死にたいなんて思った事ない

文字数 2,000文字

 拝啓
 愛すべきお母さんへ
 初めて話した言葉を覚えてる人は、多分ほとんどいないでしょう。実際私は覚えていないし、覚えている人に会った事もありません。問いかけた事はないけれど、今まで会った人全員に聞いても覚えていないと答えるだろうと思います。
 でも、私は初めて怪我をした時の事を覚えています。
 あれは、公園で遊んでいた時の事です。私は金属製のスコップを手に持っていました。まさか、まだ会話もたどたどしい私に私にそんな物を持たせるはずがないので、おそらく砂場に置き忘れられていた物を拾ったのだと思います。関西と関東ではシャベルとスコップの呼び方が違うとか言うけれど、この場合はともかく片手で持てる大きさのやつの事です。初めて手に持つ重さのある物体に、幼いながら興味を持った事を覚えています。
 お母さんは知らないでしょう。あの時、私は左手の甲に血が出るくらいの怪我をしましたが、あれは事故などではなく私自身がやった事なのです。何を思ったわけでもなく、何がしたかったわけでもなく、私は自分で手の甲にスコップを突き立てました。子供にありがちな奇行なのだと思います。とっても痛くて、涙も流れてしまいました。
 それが、私が初めて負った怪我でした。もしかしたら、お母さんはもっと昔の事を知っているかもしれませんが、私にとってはそれが最初でした。
 痛かった。
 大泣きした。
 でも、全然辛くはなかった。それから、私の悪癖が生まれてしまったのです。
 自傷癖などと言えば気取った感じでカッコ悪いですが、私のこれを表現しようと思った時、一番分かりやすい言葉はこれになるでしょう。
 誰しも不安になったり焦ったりした時、気分転換をする事があると思います。きっと散歩をしたり、本を読んだり、趣味に没頭したりするのでしょう。そうして気分を一新し、翌日からでもいつも通りに生活できるのでしょう。ただ、私はその行為が自分を傷つける事だったというだけの話です。
 友達と喧嘩してしまった時、勉強が手につかない時、そんな時、私は自分の体に爪を突き立てるのです。決して気を違えたとか、癇癪を起こしたとかいうわけではなく、痛いと感じる事で気持ちが落ち着くのです。テニス選手でも、精神を落ち着けるためにラケットを壊したりすると思います。私のこれもそんな感じで、行為自体は変かもしれませんが、目的としてそこまでおかしなものではないでしょう。
 中学の時、お母さんが私の怪我を見つけました。
 受験によるストレスで気分が落ち着かなかったので、ハサミで手の甲に傷をつけたのです。自分の肌から流れる血液が、私の心から不快なものを洗い流しているかのようでした。その痛みが体に残っている間、私はこれ以上なく冷静でいられるのです。治りかけると傷口を強く押さえ、まだ痛みがある事を入念に確認していました。
 そんな姿を、お母さんは見つけたのでしたね。
 お母さんは私がイジメにあっているのではないかと勘違いし、学校に問い合わせました。もちろんそんな事実はないので先生もそう応えますが、お母さんはいつまでも納得がいかないと怒っていた事を覚えています。
 私のせいで迷惑をかけてしまった事が、ずっと心残りでした。この手紙を読んでいるのならもう私は死んでいると思うので、折角ですしこの場で謝らせてください。
 本当にごめんなさい。
 ただ一つ知っていて欲しいのは、私は決して死にたいなどと思った事はないという事です。私は疑う余地もなく幸せで、死のうとなど考える事すらしていません。
 ただ、私はこの悪癖によって、ともすれば命を落とすかもしれないと感じるのです。それは思い余ってではなく、勢い余って。
 もしもそんな風に死んだ時、お母さんはきっと自死であると思うのではないでしょうか。そう考えて、私はこの手紙を書きます。
 私はこの手紙を、成人式の日に書いています。そしてその日から、肌身離さずずっと持ち歩く事にします。
 常に持ち歩いていたならばこの手紙が誰かの目に触れてしまうのを防げますし、もしも私が死んだ時は、おそらく警察の方からお母さんに届けられるかと思います。
 これならば、私が何かを気に病んで自らを手にかけたのではないと証明できるでしょう。おそらく見ていると思われる警察の方、よろしければ筆跡鑑定にでもかけてみてください。お母さんは私が高校に通っていた頃の日記を残していると思うので、それと照らし合わせればすぐにわかるかと思います。
 願わくば、この手紙が誰にも読まれませんように。私はやりたい事が沢山あるので、まだまだ全然死にたくありません。
 敬具
 追伸
 お母さん愛していました。
 これを書いている時点では死ぬつもりなんてないので過去形にするのはむず痒いですが、もし読まれる場合は死んだ後になるはずなのでそのように書きます。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み