第1話

文字数 3,378文字

 ジョージ・オーウェルが『一九八四年』を執筆する際、もっとも影響を受けたロシアの小説。
 オルダス・ハクスリー『すばらしき新世界』と並んで、ディストピア小説の三大古典というべきSFである。
 発表されたのが一九二一年頃というから、ロシア革命後のソビエト政権樹立の早い段階で、社会主義国家がいずれ辿ることになる全体主義化を暗喩しているところに、この小説の先見性がある。

 国内では正式に発表されることはなく、精神分析医グレゴリー・ジルボークによる英訳版が最初だったという。
 ソビエト政治体制を批判しているしか思えない内容ゆえに、作家同盟から批難を浴びて、ザミャーチンは亡命をせざるを得なくなる。しかし亡命先では目立った文学活動もなく、言わば失意のうちに亡くなってしまう。
 のちにジョージ・オーウェルによる再発見および評価により、全体主義国家像を予見した作品として注目を浴びたが、その時は既に遅く、冷たい土のなかの住人。不運の作家と言えるだろう。

 今では二〇世紀のディストピア小説の源泉として地位を確立しつつある『われら』だが、ほかのふたつの古典と比べると、明らかに出発点がちがう。
 ザミャーチンはロシア革命を目の当たりにし、プロレタリア階級による初めての国家樹立に身を投じたのだが、やがて国家体制が形成されていくうちに、そこに個が消滅する全体主義の臭いを感じとり、未来のソビエト国家を暗いものと捉えて執筆にいたった。
 ジョージ・オーウェルはスペイン戦争に従軍しファシズム政権と戦った経験とソビエト樹立後のスターリン主義に、人間不在の論理を鋭く嗅ぎつけ、右も左も全体主義国家を目指す点において変わらないことに瞠目して、SF小説の手法をつかって表現した。
 オルダス・ハクスリーはイギリス産業革命以後、科学技術の発展により、いずれは至福の世界を人類は手にすることができるが、平等な社会は訪れず、遺伝子や知能により新たなる階級社会が生まれることを感じ取った。ザミャーチンだけが革命の目撃者であり、当事者なのである。

 それ故に難解で一筋縄ではいかない表現が、数多くみられる。当時ロシアで全盛を極めていたアヴァンギャルド芸術の影響、人間の精神や肉体が機械を凌駕していくという思想から、形容詞や隠喩も独特の表現をとっている。つまり文学的実験が多く為されている。

《二本のドリルは私の底に達すると、高速回転しながら目の中に戻った》
《瘤のあるごつごつした禿げ頭と、巨きな黄色い放物線を描く額が、本の上に覆いかぶさっている》
《私の目の前にピンクの翼の耳と二度カーブした微笑が現れた》

 これらの表現は詩的想像力を喚起するというより、物質のイメージからくる冷たい感触である。ディストピアの世界観を描くにおいて、実験的な表現は必要不可欠であり、効果があると思うのだが、近未来という架空の世界を描写するにあたっては、現実と虚実の垣根を取り払う文学的作業を行わないかぎり、読者を理解不能に陥らせる危険がある。
 文学は視覚的なイメージを与えないので、絵画とちがい抽象的、シュルレアリスム的な表現のみをつかって、世界観を構築するのは難しい。

 同じく実験的表現ということで、カットアップという手法をつかった、ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』と同様の難解を読者に与えることになる。ただし断っておくが、そのことで『われら』の物語が理解不能で、読者に相当な読解力が必要されると言っているわけではない。
 当時のロシアの芸術運動が色濃い作品であり、前衛的な作品と頭の片隅に置いて挑めば、ふつうの読書家ならば十分に対応はできる。

 また表現方法よりも興味深いのは、革命樹立から四年しか経っていないのに、国家の行く末を想像力豊かに描き出している点である。
 二百年戦争を経て世界は「単一国」となり、人々は貧困や資源で争うこともない。そして人々から名前が消えて、Д―503、R―13といったアルファベットと数字によって割り振られた番号となって、お互いを呼び合う。
 イワンもナターシャもいない。人間は物質と同化した存在である。
 個人という概念が喪失したために、プライベートという概念もなくなり、ガラス張りの部屋に住むことになる。また恋愛という概念もなくなり、希望する相手の番号をピンククーポンに書き込んで当局に提出すればセックスできるという、《性愛法》に基づいて異性関係が築くことができる。それまでの恋愛に見られる、自分の恋焦がれた思いを相手に伝えるというのは前時代的、非生産的で唾棄すべき考えというのが、その理由である。
 また自由について、このような記述もある。

《人間の自由=〇ならば、人間は犯罪を起こさない。それは明白だ。人間を犯罪から救う唯一の方法、それは人間を自由から救い出すことだ》
 
 ここでいう犯罪は殺人や窃盗といったものというより、政府を転覆させるような危険思想を持った者と考えた方かいいだろう。つまり自由な精神を持った人間は、いずれは犯罪を起こす因子を内在していると、全体主義国家では認識していることだ。現在を生きる私たちは、そんな異常な世界とは無縁だと肩をなでおろしても良いが、人間を番号で管理することは、マイナンバーやクレジットカードの番号などで実現しているし、結婚相手もコンピュータが選んでくれる時代になっている。
 また街中に張り巡らされた監視カメラ網に、唖然とさせられる。そんな現実を考慮すると、それほど遠い世界の出来事と安穏とできないのではないか。

 最近、『一九八四年』、『すばらしき新世界』そして『われら』が新たに翻訳されて、読者に支持されているのは、二〇世紀を席巻した社会主義国家とファシズム国家の同根にある全体主義、個人の権利を否定する体制に、今の時代の空気に同様の息苦しさを感じているからだと思えてならない。

 為政者が手を焼くのは、個人の自由を認める社会である。
 民主主義国家では、個人の自由が約束されているが、あくまでも許容範囲内での自由であり、社会全体を覆してしまうような過激な自由までは約束していない。
 その自由の定義が、どこまで許されるのかが、二〇世紀までは政治的課題として議論されてきたが、近年では自由の範囲を定めることはせず、管理するという考えに変わってきている気がしてならない。個人をあらゆる方法、法制化やシステムの導入などを使って個人を管理することが、体制の継続に繋がることになるし、議論を重ねて結論を導くより手っ取り早い。
 現在では、国家体制に右や左といったイデオロギーは関係ない。
 国民の動向を詳細にデータ化して管理することに、主眼が置かれている。そこにディストピア小説に共通する土壌があるのではないか。

『われら』の描くのは「単一国」となった世界であるだけに、監視すべき相手は、敵対するイデオロギーを持った国家ではなく、喪失した個人という概念を取り戻そうとする集団や思想であり、個人に芽生えた自由の意識である。
 そして全体主義化した国家の頂点に君臨しているのは、ひとりの独裁者ではなく、(ここでは「恩人」となっているが、あくまでも象徴的な存在である)実際は国家を運営するシステムと厳密な管理体制である。
 ここでは対象者を昼夜監視するという方法を取っている。
 それらの不満分子を完全にコントロールすることができれば、国家は未来永劫に渡ってユートピア国家として続いていくことになる。

 結末は明かさないが、主人公が、理性が最後に勝利しなければならないのだと語り、ピリオードとなる。
 ここでいう理性とは何なのだろうか。道徳的価値観から生み出された理性ではないだろう。
 しかし人間が生まれながらにして持っている、実存的な理性は果たしてあるのだろうか。もしくはザミャーチンの指す理性とは、個人ではなく国家の理性ということなのか。

 この小説が発表されて十数年後に、世界を破滅に導くような第二次世界大戦がはじまる。
 もちろんそれぞれの国家体制に基づいたイデオロギーがあり、それを旗印にファシズムや帝国主義と戦ったのだろうが、勝利の名のもとに個人が喪失していたのはまちがいない。
 戦時下では人間の運命は数字でしかない。
 果たしてザミャーチンの指すところの理性とは、何なのだろうか。

(了)
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