第1話

文字数 1,936文字

 その消息は突然もたらさせれたものだった。
 彼女のもとに電話が掛かってきた。別居中の夫からだろうかと受話器を取ったところ聞き覚えのない声が聞こえてきた。
「西藤さんのお宅ですか?特定失踪者問題研究会と申しますが、息子さんについて…」
 二十年前に行方不明になった息子についてのことだった。当時高校生だった息子は臨海学校に行った海辺で姿を消してしまった。水泳中に溺れてしまったのではないかと捜索をしたのだが遺体が出て来なかった。そのため、引き続き捜索願も出したのだが何の成果もなかった。
 そのまま数年の歳月が流れた。その間、感情がすれ違ってばかりいた夫との関係が悪化し、両親のこうした状況に嫌気がさした娘は大学進学を機に東京に出て行った。夫も同時期に家を出た。娘は東京に住み続け、そこで就職・結婚をした。だが、彼女だけはこの家に留まった。息子の帰宅を待つために。
「…ということで、是非お目に掛ってお話したいのですが如何でしょうか?」
 彼女は我に返って返事をした。
「分かりました、宜しくお願いします」
 電話を切ると彼女はすぐに夫と娘のもとへ連絡した。一緒に息子の消息を聞くためだった。
 数日後、久しぶりに家族が顔を合わせた。夫は別の女性と家庭を持っているが離婚はしていない。息子が帰ってきた時、両親が離婚をしていては不味いように感じたためだった。
 三人は特に会話もせず来客を待った。
 まもなく、玄関のチャイムがなった。妻が応対に出た。
 玄関に現われたのは壮年の男性二人組だった。一人は取り立てて特徴のない人物だったが、もう一人は現役の運動選手を彷彿される体格をしていた。
「初めまして。先日、連絡申し上げた特定失踪者問題研究会の者です」
「わざわざお越し下さり恐縮です」
 妻は二人を客間に通した。そして、夫と娘を紹介した。
 それを受けて二人も改めて自己紹介をした。一人は特定失踪者問題研究会会長の細江と名乗り、もう一人は北朝鮮の元工作員で安丙午<アンビョンオ>といった。彼は現在、韓国に住んでいるそうだ。
「実は彼が北にいた時、お宅の息子さんに会ったというのですよ」
 数週間前に来日した安丙午に細江会長は会に寄せられたいわゆる行方不明者の写真を見せた。彼女ももしやと思い、息子の写真と情報を研究会に送っていた。その写真を見るや否や安は彼に会ったことがあるといったのだった。そこで、それを確かめるために会長は彼女に連絡をし、面会を求めたのだった。
 会長が経緯を話し終えると夫がまず口を開いた。
「北朝鮮で会ったとおっしゃいましたが場所は何処でしょう?」
 会長が通訳すると安は答えた。
「工作員養成所です。御子息はそこで日本語を教えていました」
 安の答えを通訳すると妻が質問した。
「息子は元気でしたか?」
「はい。運動が好きで時間があると養成所の庭にある鉄棒をしていました。気さくな方で日本語の勉強のためによく彼と話をしました。そうそう、一度タバコを勧めた時、高校時代二度と喫煙しないと誓ったのでといって断られました」
 夫婦と娘は顔を見合わせて頷いた。
“息子に間違いない”
 鉄棒が好きだったこと、高校時代に煙草を吸ったのがばれて先生に呼び出された時、禁煙を誓ったことなど全てが一致するのである。
 一家は細江会長と安丙午に何度も礼を言った。
 それからというもの、一家は特定失踪者問題研究会に正式に入会し、積極的に活動に参加するようになった。署名活動の時は三人で街頭に立ち、集会や講演会、政府への請願等々も一緒に参加した。
 しかし、かつてのような家族には戻らなかった。夫は現在の家族と共に暮らし、娘も夫と子供と東京に住み、彼女は息子を待ってそのまま家に居続けた。
 共に暮らさなくても彼女と夫にとっては息子は息子に変わりなく、娘にとっても兄である。彼が日本に戻って来た時は暖かく迎えるのである。
 あれから、さらに十年以上の年月が流れた。彼女も夫もすっかり年を取ってしまった。娘も相応の年齢となり、その子供も結婚した。だが、息子は相変わらず帰って来ない。
「署名をお願いします」
 彼女がいつものように街頭に立っていると、中年女が罵声をあびせて署名用紙を引き千切ろうとした。夫と娘が近寄ると女は逃げて行った。共に署名活動をしていた研究会のメンバーが女を追いかけた。
「大丈夫か」
 夫が声を掛けると彼女は笑顔で応じた。
「平気よ、これしきのこと」
 彼女は体勢を整えると
「署名お願いします」
と声を上げた。
 夫と娘も彼女の両脇に立ち声を上げた。
「よろしくお願いします」
 暫くすると、一人の初老の男性が立ち止まり、署名をして募金箱に金を入れて去って行った。
「ありがとうございます」
 三人は声を合わせて謝意を言うのだった。
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