは常に笑顔で、冷たい言葉を慎んでいよう。たとえ、衣吹くんがどれほどの言い訳を重ねたとしても。


 そこからの二ヶ月間を衣吹くんがどう感じていたのか私にはこれっぽっちもわからないけれど、少なくとも私にとってこの二ヶ月は彼と同棲した一年八ヶ月で最も幸福な時間だったと言い切ることができた。当たり前のことだ、私たちはもう二ヵ月前に恋人としての生活を暗黙の了解として終えていて、それ以降私たちはお互いをただのルームメイトとして扱うことに徹したのだから。
 私は衣吹くんの後に入る湯船に髪の毛が浮かんでいても苛立ちを覚えなくなっていたし、お茶を飲んだだけのコップをシンクに放置されても「だらしないな」と思っただけで済んだし、何となく流しただけの映画に手を繋ぐシーンが出てきても、キスシーンが出てきても、それ以上のシーンが出てきても、私たちには自らにそういったノルマを課す必要がなかった。おそらくは衣吹くんも、私が食器棚の扉を半開きにしたままなのを見ても苛立たなかっただろうし、私が出しっ放しにしたままの基礎化粧品を見ても何とも思わなかっただろうし、風呂上がりの私が薄着でくつろいでいても、この二ヶ月ただの一度も抱き着こうとはしなかった。恋人であることを辞め、同居するだけの他人として一定の線引きができるようになった私たちは、誰が見ても適切な形でお互いを尊重し、そうしてお互いに干渉することへの興味の一切を失った。
 そもそも私たちは恋人になんてなるべきじゃなかったのだと思う。
 同じ大学の、好きな色が一緒で、何となく話しやすい異性の友達として、だらだらと時間を無駄にして馬鹿みたいに楽しいことだけを共有しておけばよかったのだと思う。他の友人を介し、たまに飲みに行って、お互いを異性として意識することもなく、だから恋仲になることもなく、そうしているうちにどこかで飽きがきて、少しずつ疎遠になっていけばよかったのだと思う。
 そうしたらきっと、きっと私たちはこんなふうにお互いを「もうどうでもいい人だしな」なんて諦めずに済んだはずなのだと思う。
 こんなにも悲しい気持ちを、こんなにも淡白な状態で知ることなんてなかったはずなのだと思う。


 三月。上旬に衣吹くんが駅から少し遠い川沿いのアパートを、中旬には私も地元密着型のスーパーからほど近いアパートを契約し、四月の第一週にお互いこの部屋を出ていくことになった。
 私が新しく暮らすアパートから駅へ向かう途中にも幅の狭い川があって、内見に向かう道中にはその川の両脇に咲く桜の花を眺めた。不動産屋と「綺麗ですねえ」「そうですねえ」なんてありふれた言葉の応酬をしていると、道路の向こうから散歩中の園児がカートに載せられこちらへ近づいてくるのが見えた。子どもたちは口々に「きれいだねー」「かわいいねー」「ピンクだねー」と笑っている。不意に利発そうな男の子が、
「おいしそうだねー」
 とおかしなことを口走って、カートを曳いていた保育士が、
「食べられないねー」
 慣れた様子で彼を窘めていた。盗み聞きなんて趣味が悪いとはわかりつつ、思わず吹き出してしまうと、彼らの会話を聞いていなかったのだろう不動産屋が不思議そうな顔で私を見る。いえ、すみません、何でもないんです、などと適当に誤魔化して、私は再び内見先へと歩を進めた。不動産屋が辺りの特徴をぽつぽつ挙げていくのを話半分で聞きながら、たぶんこの場に衣吹くんがいたなら不動産屋と同じ反応をしただろうな、とそんなことを考えた。衣吹くんが契約した川沿いのアパートの近くにも桜の木はあるのだろうか。特に理由はないけれど、ないといいな、と思う。
 三月も下旬辺りになると、部屋中が茶色いダンボールまみれになっていた。衣吹くんが依頼した引っ越し業者のダンボールに描かれた鳩と私は数分おきに目が合い、私が依頼した引っ越し業者のダンボールに描かれたパンダは衣吹くんから「笑いかたが気味悪いんだよな」と何度も罵られていた。家財はそれぞれ等分ぐらいの金額になるよう譲り合い、お互いこれから始まるひとり暮らしには邪魔になりそうなソファーやダブルベッドは専門の業者に引き取ってもらう方向で話しがついた。多額の処分料がかかるかと心配したが、むしろふたりで割ってもその日の夕飯には充分すぎるお金で買い取ってくれるという。有り難いことだ。


 四月の第一週、金曜日。私たちがこの部屋で共に過ごす最後の日だった。明日の午前に私はこの部屋を発ち、明後日の昼過ぎには衣吹くんもそうなる。数日前までは、最後の晩餐ぐらいパーッと外食でもしようかと話していたのだけれど、どうしても冷凍食品を食べ切れないまま今日まできてしまい、捨てるのも勿体ないからと結局こうしてふたり青色ばかりの皿をダンボールの上に並べ、無駄に品数の多い冷食だらけのディナーを囲んでいる。お湯で温めただけ、チンしただけ、自然解凍しただけの夕食も、いつもの青い皿に載せてしまえば普段通りの食事と同じ顔をして私たちに食べられるのを待っていた。どちらからともなく戴きますと手を合わせ、そっと箸をつける。肉厚なハンバーグからは肉汁がジュワッと溢れ出し、大口で頬張ると蕩けたモッツァレラチーズが上顎へ直に触れ思わず「あち」と慌ててしまう。
「なあ未波。俺、前から思ってたんだけどさ……」
 ハンバーグを咀嚼した衣吹くんが、軽く俯いたまま私に話しかける。なに、と返事をするよりも早く彼は、
「青い皿って、なんとなくまずそうに見えるよな。飯が」
 俺、ずっと嫌だったんだ。そうにへら顔で笑った。
「……何それ。いまさら言う?」
 衣吹くんの言葉を受け、この二ヶ月間ずっとこらえてきたような冷たい言葉を返しながらも、思わず吹き出してしまう。だって、全く同じことを私もこの一年八ヶ月の間彼に言えずにいたのから。
 ふたりとも、青が大好き。それだけの理由で親しくなった私たちは、この部屋に入れるものはできるだけ青で揃えてきた。カーテンも、カーペットも、ベッドシーツも布団カバーも枕カバーも、デニムなんて黒や白がほしくとも無理に青を選んでは、衣吹くんに見せて「似合うね」「そうでしょう?」と笑い合ってきたのだ。同棲を初めてふた月ほど経ち、見事青にまみれたこの部屋を衣吹くんは「空みたい」と言い、私は「海みたい」と言った。衣吹くんがそれに気づいていたかはわからないが、私の発した、海みたい、には軽い侮蔑の気持ちが込められていた。
「青色、確かに好きなんだけどさ、なんつーか……、俺、正直にいうとここまでじゃないんだよな」
「ああもう何それ、私だってそうだよ。最初に言ってよ。私なんてもう青い服だらけなんだよ。ほんとは赤とかピンクとか黒とかも着たかったよ」
「俺だって青いデニムのコートなんか買いたくなかったよ。本当はあれブラックのほう狙ってたんだからね。未波と買いに行ったから青にしたけどさ、ひとりで行ってたら確実に黒を買った」
「私、衣吹くんにずっと内緒にしてたけど、ブルーハワイのシロップ苦手なんだよね。一番好きなのはレモン。次がいちごで、その次はメロン」
「青じゃねえじゃん」
「そう、青じゃないんだよ」
 お互いくつくつと小刻みに肩を揺らして笑う。先ほどまでは湯気の立っていたハンバーグがどんどんと冷めていく。それでも私たちはこれまでの隠し事や嘘を一つずつ、まるでパレットの青絵具を薄めるようにしながら丁寧に暴いていった。
「衣吹くん、青が好きだからメロンソーダが好きって言ってたじゃん。あれ初めて聞いたとき私『いやそれ緑じゃない?』って思ったんだよね」
「あああれね、俺も言いながら心の中でしくじったなーって思ってたわ。だってメロンソーダなんて好きじゃねえもん。あの頃まだ付き合ってなかったから。未波の気を惹きたかったんだよな。音楽家も作家も俳優も、未波、何一つ俺の“好き”と被ってなかったからさ、このままだとやべえ、何かこじつけなきゃって焦ってさ」
「ね、ほんとに私たちって趣味合わなかったよね。それこそ付き合う前、衣吹くんから『青色が好きなら、ブルー・マンデー・ムーンとか聴いてる?』って訊かれたとき、私それが曲名なのかバンド名なのかもわかんなかったんだから」
「俺、あのバンドは青とか関係なく好きだからね?」
「私はピンとこないんだよね。歌詞とかもう訳わかんないよ、いちいち回りくどいし」
「だー、そこがいいんだよ」
 ダンボールの上に並ぶいくつもの青い皿を境として、私たちはどこまでもクリアに、親し気に話を続けていた。何一つ勘ぐることなく、気遣うことなく、気後れすることだってなかった。きっと私たちは青色になんか頼らずに、最初から、こんなふうに軽口を叩いておきさえすればもっと近しい距離で互いを認め合えていたのかもしれない。私たちはずっと馬鹿の一つ覚えみたいに青いものだけを揃え続けるばかりで、ずれたピントを直そうともしなかった。


 明日の午前、この青まみれの食器を一枚残らず置き去りに、私はこの部屋を出ていく。ふたりで過ごす最後の夜を、私たちは軽快に罵りながら笑い合って過ごしている。窓際に吊るされたままの青いカーテンが、空みたいな、海みたいな顔で私たちを窓の外の濃紺から区切っている。
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