第二話 疑惑・前編

文字数 2,241文字

 海神寺。広島県の呉市に、その寺院は存在する。瀬戸内海を一望できる場所にあり、二次大戦中は空襲の危機にさらされながらも本殿を失わずに済んだ。またここは、増幸が本拠地としているところでもある。

「ふん、馬鹿馬鹿しい。そうは思わないか?」

 彼は今、報告書を読んだ。というよりは軽く目を通しただけで、しかもそれが嘘であることを見抜いたのだ。

「思わない。だって事実と異なるとわかっているから。馬鹿げてるとかじゃない、ただ呆れるだけ。騙す理由もなければ、方法も陳腐……。逃げたあの女は今、ソイツと一緒にいると言っているようなもの」

 白星(しらぼし)みつき。増幸の最も信頼する霊能力者だ。本来なら彼に任せてしまえば、高雄という馬の骨に頼らずに妲姫の確保はできるはずだった。しかし、そうできなかったのには理由がある。

「みつき。行ってくれないか?」
「断る。確信の持てる場所にいないなら、俺が戻って来れなくなる可能性の方が圧倒的に高い。あんたは俺を、知らない世界に解き放てるか?」

 みつきは、海神寺よりも遠くに足を伸ばしたことがない。

「俺はこの世界、まだまだ知らないことばかりなんだ。県境も十分に把握してない」

 それは、外出が嫌いだとか、学がないからではない。少しは外の世界を覗いてみようという気は、一応ある。
 結論から言ってしまえば、彼はこの世界の住人ではない。故に知らない場所に行けないのだ。

「しかし、だ。考えてみろ。今高雄の所在さえつかめれば、妲姫はすぐに確保できる」
「増幸さん、俺がこっちの世界で死んだらどうなるか、わかっているよな?」
「……ああ」


 少し、みつきのことを解説しよう。

 彼はこの世界の住人ではないと述べた。それが何を意味するか? 
 答えは簡単だ。彼はこの世界の、隣の世界から、増幸に招かれてやって来た人物なのだ。その隣り合う世界のことを増幸は、隣接世界と名付けた。もっとも彼が一番最初にその概念を発見したのではなく、月見の会の残した文献を読んで導き出したのだ。
 その世界は、こちらの世界…仮にそれを本家世界と呼ぼう。隣接世界は本家世界とは異なる。それはイフの世界であるという意味でもあるが、全く異なる歴史を歩んでいる世界もある。現にみつきが元々いた隣接世界では、今ほど科学の発展がなかった。おまけに勃発する戦争を人類は止めることができず、世界の霊的バランスが崩れ、既に滅びた。いわばその生き残りがみつきと言うわけだ。
 隣接世界への行き方は、増幸しか知らない。その秘術を外に漏らさないためだ。だが彼が発見し、隣接世界への扉を開いたことで、その特性が明らかになった。
 行き来は自由だ。だが、元の世界とは違う場所で命を落とすと、霊魂は瞬時に消滅し、この世に残らず幽霊にもなれないことは、この寺院にいる皆が知っている。それはみつきも例外ではない。


「では、仕方がない。みつき、君には神代の本店に行ってもらうとする」
「何故だ?」
「報告にあった、もう一人の女…武藤真織が気になる。こちらのデータベースにはない名前だ。もしかしたら、神代塾のデータにはあるかもしれん」
「それこそ、本当に実在しないのでは?」
「それを確かめるのだ。地図に従って行けば塾の本店には簡単にたどり着ける。寄り道は許可しない。もちろん、戦闘もだ」
「じゃあ、誰が妲姫を?」
「蜂の巣を使う」

 蜂の巣とは、増幸が隣接世界に設けた霊能力者集団である。既に何人かは本家世界に足を運んでいる。

「了解した…」

 みつきは首を縦に振ると、自室に戻った。

(ここで蜂の巣を使うことになるとはな…)

 増幸は一人、考え込む。


 彼の野望、不老不死の実現には、時間が足りなかった。それを解決してくれたのは隣接世界なのだ。
 面白いことに、時間の流れが本家世界の十倍という隣接世界があった。増幸がその存在に気が付いたのは二十五年前。なので向こうでは、二五〇年が経っている。江戸幕府が終わる。その膨大な時の流れを利用し、その隣接世界を、霊的な力の溢れる世界にした。蜂の巣も代々受け継がれていき、その子孫たちが繁栄している。
 そこまでは良かった。
 問題はここから生じる。増幸が月見の会の文献を漁っていると、あることに気が付いた。

「この秘術…。月見の会の血を引く者が必要か…」

 その時、既に月見の亡命者を隣接世界に向かわせていた。さらなる霊的技術の発展のため、当たり前の行為だった。
 だが、その亡命者は子孫を残さなかった。おそらく、本家世界と隣接世界への影響を考えたためだろう。増幸が迎えに行った時には既に、墓の下だった。

「血が、途絶えた…?」

 月見の会の血がなければ、秘術は絶対に成功しない。だが亡命者は隣接世界で死亡し、会自体も戦争で滅亡している。増幸痛恨の計算ミスだ。本家世界の者が隣接世界で死亡すると、魂も残らないので、霊と交信することも不可能。
 そこで、妲姫の存在に目が向けられる。

「戦争終結後、誰かが霊能力者ネットワークに名前を加えた。月見の会の最後の一人。今、どこで何をしているかは不明だ。『生存は否定できない』とあるが、私は逆に絶望視する。だが…その人が子孫を残していたら?」

 その者は、月見の会の血を受け継ぐ者だ。そしてさらに長い年月をかけ、探し出すことに成功したのだ。


「この機は逃せない。陣牙、行ってくれ」

 鼈甲(べっこう)陣牙(じんが)。隣接世界より参られし霊能力者。

「任せて下さい。その娘を必ずや捕まえましょう」

 陣牙はそう言うと、すぐに海神寺を出た。増幸はただ、吉報を待つ。
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