「
対馬さまー、対馬さまー。」
小梅が、遠くで
対馬を
呼んでいる。
小梅が、この谷の
門番をしているケンさんと
一緒に
暮らすようになって、7年が
経つ。ここ何年か、
慌てて
対馬を
呼び出すのは、たいてい
小梅の
役割になっていた。
「
対馬さまったら、どこに
居るのー。た・い・へ・ん・なんですよー。」
「ここですよ。
小梅さん。」
対馬はまだ、大きな「祈り岩」の上に居る。岩に
到着するのが待てずに、小梅は、はあはあと
息を切らして
叫んでいる。
「あのねー、
火球がねー、となり村に落ちたらしいのうー。はあはあ、対馬さまー。」
祈り岩の下から手を
伸ばして、
小梅は
対馬に早く
降りてくれと
促した。
「はいはい、
小梅さん。
火球が、なあに?」
対馬ののんびりした返事に、小梅は
拍子抜けして、
首を
振った。
「対馬さま、しっかり聞いてね。
火球がね、南の空から来て、となりのアノン村に落ちたんですって。落ちる
直前に二つに
分かれたと言って、
隕石を
探して、この谷にも
形相を
変えた
人間たちが、いーっぱい
登って来ているところらしいの。」
「まあ。人間たちは今、何人くらいで、
何処らへんなの ?」
門番のケンさんが、
物見の
杉から、「
虹の
谷」を
登る
一本道を
見張っている。
「
八の
曲がり坂の
辺りで、200人くらいで、
火球のかけらを
探しているわ。」
「まあ、どうしましょう。」
対馬は顔を手で
覆ってうつむいた。
火球が
落ちたとはいえ、
音にも気づかなかったくらいだから、火球が
燃え残って
隕石になったとしてもごく小さいはず。そこには何も
問題はない。
対馬に大きなショックを
与えているのは、ここ
数年、対馬の心に
住みつくようになった、ひとつの
怖れが、とうとう現実のものとなった、ということだ。
「
虹の
谷」の
異界は、人間階層(にんげんかいそう)とほんの0.25バレンタしか、ずれていない。それは、
人間階層とほとんどの
空間が
重なっているということなのだ。
空間が
重なった人間界に、何か
異変が
起こって、その空間が大きく
乱れれば、虹の谷の
異界も
影響なしではいられない。だからこそ
対馬は、日々、人間界の
平穏を、自分たちの世界のことと同じように、心を
込めて祈ってきた。そして人間界にも、この虹の谷のような
異界の
影響を受けて、
祈るし、異界の
波動に
同調したがるし、時には異界のものとも心を
通じさせようとする、そんな
習慣が
続いているのである。
もし、
対馬がいる「虹の谷」に、
火球のかけらが
落ちたのなら、
隕石は
河童たちから
即刻「
宇宙の友」として
迎えられ、
祀られて、それぞれのやり方で宇宙に思いを
馳せるだけですむ。そのやり方が、
惑星の
衝突などに
恐怖を
及ばせない、
威力ある
珍入者から、受け手の心を
守る
異界のしきたりだ。
隣のアノン
村の人間界には、もう
祈祷師も
祭祀を
司どる者もいなくなっている。人間は、
日々忙しくなりすぎて、
異界のことなどすっかり忘れてしまったのだ。
そんなアノン村に、
人間界特有の、
隕石をゲットして目立ちたい、だとか、名前を付けたいだとか、売ってお金にしたいだとかで、
他所からの人が
押し
寄せたら・・・。アノン村ばかりでなくこの谷にまで、隕石を
探してざわざわと
踏み
込まれたら・・・。空間が、ほとんど
重なったこの「虹の谷」の、
平穏で
繊細で
夢のように美しい
彩りも、たちまち
色褪せてしまうだろう。
・・・しかし、今、
対馬を
打ちのめしているのは、そこでもない。
差し
迫ったもうひとつの「
一大事」への
怖れ。その「一大事」を、
対馬と
小梅は
共有していた。
「見えてしまうかも・・・。」
そう、
差し
迫った「
一大事」は、ここなのだ。今のままでは、
虹の
谷の
河童たちの
姿が、人間たちに見えてしまうかも知れないのである。
もともと、「虹の谷」の
異界は、
人間階層に対して、0.75バレンタのずれを
持つように
創られていた。
創られていたのだ。それが今は、たった0.25バレンタ。
人間階層と「虹の谷」の異界は、なぜか、今までになく近づいている。今でさえ、周波数認識領域(しゅうはすうにんしきりょういき)の広い人間であれば、河童たちの姿は
薄っすらと見えるだろう。ただ、この谷を
彩るたくさんの花々や、雪や、木々の
揺らめきが、それを
阻んでいるだけなのだ。
小梅は、対馬の気持ちを良く理解していた。もともと
活発な小梅には、この谷は
退屈すぎた。だから、他の異界から
訪れる者たちを一番先に
迎えられる、
門番のケンさんの所に入り
浸っていたのである。
物見の
杉から、人間たちの姿が
薄っすらと見えるようになったのに
最初に気づいたのも、
小梅。それが三年前のこと。今日はもう、その
仕草までがわかるほど、人間たちは見えていた。
人間の方からも見えてしまう。それは、
河童たちには
致命的だ。人間にとって、
隕石と、とつぜん
現れた小さな
河童たち、どちらの方を、よりもの
珍しく思うかと、考えるだけでも
背筋が
凍りつく。
「
対馬さま、
小梅にできることは何でもするから、言ってほしいわ。」
対馬は、目をつぶったままでいた。
「私は、この日が来るのをずっと知っていたはず・・・そしてどうしたらいいかも知っていたはず・・・・」
目をつぶり、この谷に来るまでの
記憶を、
一生懸命たぐっているのだ。これまでにも何度も
試みたが、どうしても思い出せないのだ。
対馬がこの「虹の谷」にやって来たのは、630年ほど前のこと。
この
異界の
谷では、
歳の
取り方が人間界とは
随分と
違う。谷での
役割が決まると、その役割にふさわしい
年齢から、なかなか
身体年齢が先に進まない。それでも
対馬は、この谷に来てから十歳ほどは
歳を取っただろうか。それが、谷の者たちから、
頼られる
役割になってきたという
証なのだ。役割が変わった時に、役割にふさわしい年齢になって、そこでまた
身体年齢は止まったようになり、
歳月だけが過ぎていくのだ。
平穏な日々だから、本当にゆっくりだった。
630年前の
薄曇りの日、
対馬は、
一面の
琵琶を
背中にのせて、この谷の
一本道を
登って来た。その時の空の色だけは、
覚えている気がする。
「もしかしたら、この日のために、自分はこの谷にやって来たのではないか ?」
対馬は、何となくそんな気がしていた。しかし、
漠然とした
使命感で、
記憶を何度も
辿ろうとするのだが、うまく辿れない。
人間階層と「虹の谷」、たとえ今は、0.25バレンタしかずれていないとしても、
空間周波数が
違うエリアに入ると、
脳に
記録されているはずの
記憶も、なかなか
再生できないのだ。立ったまま、
対馬は、いつもより少し
深い
瞑想に入って、やっとのことで、ひとつのシーンがもやもやっと、そしてだんだんと
脳裏に
蘇ってきた。
あの日、対馬はまだ人間界にいて、この谷の多くの村人に
囲まれていた。村人は
対馬に
必死に何事かを
訴え、対馬はそれにテキパキと答えていたような気がする。そして、何かを伝えるように、対馬の指もとがクローズアップされて、いやにはっきり見えてきた。そうか・・・・。
「小梅さん、人間界にまで
降りて行って、三の曲がり坂に
結界を
張るわ。とりあえず結界でこの場をしのいで、後はゆっくり考えましょう。
手伝ってちょうだい。」
小梅は、ここぞとばかりに
力強うなづいた。
「そして、今、
起こっていることを、まず、さくらさんに伝えて。」
「えーーーーーっ。」
小梅の心配も
無理はない。河童国では
代々、女性のリーダーが「さくら」を
名乗ることになってはいる。しかし、千二百年もの間、
差し
迫った
危機があったわけでもない谷なので、
立派なリーダーになることが
運命付けられているとは言え、「さくら」はまだ少女の姿だ。おてんばで、子供たちのお姉さん、という役どころである。
昨日も、カラスが秋に
貯めておいた
胡桃を、木の上から落として遊んで、戻ったカラスにつき落とされた。
甲羅の
尻尾が
折れたと泣くから、
小梅が
断片をつなげてあげたばかりだった。
「
対馬さま、お願い、スーワさんも呼んでくださいね。」
なるほどスーワは、谷一番のもの知りなので、こちらは
頼りになりそうだ。
「わかったわ、小梅さん。いつかトト
神仙人が、お
土産に
持ってきてくれた
水晶を持って、三の
曲がり坂へ集合よ。」
「
了解です ! ふたりに、
対馬さまが
水晶で
結界を
張る
準備をしている、って言えばけいいのね ?」
対馬は、困った。とっさに口から出たのだ。「トト
神仙人は、
隣町の
三角山の
仙人で、小さな山の仙人ながら、この
地域ではいちばん
仙力が
強いと
評判だ。こんな時に、一番
頼りにしたいマナンタグラの「
小富士仙人」は、旅に出たまま帰らない。「長い旅になるから、何かあったら、トト
神仙人を
頼りなさい。」と言ったのを思い出したのだ。お
土産にもらった
水晶は、「うちの山で
採れた水晶だから、
困ったら
開とくれ。みたいなノリだったので、
実物は見てもいないのだ。ーーまずい、時間がない。
「
小梅さん、いいから行きなさい。
結界の
張り方を、私はこれから思い出さなければならないの !」
「えーーーーーーーーっ
!!!!!!!」
人間界のことは思い出せない。しかし、
祈祷師としてこの谷に来たのだから、思い出せば
結界の
張り方くらい知っているだろう。
対馬はより深い
瞑想に入るために、
再び
祈り
岩に飛び乗っていった。
「
小梅さん、
集合は
一時間後。もし私が
遅れても、きっと
待っていて下さいね。」