第6話 「浅草は浅草」

文字数 642文字

 川端康成は、1930(昭和5)年のエッセイで、次のように言う。
 「浅草は、「東京の心臓」であり、また「人間の市場」である。万民が共に楽しむ――日本一の盛り場である。従ってまた、歓楽の花の蔭に罪悪の匂いが漂う、暗黒の街でもある。――しかし何よりも先ず浅草は浅草である」(川端康成「浅草」前掲書『浅草』より)
 「浅草は浅草」と表現された場所。それは、町や村というような範囲を示す概念ではないだろう。江戸も明治も大正も昭和も平成も令和もないだろう。
 浅草という盛り場にとけ込んでいるものは、途切れることなく続く、浅草という場所をなす人、もの、自然のつながりと関係性の相互作用であり、いわば浅草の拍動だ。だから、一生懸命に浅草の歴史を紐解いて語ってみても、浅草はわからない。
 ちょうど私という存在が、心臓の拍動が送り込む血液によって、体のすべての細胞のネットワークとニューロンのネットワークが相互作用して変化し続けている「いま」であるように、浅草はまちが形成されて以来引き継がれてきた遺伝子を残しながら、次から次へと変わっていく人、もの、自然の相互作用の拍動が生む力によって、ときには清らか、ときには邪悪に脈打ちながら、これからも永遠に生き続ける「いま」なのだ。
 人々の祈りを飲み込み、元気にし、陽気にし、ときには悲しくするような素材を提供し続けてきた盛り場・浅草だからこそ生まれるふれあいやつながりがつくる「いま」。
 その「いま」を実感してはじめて、「浅草は浅草」と思えるのかも知れない。
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