その2 牛肉とおパンツ
文字数 5,482文字
わたしの住んでいる安アパートで殺人事件が起きた。
亡くなったのは、203号室の住人。
弐区月金太郎。
和室に敷かれた布団の上で、あおむけになり、目を見開いて亡くなっていたという。
死因は後頭部を鈍器で強打されたためと見られているが、凶器は見当たらなかった。
亡くなったのは金曜日の晩、遅く……らしい。
うちにも聞き込み調査が来ている。
アリバイったって、そんなもん一人暮らしの貧乏人にあるもんか。
それに、殺害されたとみられる時間帯に、何か物音が聴こえなかったかと聞かれても、バルス祭りの真っ最中だったんだ。天空の城を大音響で食い入るように見てたんだから、本当に何も分からないんだよ。
「お宅の真上の部屋なんですけれどねぇ」
と言われても、答えられるのはただ一つ。
「歩き回るような物音や、押し入れの引き戸を開閉する際の振動は伝わりやすいのは確かですが、その時は全く何も気づきませんでした」
本当にそうなのだから仕方がない。
「あー、まあ、いつもと比べたら静かかな、とちらっと思ったかもしれません。在宅のはずだよな、と、ほんの少しだけ、違和感は覚えました」
これも本当だ。
しかしそこで警察官に食いつかれた。
「在宅だってどうしてわかったんです」
と、きたので、あわわとなった。身に覚えがないのだけど、疑われるのは嫌なものだ。
必死になってわたしは記憶をバックさせた。そうだ、確かにあの晩、(上の人、いるはずなのに今日はやけに行儀がいいな)と思ったんだよ。でも、わたしは何で彼が在宅だって分かっていたのかな。
……。
そうか。
「肉です」
わたしは叫んでしまった。
「肉を焼いていたからわかったんですよ。毎週金曜の晩に必ずあの人、肉を焼くんです。どんだけ食うんだと思うくらい、そりゃもう凄い勢いでにおってきて」
言いながら、あることを思い出しわたしは息を飲んだ。
ちょっとお巡りさん、いいですか、と口走り、二人組の警察官のうち、ひょろ長いほうのジャケットを掴んで部屋の外に出た。
そのままバタバタと外階段を上り、二階の吹きさらしの通路に出る。
うちの真上の203号室には、テープが貼られていて、警察関係の人でにぎわっていた。
「ここですよ、お巡りさんっ」
意気揚々とわたしは指さした。
レンガの壁の落書きである。
「Fri 夕 ブタ……」
警察はその変な書き込みを見て顔をしかめていた。
これがどうした、と言いたげである。そりゃそうだ。
二週間くらい前に、こういった変な落書きがアパートの住人の部屋に書き込まれていたことに気づいた。
それを伝えても、二人はまだ首を捻っている。
「ああもう、だからですね」
びし、とその落書きを指さしてわたしは言った。
「金曜日の夕方に豚肉を食ってるって暗号だと思うんですよコレ」
言ってしまってから、わたしは動きを止めた。激しい驚愕と、寒気のようなもののために、一瞬、言葉を失った。
なぜなら――。
「バツ印が付けられてますな」
鋭い目の太った警察が振り向いて言った。
その通り、壁の落書きには、大きくバツ印がつけられていたのである。
こんなものは、この間見つけた時にはなかった旨を主張すると、二人の警察官は顔を見合わせて頷きあった。
さあ、重要な手がかり(?)を提供したぞ。これでわたしも殺人事件の解決に一役買ったわけだ。
他の家の落書きも見て回った。
102号室、可愛らしいOLの部屋の、パンティーの印。
201号室の、ワキガのおっさんの、ワキガマーク。
そして、103号室、我が家の、うんこの印……。
「どれもバツ印は付けられてませんね」
と、警察は言った。
「鑑識に回せ」
と、太ったほうがひょろ長いのに命令し、部下らしいその人は、大急ぎで二階に走って行った。
太い警察は携帯を取り出すと電話をし始め、「奇妙な暗号が見つかった」とかなんとか言っている。
電話が終わると太いおっさんはわたしを見て、言った。
「くれぐれも気を付けてください。何かおかしいことがあればすぐに電話を。もちろん我々も、この建物をマークしますから大丈夫です」
スッと名刺を出してきた。
わたしが受け取ると、それでは失礼します、と言って去ってしまう。
うーん、殺人かぁ、とわたしは壁のうんこの絵を見ながら溜息をついた。
しかもうちの真上で。気味が悪いなあ。
友人に電話すると、喜々としてうちに来た。
「しばらく泊まってあげるから」
と、パンパンのスポーツバッグを持って上がり込んで来る。
食費とか払えよな、と念押しすると、OK、と返事だけは小気味よく帰ってきた。
「あのね、次に狙われるのは、あんただと思うのよ」
と、物騒なことを言うので、嫌な気持ちになったじゃないか。
「何でだよー」
と言うと、びしっとうちのトイレを指さして言った。
「凶器の行方が分からないっていうじゃない。わたしならトイレに流すわ。そして」
ギラギラした目でわたしを見上げながら、友人は畳みかけるように言った。
「あんたのうちのトイレは、いっつも、どっかのうんこが浮いてるじゃない。この建物の、どこの部屋の人が出したか分からないうんこが!……だから、トイレに流した凶器はきっと、あんたのトイレで発見されるわ」
ちょっと待てや落ち着け。トイレに流れるようなもんが凶器になるかい。
「それに気づいた犯人は、きっと凶器を発見したあんたを殺しに来るわ」
盛り上がっている友人は、完全にホームズ気取りだ。
「警察はバカね、こんなこともとっさに分からないなんて」
とか抜かしている。
「落ち着けやー」
しょうがないのでわたしはテレビを付けながら言った。
いつまでも、誰のもんか分からないうんこを浮かしているわけにはいかないじゃないか、だから業者に連絡して見てもらうことにしたんだよ、と友人に告げると、実に残念そうな顔をしやがった。
「大家さんが斡旋してくれたんだよ。明日には来ると思うけどなー」
興味津々な友人は二階の現場を見たいといって聞かない。
テープで立ち入り禁止状態だから、部屋の中には入れないけれど、側には行けるからな。
それで、私たちは二人して二階に見に行った。
わらわらと警察関係の人たちが出入りしていて、ものものしい。お邪魔するのも悪いくらいだ。
友人はつかつかと部屋のそばまで行くと、壁の落書きをにらみつけた。
そのまま、エスパーが透視するみたいに落書きを凝視している。
どうでもいいが寒いんだよ、はやく戻らんかー?
だらだらと立ち尽くしていると、部屋の中からこんな声が聞こえてきた。
「被害者が直前に調理して食べたものらしき肉のパックとラップが見つかりました」
「おう、それも鑑識に回しとけよ」
ほうほう、やっぱり肉食ってたんじゃないか、とわたしは何気なく耳を澄ました。
しかし次の瞬間、ん?と固まってしまった。
「国産牛肉だとさ、いいもん食ってるなー」
と、ぶつぶつ呟く声が聞こえてきたのだ。
はっと横を見ると、友人が恐ろしい顔をしていた。
牛肉、ですと。
「あんたっ、明日来る業者を断りなっ」
友人は部屋に戻るなりガミガミと言った。
「豚肉ばっかり喰ってる奴が、たまたま牛肉を喰ったもんだから殺されたのよ。だから、この部屋のトイレが直ってしまったら、あんた――」
「そんなバカな」
だとしたら、この部屋は永遠にうんこの部屋じゃないといけないということかい。
誰がそんなことを決める権限を持つのか。
「まあ、落ち着けや」
今日何度目になるかもう忘れてしまったそのセリフを、またしても口にしながらわたしは溜息をついた。
とりあえず今日は友人を泊めるとして、それじゃあ、こっちも気分が悪いし、明日業者が来た後、速やかに友人宅にお邪魔して、そっちに泊めてもらおうかな。
コンビニまで酒を買いに行き、二人でぶらぶら歩きながら戻ってくると、102号室の可愛いOLが帰宅するところだった。
「かわいいなー、やっぱ」
友人がぼけーとして言う。
すれ違うとき、OLがスマホに向かい、何かしゃべっているのが聞き取れた。
相手は彼氏らしく、今日泊まりにでもくるらしい。
ああ、それじゃあ今日はお隣からイヤンバカンな物音が聴こえてくるかもしれん。嫌だな。
「できたてホヤホヤの彼氏じゃないかな、今までそんなの来たことなかったもん」
わたしが言うと、なんで分かるんだよ、と突っ込まれた。
「分かるんだよ、だって壁が薄いしさ、物音がいちいち分かるんだってば」
言っている間に、隣からドタバタと派手な音が聞こえてきた。小走りに動き回る音、箪笥を開けるような音。
そして、ずうーん、という、掃除機の音まで響いてきたのには驚いた。
掃除機の音まで聞こえるのか、この安普請は。……というより、今まで隣から掃除機を動かす音なんか聞こえたことなかったぞ?
「汚部屋確定」
と、友人がチューハイを空けながら言った。
実に残念だ。
バタン、バタバタ、と、お隣が駆け足で外に出ていくのが聴こえた。そうっと台所の小窓を開けてのぞき見すると、息を切らして戻ってきたお隣さんは、また部屋に飛び込み、ゼイゼイ言いながらパンパンのゴミ袋を持って、飛び出してくる。
「すぐそこがゴミステーションなんだよ」
こそこそとわたしは言った。
でも明日はゴミの日じゃないぞ?
何往復もしてから、やっとお隣さんは部屋に戻り、落ち着いたようだ。
どれだけ貯めこんでいたのか。
その晩、乾きものを適当につまみながら酒盛りをしていると、お隣に彼氏さんらしい人がやってきた気配がした。
ピンポーン、とチャイムが鳴っている。
「来たな」
二人して目くばせし、素早くテレビの音量を上げた。
聞きたくないもんを聞かずに済ませるには、これが手っ取り早い。
ところが。
ピンポーン、ピンポンピンポン……。
「お迎えしてもらえないみたいだね」
「変だな、部屋にいるはずだよな」
友人と顔を見合わせていると、合鍵で開けたのか、それとも最初から開いていたのか、がちゃっというこもった音がして、隣に人が入ってゆく気配がした。
少し間をおいて、ものすごい悲鳴が闇夜をつんざいた。
「ぎゃあああああああー」
エンドレスで繰り返される悲鳴を聞きつけて、アパートの住人達――わたしと友人、そして201号室のワキガおじさんが、102号室の前まで来た。
どうしたんでしょう、とおじさんはわたしたちを見た。分かるわけがない。
その間、ずっと悲鳴は続いている。
ぎゃあぎゃああ、あああああ、あああ、殺されてる、殺されてる、誰かあああああ。
そう聞こえて、わたしたちは息を飲んだ。
おじさんは意を決したように、毛玉だらけのトレーナーの袖をつまんで伸ばし、手のひらを覆って、指紋がつかないようにしてドアノブを捻った。
簡単に扉は開いた。
「わあ、わああああ」
ものすごい顔をした若い男が飛び出してきて、おじさんに抱き着いた。べちょべちょに泣いている。
「死んでるんだよ、死んでるんだ、警察、警察を――」
あわあわと、わたしは部屋に飛んで戻って、携帯を引っ張り出した。そして昼間もらった名刺を見て電話をかける。すぐきます、と言って電話は切れた。
ゼイゼイと102号室に戻ってみると、友人たちは図々しく中に上がり込んでいるじゃないか。
「やめろやー、疑われるから、やめろー」
慌ててわたしも飛び込んだ。
台所から居間に続く引き戸は開け放してあり、テレビは8時からやっているドラマが流れていた。
花柄の薄ピンクのラグの上に、部屋着姿のお隣さんがあおむけになっている。
目を見開いて、茫然とした表情で、お亡くなりだ。
後頭部から血が流れているらしいので、頭を殴られでもしたのか。
「な、なあ、はやく行こう」
友人の背中をつつく。
青ざめた顔をして、友人はわたしを振り向き、ぽつりと言った。
「……パンツは、どこだ」
はぁ?
「パンツがないんだよっ、パンツがっ」
唾が飛んでくるじゃないか。
「はき捨てられたっ、汚れたっ、匂うようなっ、生パンツがっ」
「お、おい」
「ないんだよおおおおおおおおっ、パンツううううううううう」
とち狂ったらしい友人を引っ張って部屋に戻ってくると、大きく目を見開いて彼女は言った。
「おい、見てきたか、壁の印を」
はっとしてわたしは友人の顔を見返した。
わなわなと震えながら、友人は言ったのである。
「壁に描かれていたパンツの絵にな、☓がつけられていたぞ、オマエ……」
パンツが、ない。
汚部屋に乱舞していた(と思われる)はずの、若いOLのおパンティーが、あの部屋には見当たらなかった。
じゃあ何か?
散らかっていたパンツが綺麗に始末されたから、お隣さんは殺されたとでも言うのか。
「わからんよ、まだ――」
呟きながら友人は、キラキラと猫の目のように光る瞳をわたしに向けた。
あかん、完全に、名探偵きどりだ――。
亡くなったのは、203号室の住人。
弐区月金太郎。
和室に敷かれた布団の上で、あおむけになり、目を見開いて亡くなっていたという。
死因は後頭部を鈍器で強打されたためと見られているが、凶器は見当たらなかった。
亡くなったのは金曜日の晩、遅く……らしい。
うちにも聞き込み調査が来ている。
アリバイったって、そんなもん一人暮らしの貧乏人にあるもんか。
それに、殺害されたとみられる時間帯に、何か物音が聴こえなかったかと聞かれても、バルス祭りの真っ最中だったんだ。天空の城を大音響で食い入るように見てたんだから、本当に何も分からないんだよ。
「お宅の真上の部屋なんですけれどねぇ」
と言われても、答えられるのはただ一つ。
「歩き回るような物音や、押し入れの引き戸を開閉する際の振動は伝わりやすいのは確かですが、その時は全く何も気づきませんでした」
本当にそうなのだから仕方がない。
「あー、まあ、いつもと比べたら静かかな、とちらっと思ったかもしれません。在宅のはずだよな、と、ほんの少しだけ、違和感は覚えました」
これも本当だ。
しかしそこで警察官に食いつかれた。
「在宅だってどうしてわかったんです」
と、きたので、あわわとなった。身に覚えがないのだけど、疑われるのは嫌なものだ。
必死になってわたしは記憶をバックさせた。そうだ、確かにあの晩、(上の人、いるはずなのに今日はやけに行儀がいいな)と思ったんだよ。でも、わたしは何で彼が在宅だって分かっていたのかな。
……。
そうか。
「肉です」
わたしは叫んでしまった。
「肉を焼いていたからわかったんですよ。毎週金曜の晩に必ずあの人、肉を焼くんです。どんだけ食うんだと思うくらい、そりゃもう凄い勢いでにおってきて」
言いながら、あることを思い出しわたしは息を飲んだ。
ちょっとお巡りさん、いいですか、と口走り、二人組の警察官のうち、ひょろ長いほうのジャケットを掴んで部屋の外に出た。
そのままバタバタと外階段を上り、二階の吹きさらしの通路に出る。
うちの真上の203号室には、テープが貼られていて、警察関係の人でにぎわっていた。
「ここですよ、お巡りさんっ」
意気揚々とわたしは指さした。
レンガの壁の落書きである。
「Fri 夕 ブタ……」
警察はその変な書き込みを見て顔をしかめていた。
これがどうした、と言いたげである。そりゃそうだ。
二週間くらい前に、こういった変な落書きがアパートの住人の部屋に書き込まれていたことに気づいた。
それを伝えても、二人はまだ首を捻っている。
「ああもう、だからですね」
びし、とその落書きを指さしてわたしは言った。
「金曜日の夕方に豚肉を食ってるって暗号だと思うんですよコレ」
言ってしまってから、わたしは動きを止めた。激しい驚愕と、寒気のようなもののために、一瞬、言葉を失った。
なぜなら――。
「バツ印が付けられてますな」
鋭い目の太った警察が振り向いて言った。
その通り、壁の落書きには、大きくバツ印がつけられていたのである。
こんなものは、この間見つけた時にはなかった旨を主張すると、二人の警察官は顔を見合わせて頷きあった。
さあ、重要な手がかり(?)を提供したぞ。これでわたしも殺人事件の解決に一役買ったわけだ。
他の家の落書きも見て回った。
102号室、可愛らしいOLの部屋の、パンティーの印。
201号室の、ワキガのおっさんの、ワキガマーク。
そして、103号室、我が家の、うんこの印……。
「どれもバツ印は付けられてませんね」
と、警察は言った。
「鑑識に回せ」
と、太ったほうがひょろ長いのに命令し、部下らしいその人は、大急ぎで二階に走って行った。
太い警察は携帯を取り出すと電話をし始め、「奇妙な暗号が見つかった」とかなんとか言っている。
電話が終わると太いおっさんはわたしを見て、言った。
「くれぐれも気を付けてください。何かおかしいことがあればすぐに電話を。もちろん我々も、この建物をマークしますから大丈夫です」
スッと名刺を出してきた。
わたしが受け取ると、それでは失礼します、と言って去ってしまう。
うーん、殺人かぁ、とわたしは壁のうんこの絵を見ながら溜息をついた。
しかもうちの真上で。気味が悪いなあ。
友人に電話すると、喜々としてうちに来た。
「しばらく泊まってあげるから」
と、パンパンのスポーツバッグを持って上がり込んで来る。
食費とか払えよな、と念押しすると、OK、と返事だけは小気味よく帰ってきた。
「あのね、次に狙われるのは、あんただと思うのよ」
と、物騒なことを言うので、嫌な気持ちになったじゃないか。
「何でだよー」
と言うと、びしっとうちのトイレを指さして言った。
「凶器の行方が分からないっていうじゃない。わたしならトイレに流すわ。そして」
ギラギラした目でわたしを見上げながら、友人は畳みかけるように言った。
「あんたのうちのトイレは、いっつも、どっかのうんこが浮いてるじゃない。この建物の、どこの部屋の人が出したか分からないうんこが!……だから、トイレに流した凶器はきっと、あんたのトイレで発見されるわ」
ちょっと待てや落ち着け。トイレに流れるようなもんが凶器になるかい。
「それに気づいた犯人は、きっと凶器を発見したあんたを殺しに来るわ」
盛り上がっている友人は、完全にホームズ気取りだ。
「警察はバカね、こんなこともとっさに分からないなんて」
とか抜かしている。
「落ち着けやー」
しょうがないのでわたしはテレビを付けながら言った。
いつまでも、誰のもんか分からないうんこを浮かしているわけにはいかないじゃないか、だから業者に連絡して見てもらうことにしたんだよ、と友人に告げると、実に残念そうな顔をしやがった。
「大家さんが斡旋してくれたんだよ。明日には来ると思うけどなー」
興味津々な友人は二階の現場を見たいといって聞かない。
テープで立ち入り禁止状態だから、部屋の中には入れないけれど、側には行けるからな。
それで、私たちは二人して二階に見に行った。
わらわらと警察関係の人たちが出入りしていて、ものものしい。お邪魔するのも悪いくらいだ。
友人はつかつかと部屋のそばまで行くと、壁の落書きをにらみつけた。
そのまま、エスパーが透視するみたいに落書きを凝視している。
どうでもいいが寒いんだよ、はやく戻らんかー?
だらだらと立ち尽くしていると、部屋の中からこんな声が聞こえてきた。
「被害者が直前に調理して食べたものらしき肉のパックとラップが見つかりました」
「おう、それも鑑識に回しとけよ」
ほうほう、やっぱり肉食ってたんじゃないか、とわたしは何気なく耳を澄ました。
しかし次の瞬間、ん?と固まってしまった。
「国産牛肉だとさ、いいもん食ってるなー」
と、ぶつぶつ呟く声が聞こえてきたのだ。
はっと横を見ると、友人が恐ろしい顔をしていた。
牛肉、ですと。
「あんたっ、明日来る業者を断りなっ」
友人は部屋に戻るなりガミガミと言った。
「豚肉ばっかり喰ってる奴が、たまたま牛肉を喰ったもんだから殺されたのよ。だから、この部屋のトイレが直ってしまったら、あんた――」
「そんなバカな」
だとしたら、この部屋は永遠にうんこの部屋じゃないといけないということかい。
誰がそんなことを決める権限を持つのか。
「まあ、落ち着けや」
今日何度目になるかもう忘れてしまったそのセリフを、またしても口にしながらわたしは溜息をついた。
とりあえず今日は友人を泊めるとして、それじゃあ、こっちも気分が悪いし、明日業者が来た後、速やかに友人宅にお邪魔して、そっちに泊めてもらおうかな。
コンビニまで酒を買いに行き、二人でぶらぶら歩きながら戻ってくると、102号室の可愛いOLが帰宅するところだった。
「かわいいなー、やっぱ」
友人がぼけーとして言う。
すれ違うとき、OLがスマホに向かい、何かしゃべっているのが聞き取れた。
相手は彼氏らしく、今日泊まりにでもくるらしい。
ああ、それじゃあ今日はお隣からイヤンバカンな物音が聴こえてくるかもしれん。嫌だな。
「できたてホヤホヤの彼氏じゃないかな、今までそんなの来たことなかったもん」
わたしが言うと、なんで分かるんだよ、と突っ込まれた。
「分かるんだよ、だって壁が薄いしさ、物音がいちいち分かるんだってば」
言っている間に、隣からドタバタと派手な音が聞こえてきた。小走りに動き回る音、箪笥を開けるような音。
そして、ずうーん、という、掃除機の音まで響いてきたのには驚いた。
掃除機の音まで聞こえるのか、この安普請は。……というより、今まで隣から掃除機を動かす音なんか聞こえたことなかったぞ?
「汚部屋確定」
と、友人がチューハイを空けながら言った。
実に残念だ。
バタン、バタバタ、と、お隣が駆け足で外に出ていくのが聴こえた。そうっと台所の小窓を開けてのぞき見すると、息を切らして戻ってきたお隣さんは、また部屋に飛び込み、ゼイゼイ言いながらパンパンのゴミ袋を持って、飛び出してくる。
「すぐそこがゴミステーションなんだよ」
こそこそとわたしは言った。
でも明日はゴミの日じゃないぞ?
何往復もしてから、やっとお隣さんは部屋に戻り、落ち着いたようだ。
どれだけ貯めこんでいたのか。
その晩、乾きものを適当につまみながら酒盛りをしていると、お隣に彼氏さんらしい人がやってきた気配がした。
ピンポーン、とチャイムが鳴っている。
「来たな」
二人して目くばせし、素早くテレビの音量を上げた。
聞きたくないもんを聞かずに済ませるには、これが手っ取り早い。
ところが。
ピンポーン、ピンポンピンポン……。
「お迎えしてもらえないみたいだね」
「変だな、部屋にいるはずだよな」
友人と顔を見合わせていると、合鍵で開けたのか、それとも最初から開いていたのか、がちゃっというこもった音がして、隣に人が入ってゆく気配がした。
少し間をおいて、ものすごい悲鳴が闇夜をつんざいた。
「ぎゃあああああああー」
エンドレスで繰り返される悲鳴を聞きつけて、アパートの住人達――わたしと友人、そして201号室のワキガおじさんが、102号室の前まで来た。
どうしたんでしょう、とおじさんはわたしたちを見た。分かるわけがない。
その間、ずっと悲鳴は続いている。
ぎゃあぎゃああ、あああああ、あああ、殺されてる、殺されてる、誰かあああああ。
そう聞こえて、わたしたちは息を飲んだ。
おじさんは意を決したように、毛玉だらけのトレーナーの袖をつまんで伸ばし、手のひらを覆って、指紋がつかないようにしてドアノブを捻った。
簡単に扉は開いた。
「わあ、わああああ」
ものすごい顔をした若い男が飛び出してきて、おじさんに抱き着いた。べちょべちょに泣いている。
「死んでるんだよ、死んでるんだ、警察、警察を――」
あわあわと、わたしは部屋に飛んで戻って、携帯を引っ張り出した。そして昼間もらった名刺を見て電話をかける。すぐきます、と言って電話は切れた。
ゼイゼイと102号室に戻ってみると、友人たちは図々しく中に上がり込んでいるじゃないか。
「やめろやー、疑われるから、やめろー」
慌ててわたしも飛び込んだ。
台所から居間に続く引き戸は開け放してあり、テレビは8時からやっているドラマが流れていた。
花柄の薄ピンクのラグの上に、部屋着姿のお隣さんがあおむけになっている。
目を見開いて、茫然とした表情で、お亡くなりだ。
後頭部から血が流れているらしいので、頭を殴られでもしたのか。
「な、なあ、はやく行こう」
友人の背中をつつく。
青ざめた顔をして、友人はわたしを振り向き、ぽつりと言った。
「……パンツは、どこだ」
はぁ?
「パンツがないんだよっ、パンツがっ」
唾が飛んでくるじゃないか。
「はき捨てられたっ、汚れたっ、匂うようなっ、生パンツがっ」
「お、おい」
「ないんだよおおおおおおおおっ、パンツううううううううう」
とち狂ったらしい友人を引っ張って部屋に戻ってくると、大きく目を見開いて彼女は言った。
「おい、見てきたか、壁の印を」
はっとしてわたしは友人の顔を見返した。
わなわなと震えながら、友人は言ったのである。
「壁に描かれていたパンツの絵にな、☓がつけられていたぞ、オマエ……」
パンツが、ない。
汚部屋に乱舞していた(と思われる)はずの、若いOLのおパンティーが、あの部屋には見当たらなかった。
じゃあ何か?
散らかっていたパンツが綺麗に始末されたから、お隣さんは殺されたとでも言うのか。
「わからんよ、まだ――」
呟きながら友人は、キラキラと猫の目のように光る瞳をわたしに向けた。
あかん、完全に、名探偵きどりだ――。