第2話

エピソード文字数 9,804文字

 多分全てのきっかけになったのは、四月下旬の水曜日。
 その日の午前中、私は大学で講義を受けていた。二限の教養科目『日本の民間信仰』。教養の残り二単位を埋めるのに手頃そうだから取ったけど、この三コマ目は少し興味のあるテーマだった。
 ずばり「出産」。

『出産というのは人類社会、というか生物の根幹ですから、この日本でもそれこそ縄文時代から子宝や子の安全を神や精霊に祈願する、呪術的な風習が続いてきました』

 講師の古屋教授がリモコンを操作すると、スクリーンにはパッパッと、その信仰を示す資料の写真が映し出される。女性的なフォルムの土偶、やや恐ろしげな鬼子母神像、対して優しい表情の慈母観音といった「母」を想起させるものから女性器男性器を模した石像も。

『自分たちの共同体に新たな生命が生まれてくるわけで、「死」と並んで一番身近な神秘だったんでしょうね。そういう神社やお寺がたくさんある他に、庶民に馴染みのあるものを挙げると、「胞衣えな信仰」ってのがあります』

 そのワードが出て何故か体が強張り、背筋が伸びる。
 宗教や民俗学に詳しいんじゃないけど、これについてはちょっと知っているのだ。私の名前の由来だから。正確には母の故郷の岐阜にある恵那神社――天照大御神の胞衣を祀っている、とか――から取ったらしい。

『胞衣というのはへその緒や羊膜、胎盤なんかのことです。胎内で赤ちゃんを守ってくれるこれらの器官には不思議な力があるとされた。へその緒を取っておいてくれる親御さん、みなさんの世代だとどれくらいいるかな。あれも胞衣信仰の一例で、お守り代わりにするとか、土に埋めるだとか、食べちゃうなんて地域もあるんですよ。食べるって凄いよね』

 へその緒のお守りは私も持っている。今は手元にないけど入院した時母に渡され、当時はずっと手放さずにいた。古屋先生の言う通り、私には一番身近な信仰だと思う。
 それに、親が子供を思う風習が古代からずっと続いてきたというのはなんとなくうれしかった。

『僕に子供はいませんが、皆さんの中で将来的に子供を設けるような人がいれば、こういったものをまあゲン担ぎ程度に頼ってみるのもいいでしょう』

 手元のレジュメには資料として都内に数多くある子宝祈願の神社やお寺、そこに参拝する人の写真も掲載されている。
 手術を終えて退院した日、母とお参りしたのを思い出す。入院先の国立がんセンター近くにあった、子宝祈願で有名な水天宮。
『また赤ちゃんを産める体になりますように』と。
 結局未だに叶っていないし、さすがに当時ほど絶対に子供が欲しいとは思わないけど、この先、好きな男性と巡り合えて、その人も子供を望んでいたら、とは今でも思う。
 日本の出生率は低下の一途を辿っている。先細りの経済だとか子育て支援の不備とか、子供を持つことに積極的になりづらい社会なのもわかる。
 だとしても、私はお母さんみたいになりたいから。子供を幸せにしたいから。それで私はまたあの時のように、冗談半分に、いつか私に子どもを授けてくださいと、レジュメに祈りを捧げたのだった。 多分全てのきっかけになったのは、四月下旬の水曜日。
 その日の午前中、私は大学で講義を受けていた。二限の教養科目『日本の民間信仰』。教養の残り二単位を埋めるのに手頃そうだから取ったけど、この三コマ目は少し興味のあるテーマだった。
 ずばり「出産」。

『出産というのは人類社会、というか生物の根幹ですから、この日本でもそれこそ縄文時代から子宝や子の安全を神や精霊に祈願する、呪術的な風習が続いてきました』

 講師の古屋教授がリモコンを操作すると、スクリーンにはパッパッと、その信仰を示す資料の写真が映し出される。女性的なフォルムの土偶、やや恐ろしげな鬼子母神像、対して優しい表情の慈母観音といった「母」を想起させるものから女性器男性器を模した石像も。

『自分たちの共同体に新たな生命が生まれてくるわけで、「死」と並んで一番身近な神秘だったんでしょうね。そういう神社やお寺がたくさんある他に、庶民に馴染みのあるものを挙げると、「胞衣(えな)信仰」ってのがあります』

 そのワードが出て何故か体が強張り、背筋が伸びる。
 宗教や民俗学に詳しいんじゃないけど、これについてはちょっと知っているのだ。私の名前の由来だから。正確には母の故郷の岐阜にある恵那神社――天照大御神の胞衣を祀っている、とか――から取ったらしい。

『胞衣というのはへその緒や羊膜、胎盤なんかのことです。胎内で赤ちゃんを守ってくれるこれらの器官には不思議な力があるとされた。へその緒を取っておいてくれる親御さん、みなさんの世代だとどれくらいいるかな。あれも胞衣信仰の一例で、お守り代わりにするとか、土に埋めるだとか、食べちゃうなんて地域もあるんですよ。食べるって凄いよね』

 へその緒のお守りは私も持っている。今は手元にないけど入院した時母に渡され、当時はずっと手放さずにいた。古屋先生の言う通り、私には一番身近な信仰だと思う。
 それに、親が子供を思う風習が古代からずっと続いてきたというのはなんとなくうれしかった。

『僕に子供はいませんが、皆さんの中で将来的に子供を設けるような人がいれば、こういったものをまあゲン担ぎ程度に頼ってみるのもいいでしょう』

 手元のレジュメには資料として都内に数多くある子宝祈願の神社やお寺、そこに参拝する人の写真も掲載されている。
 手術を終えて退院した日、母とお参りしたのを思い出す。入院先の国立がんセンター近くにあった、子宝祈願で有名な水天宮。
『また赤ちゃんを産める体になりますように』と。
 結局未だに叶っていないし、さすがに当時ほど絶対に子供が欲しいとは思わないけど、この先、好きな男性と巡り合えて、その人も子供を望んでいたら、とは今でも思う。
 日本の出生率は低下の一途を辿っている。先細りの経済だとか子育て支援の不備とか、子供を持つことに積極的になりづらい社会なのもわかる。
 だとしても、私はお母さんみたいになりたいから。子供を幸せにしたいから。それで私はまたあの時のように、冗談半分に、いつか私に子どもを授けてくださいと、レジュメに祈りを捧げたのだった。

 学食でお昼を済ませた私は、大学最寄りの御茶ノ水駅から電車でアルバイトに行く。西新井にある児童養護施設で、去年実習でお世話になったのをきっかけに非常勤指導員として働かせてもらっている。
 北千住で乗り換える際、私と一緒に乗り込んだ人の中に妊婦さんらしき女性がいた。見た目は三十代半ばくらい、アップにした髪型でワンピース姿、臨月も近いだろう大きなお腹。
 あまり見てはよくないと思いつつ、幼児向けのピアノの教本を見ながら優先席の彼女へちらちら目をやってしまっていた。
 向こうは何か手元の紙を見ていてこっちに気づく様子もなかったけど、西新井の二駅前、五反野に停まると、紙を畳んで封筒に入れ、籐製のハンドバッグに仕舞い、席を立つ。
 やはりなんとなしに目で追う。肩から下ったバッグが乗降口にぶつかって斜めに傾き、何か落ちた。バッグから零れた小物――それに彼女は気づかない様子で降りていった。
 床に転がるそれを拾おうとして一瞬迷う。もうすぐドアが閉まる。後を追ったら電車は行ってしまうな、と。でも、追うことを選んだ。薄緑色の、「安産祈願」と印字されたお守り袋だったことが背中を押した。
 入院中、へその緒のお守りを失くしたと思って大泣きしたことがある。結局布団とベッドの間に挟まっていて見つかった時は赤面したけど、ただでさえナイーブになる妊婦さんにあんな不安を味わわせたくない。
 背後でドアが閉まり、電車が走り出す。十年以上使っている路線でも、五反野で降りるのは初めてだった。数秒前に降りているはずの彼女はホームに見当たらない。すぐ近くの、改札階へ降りる階段を覗くと……いた。
 ちょうど中段あたりを、お腹が重いのかゆっくりと降りている。

「あのぉっ、すいません」

 やや声を張って上から呼びかける。私の声に反応したのか、足を止めてくれたので続けて尋ねた。

「お守り! 電車に落とさ――」

 途中で言葉を失う。彼女の下半身を固まったまま見ていた。
 血だ。
 バケツをひっくり返したような量と勢いで血がワンピースの裾から流れ出ている。裾を真っ赤に染め、足下の階段を汚す。
 私の頭は真っ白で、やっと声を出せるまで一、二秒を要したと思う。

「あっ、だ、大」

 大丈夫ですか、と聞きかけた。いや大丈夫なはずない。あわてて階段を駆け下りる。それとほとんど同時、女性の体は小刻みに震えながら前に倒れ、階段を転げ落ちていく――裾が翻って、その際、今度は何か赤黒い塊がまろび出る。

「……い゛ゅっ」

 ごじゃっ、と嫌な音がして、同時に自分の喉の奥からも変な声が漏れた。彼女は一番下の段に頭を打ち付け、仰向けで倒れていた。ぴくりとも動かない。
 私はギクシャクした動きでさっき女性が立っていたあたりまで降りる。ポケットのスマホにやりかけた手は半端なところで止まったまま、視線は階段下にいる彼女の頭部から上半身、脇に転がるバッグ、下半身――裾から覗く赤黒い塊へ移る。
 見ちゃいけない。そんな気がした。心臓の鼓動は激しさを増し、ぞわぞわと背中で産毛の逆立つ感覚があった。それでも私は、見てしまっていた。
 血に塗れた、裸の赤ちゃんだった。身動きもせず声一つ発さず、そして。
 笑っていた。
 満面の笑みが私を見上げていた。

「ひっ! ……あっ」

 その笑顔を目にした途端、反射的に後ずさり、ぬめった血に足を滑らせてしまう。パンプスだったのもあって大きくバランスを崩し、今度は私が前のめりに宙へ投げ出された。
 視界が回る。階段に頭を強く打ち付け、さらに転げ落ちる。痛みと共に意識は遠ざかり、
 そして私は奇妙な夢を見た。

 最初に目に飛び込んできたのは、大量の赤ちゃん。何十、何百という数だ。
 一人一人、髪の生え具合に顔立ち、成長の度合いにも差があった。
 そして、顔色のどす黒い子、ひどい火傷の跡がある子、首に紐が巻き付いて舌をはみ出させた子、顔全体が大きくはれ上がった子、血まみれの子……無事な子がほとんど見当たらない。
 多くの子が泣き喚く中、息を詰まらせているのか泣くことすらできない様子の子も目に付く。
 痛そうだ、苦しそうだ、助けてあげなきゃ、でもわかっている。これはどうにもできない。
 そして、もう一つ別な声がした。泣き声にもかき消されることなくどこからか聞こえてくる声。女性の声で、どうも歌っているらしい、民謡みたいな歌い方だった。

ててーーはぁーーはいいーーかにーぞたぁーーねまぁーーーーくやぁーーーー

 突然、さっきまでと全く別な光景が広がった。
 田畑や野山、ぽつぽつと見える、茅葺屋根の家、地面は土が剥き出し、そんな景色の中、すぐ眼前に三人の人影。

「化け物」「こっち来るな」「呪われる」

 三人は七、八歳くらいの男の子だった。裸足にひどく粗末な着物、前髪と頭頂部だけ髪を生やし結んでいる。同じような格好の彼らは同じように私を睨みつけ、罵った。強い嫌悪、それに恐れのこもった視線。知っている。慣れている。「私」は化け物だ。
 景色は切り替わっても、歌はBGMみたいに切れ目なく流れ続けている。

いいーーづれーーはかーーるみでーーたぁーーねをーーまくーーー

 今度は、冬。寒い。空気が肌を刺すようだ。曇り空からは雪が降っていて、遠くに見える山の木々も雪化粧している。けれど「私」が視線を向けていたのはその山のさらにずっと遠方に望む高い山。山頂から勢いよく黒煙を噴き上げる。

いいーーづれーーはかーーるこーーのをーーたぁーーねをーーまくーーー

 どこか屋内。足の裏にはざらざらした、でも濡れた感触。鉄っぽい臭いと生臭さ。 
 蝋燭の火でぼんやり照らされた暗がり、足下に髷を結った男性が倒れていた。開けた着物から覗く上半身は血まみれらしく、そして短刀を握った「私」の右手も生暖かく濡れている。わかっている、「私」が殺したのだ。
 自分が笑みを浮かべていることを自覚する。
 殺してやった。なんて晴れ晴れした心地だろうか。そのまま、「私」は畳の上に腰を下ろすと大きく股を開く。「私」は全裸だった。
 男を殺すのに使った短刀を両手で握る。毛の覆う陰部、膣に切っ先をあてがい、そして微塵の躊躇もなく突き入れた。
 肉が裂けて血が噴き出す、痛い痛い痛い、全身が裂けそう、痛い、気持ちいい。いい。これでいいんだ。
「私」は短刀を持つ手を緩めず、どころかさらに力を込めて、突き刺した刀を垂直に立てる。陰部を骨ごと真っ二つにしても、手は止まらず縦に自分の体を切り裂いていった。
 なんて、なんて気持ちいい、ああ、いい。
 胸元まで刃が達すると、ようやく私は手を止めて、笑った。体が燃えるように熱い。この熱を吐き出したい。
 絶頂の中で「私」は大きく息を吸うと――
 学食でお昼を済ませた私は、大学最寄りの御茶ノ水駅から電車でアルバイトに行く。西新井にある児童養護施設で、去年実習でお世話になったのをきっかけに非常勤指導員として働かせてもらっている。
 北千住で乗り換える際、私と一緒に乗り込んだ人の中に妊婦さんらしき女性がいた。見た目は三十代半ばくらい、アップにした髪型でワンピース姿、臨月も近いだろう大きなお腹。
 あまり見てはよくないと思いつつ、幼児向けのピアノの教本を見ながら優先席の彼女へちらちら目をやってしまっていた。
 向こうは何か手元の紙を見ていてこっちに気づく様子もなかったけど、西新井の二駅前、五反野に停まると、紙を畳んで封筒に入れ、籐製のハンドバッグに仕舞い、席を立つ。
 やはりなんとなしに目で追う。肩から下ったバッグが乗降口にぶつかって斜めに傾き、何か落ちた。バッグから零れた小物――それに彼女は気づかない様子で降りていった。
 床に転がるそれを拾おうとして一瞬迷う。もうすぐドアが閉まる。後を追ったら電車は行ってしまうな、と。でも、追うことを選んだ。薄緑色の、「安産祈願」と印字されたお守り袋だったことが背中を押した。
 入院中、へその緒のお守りを失くしたと思って大泣きしたことがある。結局布団とベッドの間に挟まっていて見つかった時は赤面したけど、ただでさえナイーブになる妊婦さんにあんな不安を味わわせたくない。
 背後でドアが閉まり、電車が走り出す。十年以上使っている路線でも、五反野で降りるのは初めてだった。数秒前に降りているはずの彼女はホームに見当たらない。すぐ近くの、改札階へ降りる階段を覗くと……いた。
 ちょうど中段あたりを、お腹が重いのかゆっくりと降りている。

「あのぉっ、すいません」

 やや声を張って上から呼びかける。私の声に反応したのか、足を止めてくれたので続けて尋ねた。

「お守り! 電車に落とさ――」

 途中で言葉を失う。彼女の下半身を固まったまま見ていた。
 血だ。
 バケツをひっくり返したような量と勢いで血がワンピースの裾から流れ出ている。裾を真っ赤に染め、足下の階段を汚す。
 私の頭は真っ白で、やっと声を出せるまで一、二秒を要したと思う。

「あっ、だ、大」

 大丈夫ですか、と聞きかけた。いや大丈夫なはずない。あわてて階段を駆け下りる。それとほとんど同時、女性の体は小刻みに震えながら前に倒れ、階段を転げ落ちていく――裾が翻って、その際、今度は何か赤黒い塊がまろび出る。

「……い゛ゅっ」

 ごじゃっ、と嫌な音がして、同時に自分の喉の奥からも変な声が漏れた。彼女は一番下の段に頭を打ち付け、仰向けで倒れていた。ぴくりとも動かない。
 私はギクシャクした動きでさっき女性が立っていたあたりまで降りる。ポケットのスマホにやりかけた手は半端なところで止まったまま、視線は階段下にいる彼女の頭部から上半身、脇に転がるバッグ、下半身――裾から覗く赤黒い塊へ移る。
 見ちゃいけない。そんな気がした。心臓の鼓動は激しさを増し、ぞわぞわと背中で産毛の逆立つ感覚があった。それでも私は、見てしまっていた。
 血に塗れた、裸の赤ちゃんだった。身動きもせず声一つ発さず、そして。
 笑っていた。
 満面の笑みが私を見上げていた。

「ひっ! ……あっ」

 その笑顔を目にした途端、反射的に後ずさり、ぬめった血に足を滑らせてしまう。パンプスだったのもあって大きくバランスを崩し、今度は私が前のめりに宙へ投げ出された。
 視界が回る。階段に頭を強く打ち付け、さらに転げ落ちる。痛みと共に意識は遠ざかり、
 そして私は奇妙な夢を見た。

 最初に目に飛び込んできたのは、大量の赤ちゃん。何十、何百という数だ。
 一人一人、髪の生え具合に顔立ち、成長の度合いにも差があった。
 そして、顔色のどす黒い子、ひどい火傷の跡がある子、首に紐が巻き付いて舌をはみ出させた子、顔全体が大きくはれ上がった子、血まみれの子……無事な子がほとんど見当たらない。
 多くの子が泣き喚く中、息を詰まらせているのか泣くことすらできない様子の子も目に付く。
 痛そうだ、苦しそうだ、助けてあげなきゃ、でもわかっている。これはどうにもできない。
 そして、もう一つ別な声がした。泣き声にもかき消されることなくどこからか聞こえてくる声。女性の声で、どうも歌っているらしい、民謡みたいな歌い方だった。

ててーーはぁーーはいいーーかにーぞたぁーーねまぁーーーーくやぁーーーー

 突然、さっきまでと全く別な光景が広がった。
 田畑や野山、ぽつぽつと見える、茅葺屋根の家、地面は土が剥き出し、そんな景色の中、すぐ眼前に三人の人影。

「化け物」「こっち来るな」「呪われる」

 三人は七、八歳くらいの男の子だった。裸足にひどく粗末な着物、前髪と頭頂部だけ髪を生やし結んでいる。同じような格好の彼らは同じように私を睨みつけ、罵った。強い嫌悪、それに恐れのこもった視線。知っている。慣れている。「私」は化け物だ。
 景色は切り替わっても、歌はBGMみたいに切れ目なく流れ続けている。

いいーーづれーーはかーーるみでーーたぁーーねをーーまくーーー

 今度は、冬。寒い。空気が肌を刺すようだ。曇り空からは雪が降っていて、遠くに見える山の木々も雪化粧している。けれど「私」が視線を向けていたのはその山のさらにずっと遠方に臨む高い山。山頂から勢いよく黒煙を噴き上げる。

いいーーづれーーはかーーるこーーのをーーたぁーーねをーーまくーーー

 どこか屋内。足の裏にはざらざらした、でも濡れた感触。鉄っぽい臭いと生臭さ。 
 蝋燭の火でぼんやり照らされた暗がり、足下に髷を結った男性が倒れていた。開けた着物から覗く上半身は血まみれらしく、そして短刀を握った「私」の右手も生暖かく濡れている。わかっている、「私」が殺したのだ。
 自分が笑みを浮かべていることを自覚する。
 殺してやった。なんて晴れ晴れした心地だろうか。そのまま、「私」は畳の上に腰を下ろすと大きく股を開く。「私」は全裸だった。
 男を殺すのに使った短刀を両手で握る。毛の覆う陰部、膣に切っ先をあてがい、そして微塵の躊躇もなく突き入れた。
 肉が裂けて血が噴き出す、痛い痛い痛い、全身が裂けそう、痛い、気持ちいい。いい。これでいいんだ。
「私」は短刀を持つ手を緩めず、どころかさらに力を込めて、突き刺した刀を垂直に立てる。陰部を骨ごと真っ二つにしても、手は止まらず縦に自分の体を切り裂いていった。なんて、なんて気持ちいい、ああ、いい。
 胸元まで刃が達すると、ようやく私は手を止めて、笑った。体が燃えるように熱い。この熱を吐き出したい。絶頂の中で「私」は大きく息を吸うと――

「えっちゃん! よかったぁ」
「……外では『恵那』」

 私がジタバタしても母の抱擁からは抜け出せなかった。男性並みに大柄な母に力いっぱい抱きしめられると割と痛いし、すぐそばでは付き添ってくれた刑事さんが苦笑していて顔が熱くなる。でも、やっぱり安堵している自分がいた。小さい頃からそうだった。
 階段で倒れていた私が駅員さんに見つかって病院に運ばれ、意識を取り戻したのが三時間ほど前。検査が済み、施設に無断欠勤の謝罪の電話を入れ、その後はこの警察署で事情聴取を受けていた。今はそれも終わって、ロビーで迎えに来た母と再会したところだ。

「頭ちゃんと診てもらった?」

 そう聞く母に、私は病院でもらってきた診断書を見せる。CTスキャンをしたけれど特に異状はなし、その他打撲の類も一切ないし、どこも痛くない。あれだけ派手に落ちたのに我ながら幸運だった。私に関しては、だけど。
 中尾由香里、という名前らしい妊婦さんと赤ちゃんは駅員さんの発見時点――倒れて一分も経っていないらしい――で死亡していた。
 私は同じ電車に乗り合わせ、落としたお守りを届けようと後を追い、倒れる瞬間を目撃した、しか言うことはなかったし、実際下車してからの一部始終は駅の防犯カメラにもほぼ映っていたとのことで、事情聴取はすぐに終わった。

 私と母は駅まで警察の車で送ってもらえることになった。車を出す直前、運転手さんが協力へのお礼と、「早く忘れられた方がいいですよ」と言ってくれた。刑事さんというのはやっぱり、嫌な場面を見ることも多いのかも知れない。
 もっともなんだとは思う。だけど忘れるには重すぎる出来事だった。死んでしまった親子、二人の命はもう取り返しがつかないのだ。
『生きてればいいことは絶対ある』『死んだら損』母の言葉だけど、赤ちゃんに至っては生まれることさえなく。
 これから何だってできたのに、何にでもなれたのに、無限の可能性が……あるはずだったのに。
 ただ。そのこととはまた別な意味で、頭からなかなか離れてくれないことがある。
 あの赤ちゃんは笑って死んでいた、その笑顔だ。
 赤ちゃんが笑うことを覚えるのは生後二か月ほど経ってからのはずだ。それもあの子は苦しんで死んだだろうに。
 そしてもう一つ、気絶している間に見た夢。あれも一体。
 夢は脳が記憶を整理するために見るというけど、私が見たものはどれも古い時代の光景だった。私があんな経験しているわけがないし、その手の映画やドラマを見た覚えもない。
 非現実的な状況や支離滅裂なストーリーを受け入れてしまうのも夢なら当たり前のことだけど、でもあの夢は一つ一つは異常にリアルで、今も鮮明に憶えている。
 何だろう。何だったんだろう、あれ……。

「えっちゃん?」

 母が心配そうに呼ぶ。車内が寒いわけでもないのに私は寒気を感じ、身を震わせていた。作り笑いをして母に「大丈夫だよ」と答える。
 そうだ。刑事さんの言う通り、忘れよう。赤ちゃんの笑顔は表情筋が弛緩してたまたまああなっただけだ。夢はただの夢だ。そうに決まってる。
 車が駅に着くとロータリーで降ろしてもらう。二人で改札口に歩く間、母が言う。

「今日、一緒に寝る?」
「一人でいいです」

 からかい半分な口調にちょっとむっとする。私は入院中に一時帰宅した時は毎晩母と一緒に寝ていたし、その後も年に一回くらいそういうことがあったし、実際その夜もやっぱり母のところへ行こうかと少し考えてしまう。
 だけど、その日の夜は妙に熱っぽくて、あの寒気は本当に体調を崩してたのかも、風邪なら移してはいけないと、一人で寝ることにした。
 厚着をして自分の部屋のベッドに入る。今日のことを夢に見たらと不安だったけど、どうやら杞憂らしかった。
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登場人物紹介

丸屋恵那(まるや えな)


大学で幼児教育を専攻する女子大生。

子供を持つことに強い憧れがあるが、過去の白血病治療で自然妊娠は難しい体。

しかし、処女のまま突如として妊娠するところから物語は始まる。

相川愛(あいかわ まな)


恵那のバイト先の児童養護施設へボランティアに訪れる女性。

生まれつきの霊感のために親から虐待を受けた過去があり、基本的に親を嫌っている一方で里親の二人には愛情を抱いており、施設の子供たちにも優しい。

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