精地門 バッシュ その1

文字数 5,536文字

 バッシュにとって屈辱の日から、一週間が過ぎようとしていた。エスティを逃したばかりか、グレンをあそこまで追い詰めながらもリュードの邪魔が入り退却を余儀なくされた。完全に失敗だった。恥さらしもいいとこだ。

「まだだ。この程度で倒れるでないわっ」

 都合十七人を地面に叩き伏せ、残りの者を見ながらバッシュは叫んだ。
 精地門の本拠、地霊宮。その地霊宮の修練場に集められた男たちが、それを見て震えた。
 元素術の各門派は霊宮と呼ばれる建物を中心に、門派ごとに集まっている。精地門の霊宮である地霊宮は、広大な森に囲まれた街、グランフォレストにあった。

「貴様それでも精地門の元素術使いか? これしきのことで音を上げるなど、恥と知れ!
 さあ、次!」

 ここには皆、格闘術の修練で集まっていた。正課の修練とは言え、出ていく者など誰もいない。素直に出ていけば、機嫌の悪いバッシュに足腰が立たなくなるまで痛めつけられるのがオチだ。

「これは貴様らの為の修業だぞ。そこでぼけっとしておっては話にならん。次、早く出てこんかっ!」

 バッシュの大喝に押されるようにして、男が一人前に出た。

「その意気は認めよう」

 バッシュが口の端を曲げて嗤った。男は弾みとはいえ、出てきたことを後悔した。だがもう遅い。

「どうした? そちらから攻めてきて構わんのだぞ。俺を倒してみろ」

 バッシュの格闘能力は精地門の中でも群を抜いている。元素術の強力さと相まって、バッシュに勝てる人間などそうはいない。
 男は一応構えたが、それ以上は動かなかった。へたに攻防を重ねるよりは、最初の一撃を受けて地面に転がった方が利口といえた。
 しかしバッシュから滲みでる狂的な迫力は、それを許してくれる程甘いものではなかった。

「来ぬのならゆくぞ」

 バッシュが一歩踏み出した。

「ひぃ」

 半ば本能的に、男はバッシュに向かって殴りかかった。バッシュはそれを避け、男に蹴りを放つ。男は自分に蹴りが届くよりも先にバッシュに詰め寄った。同時にバッシュの腹部へ、体重の乗った肘が入る。

「攻めはなかなかよかったが、威力はないな。倒せなかったのに止まってしまっては、こうなるぞ」

 動きの止まった男の頭をバッシュが掴んだ。
 男は自分のやったことに気づき顔色を変えた。訓練の成果が仇となった。バッシュに対する恐怖に、体が勝手に反応したのだ。
 バッシュは右手に力を込めた。男の頭骸骨が悲鳴を上げる。こうして男を掴んでいると、グレンのことを思い出した。怒りが沸き上がってくる。
 男はバッシュの手を掴む。だが力の差は歴然だった。すぐに男の腕が垂れ下がる。男は口から泡を吹いて気を失っていた。
 それに気づいたバッシュは、男から手を離す。男は地面へと落ちた。

「次っ」

 バッシュが回りを見て叫ぶ。誰も動かなかった。皆、大男の狂気じみた瞳に射竦められてしまっていた。

「皆を壊してしまうつもりかな。バッシュ殿?」

 修練場の入り口から、バッシュを呼ぶ声がした。バッシュが鋭い眼でそちらを見た。
 中年の男がバッシュの元へと歩いて来ていた。バッシュの視線を受け、一瞬たじろぐ。

「トイスン殿か。ここに来るとは珍しい」

 あからさまに軽蔑した様子で、バッシュは言った。
 トイスンは精地門の中でも中々の実力者だが、バッシュに言わせるとこうるさいだけの小心者だった。元素術の腕前より口で地位を築いたような男だ。実力だけで精地門の長の信頼を得たバッシュとは、気の合わない相手だった。
 更にはトイスンが、バッシュの失敗によって恩恵を受けているのも大男には面白くない。

 バッシュが取り逃がしたあと、最初にエスティの居場所を掴んだのはトイスンだった。彼の放った《土人形》がエスティと接触したのだ。取り逃がしてから三日後に得た情報だが、情報伝達の時差を考えてもかなり有力な情報だった。
 バッシュはすぐにでも捕らえに出かけようとした。しかし精地門の長、直々に止められた。曰く、エスティ探索の件はトイスンに一任する。バッシュはそれに従えと。
 一度失敗したバッシュに断ることはできない。それは自ら招いたことでもあるので仕方ないと思う。だが、トイスンがすぐにでもエスティを捕らえに動かないのは我慢ならなかった。
 トイスンはエスティ以外にも同行者がいるとして、しばらく監視に留めるという判断をしたのだ。それは彼の放った《土人形》が、同行者の少年に倒されたせいでもあった。

「修練場で兵を使えなくしてしまっては、先の襲撃の際、一人で撤退しなかった、ただ一つの美点がなくなってしまうぞ?」

 近づいたトイスンは皮肉を言った。バッシュは一瞬だけ表情を固くする。

「皮肉を言いにわざわざ来たのか?」
「気を悪くされたのなら謝ろう」

 本気でそう思っていないことは、トイスンの目を見ればバッシュにも分かる。

「本題は例の少女についてだ」

 バッシュの表情が真剣なものに変わった。

「精霊皇の娘には同行者がいることは話したかな?」

 それは最初に聞いた情報だ。いまさら確認など必要のない事を、トイスンはわざと口にする。
 バッシュは焦れた。何かあったから、トイスンはやって来たのだ。動けないことへの不満はすでに最高潮に達している。エスティの情報と聞けば思わず身構えずにはいられない。
 そんなバッシュの様子を、トイスンは楽しそうに見ていた。バッシュがどんなに自分を侮蔑しようとも、エスティ探索の任に関しては自分の方が立場は上だ。
 バッシュに対し精神的優位にあることで、意識せずに笑みがこぼれた。

「笑ってないで、続きを話してもらえんか」

 押し潰した声でバッシュが言った。背筋が寒くなるような声だ。トイスンは自分が遊び過ぎたことに気づいた。慌てて口を開く。

「東の街道を通って、このグランフォレストに向かっているようだ」
「それは、本当か?」

 思わず声が大きくなる。街道に出たのは聞いていた。だが向こうから飛び込んで来るとは予想外だった。バッシュの予測では途中から街道を迂回し、精火門の本拠があるトリフ山脈を目指すと考えていたのだ。

「間違いない。フードを被って顔を隠しているが、精霊皇の娘だ。部下を向かわせて確認した」
「で、これからどう動くのだ? まさかまだ監視を続けるつもりでもあるまい。街道で捕らえるか。それとも街の入り口で――」

 バッシュは早くもその時のことを考えていた。一度は逃がしたチャンスが、向こうから飛び込んできてくれたのだ。

「いや、街に入れる。そして街から出れぬよう閉鎖する」
「わざわざ街を閉鎖するのか?」
「そうだ。娘には少年が一人ついて来ているのは貴殿も知ってのとおりだ。精霊皇の力が言い伝えどおりのもので、なおかつ少女が元素術を使えないのなら、私の放った《土人形》を倒したのはその少年ということになる」
「精霊皇の娘と一緒にいたということは、元素術使いか……」

 しかし、それはあり得ないはずだった。ここより東の地方には、元素術の人間がまとまって住んでいる場所はない。それにグレンが〈門〉を使って逃がそうとしたのは、恋人であるフィンナの所だ。精水門の本拠はここよりさらに西にある。
 そしてなにより〈門〉は自分が破壊した。まともに行き着くことなどできないし、現にエスティはまったく見当外れの場所に現れている。

「分からない。だが街の中へと誘い込めば恐れることはない。迎撃するための十分な準備もできる。バッシュ殿にはしっかり働いてもおう」

 自分の方が上だと言いたげな物言いに、バッシュは鼻白んだ。

「トイスン殿に言われるまでもない。その少年とやらは任せてもらおう。獲物はいきが良くなければ、狩る楽しみもなくなるというものだ」
「街には精地門の人間だけでなく、一般の人間も数多く住んでいる。無茶はせんでくれよ」

 トイスンが一応、たしなめる。だが内心はバッシュがその少年と派手やりあうことを望んでいた。そうしてバッシュの気がそれているうちに、トイスンはエスティを手に入れる腹づもりだった。他の誰でもない。トイスン自身が最初にエスティを捕らえたという事実が欲しいのだ。

「意外だな。トイスン殿が他人のことを心配するなどとは」

 心の中を見透かされた気がして、トイスンはバッシュから視線を外した。

「正式な連絡は後日する。準備だけは怠らぬよう、お願いする」

 そして早口にそれだけを言うと、この場から去って行った。

「ふん。俺を上手く利用するつもりだろうが、そうはいかん」

 トイスンの後ろ姿を見ながら、バッシュは呟いた。大男の頭の中では、エスティを捕らえた後の計画がすでに動いていた。エスティを捕らえてしまえばあとはトイスンの出る幕ではない。精地門は他の門派に宣戦布告をするだろう。そうなればバッシュの独擅場だ。
 すべての精霊を支配できる精霊皇の力。その力を持つあの娘さえ手に入れば、他の門派は支配したも同然だ。互いを牽制しあった時代は終わる。精地門が元素術の頂点に立つのだ。
 バッシュは来るべき闘争の時を思い、残忍な笑みをこぼした。

        ★

 夕刻を過ぎたころ、エスティとルキフォはグランフォレストの東門をくぐった。ルキフォが辺りを見回す。この時刻になっても人の多い活気にあふれた街だ。
 森を貫く二本の大きな街道が交わる所に位置し、一日の人の出入りはかなりの数にのぼった。東西南北、四つの門がこの街の入り口となる。そして、その門をつなぐようにして街を高い壁が囲っていた。森にいる野獣が街に迷い込まないようにするためだ。

 二人は宿を求めて通りを彷徨った。
 ここに来るまでエスティはルキフォに、詳しいことをなに一つ話していなかった。ただ兄に会いたい。兄を捜しているのだ。それだけのことしかルキフォには話していない。
 エスティが何かを隠している事を、ルキフォは気にしていないようだった。だからこそエスティは心が痛んだ。しかし、すべてを話してしまえば、ルキフォはグレンに会ったあとも帰らないだろう。自分のせいで関係のない人間が傷つくのは嫌だった。
 二人は宿を見つけ、隣あわせに部屋をとった。ルキフォはこれまでの旅で消耗した品を買いに街へと出かける。
 明日にはこの街を離れるつもりだ。チャンスは今しかない。エスティは宿を飛び出した。

 エスティが精地門の本拠があるこの街にわざわざ来たのには理由があった。グレンの情報が聞けるかもしれないとう期待があったからだ。
 事情を知らないルキフォには、トリフ山脈にあるエスティの家に行くのにこの街を南北に縦断する街道を通るのが一番早いと言ってある。それは嘘ではないが、本当でもない。
 グレンと別れたあの場所には精地門のバッシュがいた。あのまま捕まったとすればグレンは間違いなくここにいる。うまく逃げおおせたとしても、グレンについてなんらかの情報があるはずだとエスティは考えていた。そしてエスティは、兄が無事だと信じていた。

 見つかる可能性も考えないわけではなかった。ゴルドの家を飛び出してすぐに《土人形》と接触したのだ。いまここにいることがどれだけ危険かも分かっていた。
 だがそれでも、エスティはこの街に踏み込んだのだ。たくさんの人の中にいれば見つからないかもしれない。そんな甘い期待がエスティにはあった。
 日もすっかり沈んで街は夜の顔を見せ始めた。エスティは何度も道に迷い、そのたびに人に尋ねた。歩くことに必死になって、自分を追いかける人影に気づくことはなかった。
 地霊宮の門は開け放たれていた。見張りに立つ門兵もいない。危険だと判っているのに、エスティは誘い込まれるように門をくぐった。
 背後で門が閉じる。エスティは慌てて振り向いた。松明に火が一斉に灯される。庭を囲む塀や壁、すべてに松明がつけてあった。人影がエスティを取り囲むように現れた。

「まさか、ここまで愚かだとは思わなかったぞ」

 低く響くような声が中庭を満たした。ひときわ大きな影がエスティの前に現れる。炎に照らされた見覚えのある顔に、エスティは息をのんだ。

「この街に来て、見つからんとでも思ったのか? ましてや地霊宮にやって来るなど……。
 ふん、しょせんは子供か」

 つまらなそうにバッシュは言った。あまりの単純さに、興ざめしたようだった。

「まぁ、トイスンに無駄足を踏ませたことだけは褒めてやる」

 トイスンは、入れ違いでエスティが泊まった宿に向かっていた。捕らえる為に出向いたのに、お目当ての少女は自分から網に飛び込んでしまったのだ。

「兄様はどうしたの!?

 エスティが叫んだ。

「なるほど兄を求めて来たか。生憎だったな。グレンはここにはおらんよ。忌々しいがな」

 リュードに邪魔されたことを思い出したのか、バッシュは怒りの表情を浮かべた。
 エスティの心に希望が膨らんだ。グレンがここに捕まっていないということは、無事でいる可能性が高いということだ。ここにいない理由としてはもう一つ思い浮かんだが、エスティはそれをすぐに消した。

「小僧が一緒だと聞いたが、姿がみえんな。まあ、よい。向こうにはトイスンが向かっている。無駄足とは言え小僧くらいは捕らえてくるだろう」

 エスティの顔色が変わった。

「だめっ。ルキフォは関係ないっ」
「ルキフォ? 聞かぬ名だな。精火門の元素術使いか?」
「やめて。本当に関係ないの!」

 エスティの懇願を、バッシュは凄みのある笑みで一掃した。
 エスティは自分の軽率さを後悔した。ルキフォをこれ以上巻き込まないように一人で出たのに逆効果だ。結果的に一番危険な場所にルキフォを連れてくることになった。
 その場に崩れるようにして、エスティは座りこんだ。瞳には涙が浮かんでいた。
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