書評「動物農場」

文字数 2,989文字

ジョージ・オーウェルがスターリン批判を目的に執筆した小説で、半日もあれば読了可能。レーニンの革命から、スターリンによるトロツキーの排除、粛清、ソ連とナチ・英国との関係の歴史を知っていれば、物語の出来事がどの出来事を表しているのかは推察がつく。とくに粛清を再現したくだりは、まわりの動物たちの反応も含めて、恐怖政治の恐ろしさがよく描かれている。カラスのモーゼスをロシア正教会、雌鶏に起きた出来事を、ウクライナで起きたスターリン下の人工的な大飢饉(ホロドモール)がモデルとWikipediaではしているが、これはよくわからない。
訳注は詳細で、解説にはソ連の歴史的背景が書いてあるので、予備知識がなくても本作は理解が可能。むしろ、ソ連の歴史を知りたいので、本作で歴史を学ぶきっかけにしたいという人に最適な作品と言える。訳注には、登場する動物の詳細な動物学的記述もありユニークである。
上記の歴史的背景を熟知している読者には、小説の内容よりもオーウェル自身が書いた小説の前書き「付録1 出版の自由」「付録2 ウクライナ語版のための序文」のほうがインパクトは高い。すなわち、「付録1」では、本小説が執筆された時点では、イギリスとアメリカはスターリンと軍事的に組んでいたので、本小説の出版を受け入れず、第二次世界大戦後に漸く出版の運びとなった。オーウェルは英米の国としての政治的立場(オーウェルの意見は“時宜をえないものであり、反対勢力の思うつぼであるので、英露の国際提携を優先するというものp190。1947年アメリカ軍当局は本書のウクライナ語版を1500部没収p219)を批判するが(ぜひ勝利したいと思う戦争で英国がソ連と同盟国であるという事実があるとしても、スターリン批判をすべきp198)、同時に以下のようにジャーナリズム・知識人にも非難の矛先をむけている。

“出版社や編集者がある種のトピックを印刷しないでおこうとする場合、それは訴えられるのが怖いためでなく、世論が怖いためである。この国では、作家やジャーナリストが直面すべき最大の敵は、知識人の臆病なのである。英国における文章の検閲で気持ちが悪いのは、それが主として自発的なものだという点であるp183。見解を実際には有していないほかの人々も、ただ臆病風に吹かれて同調しているp198”.

上記の世間を恐れ、各方面に忖度して、自粛してしまう姿勢は、現代の日本の多くの分野でみられるもので、オーウェルの批判は極めて今日的である。

「付録2」は1947年に執筆。ここではオーウェル自らが自分の半生を語っており作者の思想の形成が追える(イギリスの植民地インド帝国の一部だったビルマで勤務p222したこと、ソ連大粛清の時期にスペイン内戦でPOUMに属していたことp227など)。その後で、“1930年以後、ソ連が真に社会主義に向かっている証拠は見いだせない。それどころか、階級社会に変貌しつつある徴候が明らかに見えるp214”と鋭い指摘。次にオーウェルは“ロシアが社会主義国であって、その支配者たちのやることなすことすべてが、許容すべきものである、という信念ほど、社会主義の本来の理念を腐敗させるのに大きく貢献したものはなかったと私は思う”としているが、この文からも、動物農場の世界=共産主義として、本作を反共に使用することが、オーウェルの思想とは反対のものであることは明らか。

オーウェルの本小説出版の目的は、スターリンの全体主義の悪を暴くことにあったのだが、冷戦時代になると、本小説は、今度は逆に反共主義に利用されてしまい、これはオーウェルの意図とは異なる。実際、本小説では社会主義・共産主義の思想に関しては反対しているものではない。また、本小説でトロツキーがモデルのスノーボールは極めて同情的に書かれているのだが、小説が英米でひろく反共などに使われた一方、トロツキーの復権には使われなかったのも、本作が政治的に奇妙に使われてきた点と言える。
オーウェルの意図ではないが、本作は近未来には動物の使役、動物園、ペットなどが動物虐待にあたるのではという問題を議論する時に使用される可能性はある。すなわち、おとぎ話としてではなく、字義通りに農場で動物を奴隷として使役したり、食料とすることの正当性を問う議論である。メージャー(レーニンがモデル)の以下の演説は正論で人間には反論のしようがない。“わしら(家畜)のくらしはみじめで、苦労が多く、しかも短い。生まれると、かろうじて命をつないでいられるだけの食べ物を与えられ、最後の力がつきるまでむりやりはたらかされるp11.” これに対して一部の動物は、“ご主人さまに仕えるのは義務p25”と奴隷の身分に疑問を感じなかったり、家畜の解放が遠い未来というビジョンなので、“おれたちが死んだあとに起こることをなんで気にしなくちゃいけないんだい”と子孫のことを考えない近眼的態度である(これらの一般大衆のネガティブな姿勢は、ヒトにおける他の問題でもみられる)。
川端康雄の解説では、いくつかの重要な指摘がある。まず、T・S・エリオットが動物農場の出版を拒否したことp235。動物農場の執筆が1943年11月から1944年2月であったことをオーウェルが校正刷りで加筆したこと(オーウェルは本作の書かれた時期を重要としていた。つまりソ連と冷戦下で対立する時期以前に書かれたものであること)p239。さらにオーウェルの「政治と英語」を引用して、オーウェルが“「婉曲法と論点回避と、もうろうたる曖昧性」からなる現代政治の言葉を批判し、政治の堕落と言語の堕落が結びついていつと述べた”ことを紹介。本作でも、この例は見られるが、この政治家の姿勢は、現代の日本の政治家の「朝ごはん論法」をはじめとする答弁の姿勢に一致している。



以下は抜粋

ローザ・ルクセンブルグが言ったように、自由とは「(異なる考え方をもつ)他者のための自由」なのであるFreedom is freedom for the other fellow」。p192。「デイリー・ワーカー」は一度ならずわたしを意図的に誹謗中傷したことがあるのだが、(その発禁処分について)わたしは思わずこの新聞を弁護したp195.


市井の人々は、ひとつには、不寛容になるほどまで思想に関心がない。p192

(変節した自由主義者は)民主主義を防御するためには全体主義的な方法によるしかない、とする主張が蔓延している。民主主義を愛するならば、いかなる手段を弄してでもその敵を叩きつぶさねばならぬ、という理屈である。p193

「世界をゆるがした十日間」ジョン・リード(レーニンが序文)p196

ロシア礼賛の流行など、長続きはしないだろう。だが、そのことはそれじたいではなんの役にも立たないだろう。ひとつの正統的教義を別の正統的教義と取り替えたからといって、それで進歩したことにはならないp197.

もし自由というものがなにがしかを意味するのであれば、それは人が聞きたがらないことを言う権利を意味するp199.

十歳ぐらいの小さな男の子が、巨大な輓馬を駆って狭い小道を進んでいるところに行きあわせた。人間が動物を搾取するやりかたは、金持ちがプロレタリアートを搾取するのと似た手口なのではあるまいかp216.

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