第3話熔解
文字数 3,222文字
ここにきてからずっとパジャマだがいいのだろうか。朝食を食べている間、ふとそんなことを考えた。畑仕事の前に作業着に着替える以外、ずっとパジャマのままだ。一応他にも着替えはあるのだが、着替えるのがめんどくさいし、このパジャマは気に入っているのでずっと使っている。しかし山に入る時は汚れるといけないから、着替えていこうか。
「おーい。そろそろ畑仕事するぞーぅ。」
網戸越しにおじいちゃんはそう呼びかけると、畑の方に戻っていった。僕は朝食を急いで喉に押し込むと、ボロボロの作業着に着替えた。今日も太陽がさんさんと照り付けている。気をしっかり保っていないと溶けてしまいそうだ。いつもならきつい畑仕事だが、今日はなんだか楽しみだ。理由はもちろん明白である。期待することほど愚かなことはない。必ず裏切られるからだ。満たされない。満たされない思い。それなのに、なにかに期待していないと人間は生きていくことは難しい。すなわち根本が愚かでないと、人は生きていけないのだ。僕は今一度期待に身を任せ、希望に心を震わせた。今日の畑仕事は土をスコップで掘り返すことだった。スコップを土の中にグッと押し込むと、それをひっくり返す。これを何回も何回もくり返す。こうすることで土が良くなるのだそうだ。
「ここからここまでうなってくれ」
どうやらこうやって畑を耕すことをうなうというらしい。このうなうという作業が存外きつい。かなりの重労働だ。この暑さと相まって頭に霧がかかったようにボーっとする。カラカラの地面に自分の体重を乗せてスコップを突き立てる。てこの原理でそれをグッと持ち上げ土をひっくり返す。田舎の人は足腰が強いというが、なるほどこうした仕事を頻繫にやっていれば、自然と鍛えられるものなのだろう。畑の傍に生えている一本の樹に蝉が蝟集している。その黒々とした外骨格と無数の不協和音が暑さと疲れを余計に際立たせる。心身共に疲労が極に達した時、おばあちゃんからお昼ごはんのお呼びがかかった。助かった。僕は母屋に入りパジャマに着替えると、食卓に並んでいる冷やし中華をぺろりと平らげた。これから山に向かうのだから力をつけとかないと。一応仕事が終わりかどうかをおばあちゃんに確認すると、寝室に戻り少し寝ころんだ。そのあと半ば急ぎながらTシャツと長いジーパンに着替えた。日が暮れると帰れなくなってしまう。外に出ると、お買い物に行こうと自転車に乗るおばあちゃんに出くわした。
「おぉ!みっちゃんどうしたの?お出かけ?」
「あぁ。まあ散歩にでも行こうかと思って。」
「いいけど山にはいかないようにね。いくら低い山だとは言っても一人では危ないから。」
まあみっちゃんなら大丈夫だろうけどと言い残して、おばあちゃんは去って行った。
それにしても昔に比べて蚊が少なくなった気がする。蚊に刺された腕をポリポリと搔きながらそんなことを思った。昔ならもっとあちこち刺されていたはずだ。蚊の羽音もあまり聞かないようになった。いや年を取ると蚊の羽音ってきこえなくなるんだっけ。どうでもいい考えが少しずつフェードアウトしていくにつれて、またあの考えが僕の心を支配した。彼女は今日もいるのだろうか。そういえば時間を指定してなかったな。もう帰ってしまっただろうか。それとも昨日見たのは僕の幻で、そんなものは最初からいなかったのだろうか。風化しかかっている階段を慎重に登る。山道は滑りやすく、注意していないとひっくり返ってしまいそうだ。土を踏む足に力が入る。心臓がドクドクと波打つ。激しい運動のせいだろうか、それとも緊張のせいだろうか。息が荒くなる。怖い。一体何がそんなに怖いのか。それでも歩みを進めるのをやめようとしない。やめたくない。電灯に群がる蛾とはこんな気分なのだろうかとふと思った。
山頂に向かう最後の石段を登りきる。手に汗が滲む。僕は下を向いて息を整え深呼吸すると、ゆっくり前を向いた。果たして彼女はいた。心臓が一つドクンと跳ねた。神社の縁側に座る彼女は、どこか遠くを見て物思いにふけっているようだった。僕はゆっくりと足を前に出した。なんて声をかけたらいいだろう。何を話せばいいのだろう。もう彼女は昨日のことを忘れてしまっているかもしれないのに。
「こ、こんにちはぁ。」
絞り出すように一声かけると、賽銭箱を挟んで向こう側の縁側に腰かけた。
「・・・。」
声こそかけなかったが、彼女はゆっくりと僕の方を向いた。僕のことに気づいたようだ。
「あの花火の件なんだけど・・・。」
僕は少し間をおいた。忘れているかもしれないと思ったからだ。
「あぁ。花火ね。いつ上がるか分かった?」
「分かったよ。八月十六日。あと四日後だね。」
「そう。もうすぐね。」
「・・・。」
「・・・。」
会話が続かない。僕が口下手だからか、彼女が続ける気がないからか。しばらく沈黙が続いた。風がそよそよと木の葉を揺らした。
「あの、いつからここにいたんですか?」
「・・・。」
「いつもは何してるんですか?」
「・・・。」
気分を害しているのか。単に興味がないだけか。彼女は僕に応答することはなかった。その代わりに賽銭箱の上の帳面を指差して、
「今日はこれ書かないの?」
と聞いてきた。
「あぁ。そうだ。今日の分書かないと。」
僕は沈黙から逃れるように帳面を手に取ると、そこに名前を書き始めた。上には僕の筆跡で名前と昨日の日付が記されている。帳面の場所も昨日置いた場所のままだし、ここには昨日から僕以外誰も来ていないようだった。
「その帳面を見てた。」
急に彼女がつぶやくので少しびっくりした。
「え。僕が来る前ですか?」
「そしたら君と同じ苗字の人が何人かいた。」
「あぁ。僕の家族もたまに来るからね。どこのページですか?」
「ちょっと貸して。」
彼女は賽銭箱をまたいで僕の横に座ると、僕の手から帳面を取ってペラペラとめくる。近い。息遣いまで聞こえてくるようだ。僕はドギマギしてしまう。彼女の細く儚げな眼差しは帳面に向けられており、そんな僕に気づくそぶりはない。
「ここ。」
彼女が指差す箇所には、確かに僕と同じ苗字の名前と日付が乗っていた。
2018年1月1日荒井正雄
今年の正月の日付である。この名前はおじいちゃんであろう。そういえばおじいちゃんは毎年正月になるとこの山に登っていた。
「これは僕のおじいちゃんですね。」
「そう。」
「他には?」
彼女はページをペラペラとめくりながら、何箇所か指差したが、どれもおじいちゃんかおじさんであった。帳面の一番初めは五年前でそれ以上は遡れなかった。
「・・・そう。みんな親戚なんだ。」
「この山に登るのは地元の人だけですからね。」
「地元ってどのあたり?」
「えーとね。ちょっとついてきて。」
僕は立ち上がると階段の所まで歩いた。
「あの川から手前側の集落。」
確かそうだったはずだ。僕も集落の境を詳しくは覚えていない。
「・・・ふーん。そういえば昨日言ってた灯籠流しもあの川でやるの?」
「そうそう。とても綺麗だよ。」
「ここから見えるかな・・・。」
「さぁどうだろう。光が点々になって綺麗だとは思うけど。よく見えないかもなぁ。」
「花火はいつ上がるの。」
「灯籠を流している最中だったはずです。花火はここからでも綺麗に見える。」
昨日もそう言ったがあくまで推測である。本当にここから綺麗に見えるかどうかはわからない。僕は少しの罪悪感と不安を覚えた。
「そう。」
彼女はどこか満足そうに微笑んだ、ように見えた。
「よければ一緒に花火見ませんか。」
どこで切り出そうかずっと迷っていた。自然な流れだと感じ、思い切って口に出してしまった。緊張で声が少し震える。
「・・・ここで?」
「うん。」
「いいよ。」
拍子抜けするほどあっさりとした返事だった。僕は体を支配していた不安と緊張がなくなるとともに、あふれ出てくる喜びの感情を抑えるのに必死だった。黄昏色に染まりつつある空は、雲との境目を次第に曖昧にしていった。
「おーい。そろそろ畑仕事するぞーぅ。」
網戸越しにおじいちゃんはそう呼びかけると、畑の方に戻っていった。僕は朝食を急いで喉に押し込むと、ボロボロの作業着に着替えた。今日も太陽がさんさんと照り付けている。気をしっかり保っていないと溶けてしまいそうだ。いつもならきつい畑仕事だが、今日はなんだか楽しみだ。理由はもちろん明白である。期待することほど愚かなことはない。必ず裏切られるからだ。満たされない。満たされない思い。それなのに、なにかに期待していないと人間は生きていくことは難しい。すなわち根本が愚かでないと、人は生きていけないのだ。僕は今一度期待に身を任せ、希望に心を震わせた。今日の畑仕事は土をスコップで掘り返すことだった。スコップを土の中にグッと押し込むと、それをひっくり返す。これを何回も何回もくり返す。こうすることで土が良くなるのだそうだ。
「ここからここまでうなってくれ」
どうやらこうやって畑を耕すことをうなうというらしい。このうなうという作業が存外きつい。かなりの重労働だ。この暑さと相まって頭に霧がかかったようにボーっとする。カラカラの地面に自分の体重を乗せてスコップを突き立てる。てこの原理でそれをグッと持ち上げ土をひっくり返す。田舎の人は足腰が強いというが、なるほどこうした仕事を頻繫にやっていれば、自然と鍛えられるものなのだろう。畑の傍に生えている一本の樹に蝉が蝟集している。その黒々とした外骨格と無数の不協和音が暑さと疲れを余計に際立たせる。心身共に疲労が極に達した時、おばあちゃんからお昼ごはんのお呼びがかかった。助かった。僕は母屋に入りパジャマに着替えると、食卓に並んでいる冷やし中華をぺろりと平らげた。これから山に向かうのだから力をつけとかないと。一応仕事が終わりかどうかをおばあちゃんに確認すると、寝室に戻り少し寝ころんだ。そのあと半ば急ぎながらTシャツと長いジーパンに着替えた。日が暮れると帰れなくなってしまう。外に出ると、お買い物に行こうと自転車に乗るおばあちゃんに出くわした。
「おぉ!みっちゃんどうしたの?お出かけ?」
「あぁ。まあ散歩にでも行こうかと思って。」
「いいけど山にはいかないようにね。いくら低い山だとは言っても一人では危ないから。」
まあみっちゃんなら大丈夫だろうけどと言い残して、おばあちゃんは去って行った。
それにしても昔に比べて蚊が少なくなった気がする。蚊に刺された腕をポリポリと搔きながらそんなことを思った。昔ならもっとあちこち刺されていたはずだ。蚊の羽音もあまり聞かないようになった。いや年を取ると蚊の羽音ってきこえなくなるんだっけ。どうでもいい考えが少しずつフェードアウトしていくにつれて、またあの考えが僕の心を支配した。彼女は今日もいるのだろうか。そういえば時間を指定してなかったな。もう帰ってしまっただろうか。それとも昨日見たのは僕の幻で、そんなものは最初からいなかったのだろうか。風化しかかっている階段を慎重に登る。山道は滑りやすく、注意していないとひっくり返ってしまいそうだ。土を踏む足に力が入る。心臓がドクドクと波打つ。激しい運動のせいだろうか、それとも緊張のせいだろうか。息が荒くなる。怖い。一体何がそんなに怖いのか。それでも歩みを進めるのをやめようとしない。やめたくない。電灯に群がる蛾とはこんな気分なのだろうかとふと思った。
山頂に向かう最後の石段を登りきる。手に汗が滲む。僕は下を向いて息を整え深呼吸すると、ゆっくり前を向いた。果たして彼女はいた。心臓が一つドクンと跳ねた。神社の縁側に座る彼女は、どこか遠くを見て物思いにふけっているようだった。僕はゆっくりと足を前に出した。なんて声をかけたらいいだろう。何を話せばいいのだろう。もう彼女は昨日のことを忘れてしまっているかもしれないのに。
「こ、こんにちはぁ。」
絞り出すように一声かけると、賽銭箱を挟んで向こう側の縁側に腰かけた。
「・・・。」
声こそかけなかったが、彼女はゆっくりと僕の方を向いた。僕のことに気づいたようだ。
「あの花火の件なんだけど・・・。」
僕は少し間をおいた。忘れているかもしれないと思ったからだ。
「あぁ。花火ね。いつ上がるか分かった?」
「分かったよ。八月十六日。あと四日後だね。」
「そう。もうすぐね。」
「・・・。」
「・・・。」
会話が続かない。僕が口下手だからか、彼女が続ける気がないからか。しばらく沈黙が続いた。風がそよそよと木の葉を揺らした。
「あの、いつからここにいたんですか?」
「・・・。」
「いつもは何してるんですか?」
「・・・。」
気分を害しているのか。単に興味がないだけか。彼女は僕に応答することはなかった。その代わりに賽銭箱の上の帳面を指差して、
「今日はこれ書かないの?」
と聞いてきた。
「あぁ。そうだ。今日の分書かないと。」
僕は沈黙から逃れるように帳面を手に取ると、そこに名前を書き始めた。上には僕の筆跡で名前と昨日の日付が記されている。帳面の場所も昨日置いた場所のままだし、ここには昨日から僕以外誰も来ていないようだった。
「その帳面を見てた。」
急に彼女がつぶやくので少しびっくりした。
「え。僕が来る前ですか?」
「そしたら君と同じ苗字の人が何人かいた。」
「あぁ。僕の家族もたまに来るからね。どこのページですか?」
「ちょっと貸して。」
彼女は賽銭箱をまたいで僕の横に座ると、僕の手から帳面を取ってペラペラとめくる。近い。息遣いまで聞こえてくるようだ。僕はドギマギしてしまう。彼女の細く儚げな眼差しは帳面に向けられており、そんな僕に気づくそぶりはない。
「ここ。」
彼女が指差す箇所には、確かに僕と同じ苗字の名前と日付が乗っていた。
2018年1月1日荒井正雄
今年の正月の日付である。この名前はおじいちゃんであろう。そういえばおじいちゃんは毎年正月になるとこの山に登っていた。
「これは僕のおじいちゃんですね。」
「そう。」
「他には?」
彼女はページをペラペラとめくりながら、何箇所か指差したが、どれもおじいちゃんかおじさんであった。帳面の一番初めは五年前でそれ以上は遡れなかった。
「・・・そう。みんな親戚なんだ。」
「この山に登るのは地元の人だけですからね。」
「地元ってどのあたり?」
「えーとね。ちょっとついてきて。」
僕は立ち上がると階段の所まで歩いた。
「あの川から手前側の集落。」
確かそうだったはずだ。僕も集落の境を詳しくは覚えていない。
「・・・ふーん。そういえば昨日言ってた灯籠流しもあの川でやるの?」
「そうそう。とても綺麗だよ。」
「ここから見えるかな・・・。」
「さぁどうだろう。光が点々になって綺麗だとは思うけど。よく見えないかもなぁ。」
「花火はいつ上がるの。」
「灯籠を流している最中だったはずです。花火はここからでも綺麗に見える。」
昨日もそう言ったがあくまで推測である。本当にここから綺麗に見えるかどうかはわからない。僕は少しの罪悪感と不安を覚えた。
「そう。」
彼女はどこか満足そうに微笑んだ、ように見えた。
「よければ一緒に花火見ませんか。」
どこで切り出そうかずっと迷っていた。自然な流れだと感じ、思い切って口に出してしまった。緊張で声が少し震える。
「・・・ここで?」
「うん。」
「いいよ。」
拍子抜けするほどあっさりとした返事だった。僕は体を支配していた不安と緊張がなくなるとともに、あふれ出てくる喜びの感情を抑えるのに必死だった。黄昏色に染まりつつある空は、雲との境目を次第に曖昧にしていった。