第10話

文字数 5,414文字

七歳のわたしと十二歳のミイ姉ちゃんの夏は、この流星群を最後に唐突に終わる。流星群を見た翌朝、わたしはミイ姉ちゃんの姿を見るが、それが記憶の中で最後のミイ姉ちゃんの姿になった。
七歳だったわたしは当時、夏が終わってもミイ姉ちゃんとずっと一緒に遊べると根拠もなく思っていた。
日がだんだんと短くなり、蝉の鳴き声が聞こえなくなるまで、毎日ミイ姉ちゃんと一緒に、だらんとした空気のなつやすみの中を、疾走感をもって泳ぎ回る。
夏が過ぎ土の上に枯れ葉が幾重にも重なり合う季節になったら、わたしとミイ姉ちゃんは落ち葉拾いをして、どんぐり集め、焼き芋づくりをし、金木犀の花摘みをしただろう。
実際、夏のどこかで、秋になったら金木犀の花を集めて金木犀の蜜を作る約束をしていた。金色でとろっと甘くて、とってもいい匂いなんだよ、とミイ姉ちゃんは嬉しそうに教えてくれた。
これだけ具体的に話していたから、夏休みが終わって学校が始まっても、当然のようにミイ姉ちゃんと会う毎日が続くと思っていたのだ。ランドセルを家の中に放り投げて、ミイ姉ちゃんと一緒に団地の中を歩き回っているイメージができあがっていた。
ただ、ミイ姉ちゃんの最後の後ろ姿の記憶がはっきりとあるから、やっぱり、わたしはミイ姉ちゃんと流星群を見たあと、二度と話をしていないのだ。
流星群を見た翌朝、わたしは少し寝坊した。
当たり前だ。夜中抜け出して大興奮の経験をしていたのだから、体はいつも以上に疲れていて、もっと眠りを欲しがっていた。でも、寝ているわけにもいかない。
お母さんに叩き起こされ、一緒に朝ごはんを食べる。異様に眠くて、さっぱり頭が動かなかったけれど、いつもどおりにしければ確実に怪しまれてしまう。そう思ってわたしはいつもの朝食の量を必死で食べきった。それから、お父さんがまず会社に出ていき、いつもどおり、お母さんと弟が出ていった。
全員が家から出てしまうと、わたしはそっと窓を開けた。ベランダから空を見上げると、雲ひとつない青がそこにはあった。むわっとした熱い空気が、わたしの頬をゆるく撫でる。青空を眺めていると、昨夜見た星空と全く別物に見えた。
まるで星屑が縫い付けられていた真っ黒なビロードの布から、真っ青な大きな帆船に張り替えたみたい。
じいっと青空を見上げていると、ふいに、金切り声が聞こえ、頬をはたかれたような衝撃が走った。慌てて、声がした方へ目をやる。
真下にある共有通路で、誰かが言い争いをしているらしかった。目を凝らして、誰だか見ようとするが、よく見えない。下に落ちてしまう可能性もあるから、これ以上身を乗り出すわけにも行かない。
しばらく耳をそばだてていたが、話し声がかろうじて聞こえる程度で、なんと言ってるかまではわからない。いてもたってもいられなくなり、わたしは大急ぎでパジャマを脱ぎ、テロっとした薄手のワンピースに着替え、外へ飛び出した。
嫌な予感がしていた。
わからないけれど、さっきの金切り声は、ミイ姉ちゃんのような気がしたのだ。
エレベーターのボタンを押したけれど、いっこうにわたしのいる階までやってくる様子がない。焦れたわたしは、階段へ進む通路を走った。階段一個飛ばしにして、ハアハア言う自分の呼吸を他人事のように感じながら、飛ぶように階段を降りていった。
一番下まで着くと、急に息が苦しくなって、一度足を止めて、大きく深呼吸した。
「ふざけないで!」
大きく息を吸って、吐き切らないうちに、突然、ミイ姉ちゃんの叫び声が聞こえた。わたしの息が止まる。それから、ゆっくりと今度こそ最後まで息を吐き出した。
心臓が、走ったこととは違う理由で音を打ち始めた。
口の中がカラカラで、こんなに暑いのに指先だけ冷たい。
そろそろとした歩みで、声がした方へと近づいていく。
団地の郵便ポストが並ぶ廊下までくると、声がはっきりとなにをしゃべっているのか聞き取れるほど近くなった。団地の入り口や公園へとつながる遊歩道の方へ、そっと顔をのぞかせる。
そこには、いつものショートパンツに白いシャツをさらっと羽織ったミイ姉ちゃんの後ろ姿があった。ミイ姉ちゃんのすぐ後ろには、小さな体をきゅっと丸めているおばあさんがいた。
そして、ミイ姉ちゃんと対峙するように、一人の女の人が立っていた。
ミイ姉ちゃんと同じ、真っ黒な髪。だけど、ミイ姉ちゃんと違って、長さはかなり短い。大ぶりの翡翠のピアスがよく似合っていた。
ミイ姉ちゃんのお母さん……?
その女の人は、ミイ姉ちゃんとあまりに良く似た顔立ちをしていた。ミイ姉ちゃんは後ろ姿しか見えなかったが、その女の人の表情はよく見えた。イライラを押し隠した顔をして、ミイ姉ちゃんを睨みつけている。
「ふざけていない。お母さんは事実を言っているの」
「なんでそんな事実になるの。わたしがお願いしてたことと、何一つ合ってない!」
「仕方ないでしょ、わたしも仕事だからあの家から引っ越すのなんて無理だし、お父さんだって今単身赴任中でどうしたってこっちに帰ってこられない。お父さん一人であなたの世話も、無理よ」
「じゃあ、このままおばあちゃんとここにいる」
「だから、おばあちゃんは今月末にここを出ないとならないの。やっと施設の空きがでたのよ。あそこの施設なら、わたしたちのお家からも近いから、いつでも様子を見に行けるし……これを逃したら、またいつまでここの団地でおばあちゃんが一人で暮らすのか、わからないのよ? 心配じゃないの?」
「わたしは大丈夫なんだよ……?」
おばあさんが小さな声でつぶやくが、女の人が「お母さん、黙って。大丈夫のはずないんだから、わたしが心配だからだめよ」と強く言い返し、びしっとおばあさんの提案をはねつけた。
ミイ姉ちゃんは強い口調で、左右に顔をふった。
「いやだ。絶対に嫌だ。わたし、クラスには戻らない。小学校が変わらないなら、二学期は学校に行かない」
「お母さんだって、手を尽くしたのよ。家から通える隣の学区の小学校にも聞いてみたけど、人数がいっぱいで厳しいから、無理だったの。それに、あなたは何も間違ったことをしてないんだから、平気な顔して学校に行けばいいのよ。いろいろ言ってた子たちは、この間ごめんなさいってわざわざ家に挨拶にまで来てくれたじゃない。一体何が嫌なの」
「謝って済むことじゃないの!」
ミイ姉ちゃんが怒鳴った。
すると、女の人から発せられる空気が変わった。今までイライラをこらえて必死で説得をしていた声が、感情丸出しのものになる。
「いい加減にしなさい! わがまま言ったって、仕方ないでしょ! そう思わない?! いったいお母さんにどうしろっていうの?! 全部あなたの思い通りになんて、できないわよ!」
ミイ姉ちゃんの金切り声とは違うけれど、爆発した感情が込められた声で、女の人は叫ぶ。
「あなたはきこちゃんをかばった。それだけじゃない。何も悪いことをしていないんだから、堂々とした顔で学校に行けばいい。周りのお友達には誤解があったってことがもうわかって解決済み。たったそれだけのことだったのに学校を変える? そんなことバカなことできるわけがないじゃない! わたしだって仕事があるの、今だって本当は……!」
「さおり」
おばあさんが、さっきとは打って違う凛とした声で女の人に呼びかけた。
女の人の表情がはっとした顔になった。
おばあさんの声は、しっけた暑い空気を冷やす風鈴の音色のように、ぴんとした強い音で、その場に響き渡る。
女の人は黙る。
ミイ姉ちゃんも黙っている。
おばあさんの声で、蝉の声も、どこか遠くから聞こえていた子どもの声も、ぷつりとなりを潜めた。
「さおり、また時間があるときに来なさいな。今はお仕事があるんだろう? あとはわたしが見ておくから」
「……ごめんなさい、わかった」
女の人がため息を吐き出しながら、小さくつぶやいた。それから、踵を返し、まっすぐ団地の出入り口の方へ歩いていってしまった。
ミイ姉ちゃんとおばあさんが取り残されると、今が夏休みだということを思い出したかのように、セミが鳴きわめき始めた。重たくだるい空気もむわむわとあたりいったいを覆っていく。
ちょうどプール開始の時刻になったようで、遠くでばしゃばしゃという水音と子どもたちの歓声が聞こえ始めた。
「……おばあちゃん」
抑揚のない声で、ミイ姉ちゃんが、じっと前を向きながらぽつりとつぶやいた。
「うん、なんだい?」
「きこちゃんってね」
「うん」
「きこちゃんはね、ちょっと肌の色が黒くてね、体がふっくらしててね、ピアノが上手で、ウサギが大好きな優しい子なんだよ」
「そうなんだねえ」
「うん。きこちゃんはね、ピアノをがんばっていたから、体育もいつも見学なの。全然、ズル休みなんかじゃなかったの。だけど、クラス中の女の子が、きこちゃんはズル休みするからずるい子だって、言い始めてさ。太ってるんだから運動くらいしたほうがいい、とかさ。きこちゃんはね、言い返さなかったの。毎日毎日、何百回も言われてたけど、一回も言い返してなかった。そのうちね、汚いとか黒くてキモいとか、きこちゃんが言われるようになって。そのうちきこちゃんの体操着がなくなって、筆箱もなくなって、椅子もなくなって……と思ったら、体操着がゴミ箱から見つかったり。……わたし知ってたんだよ」
「何をだい?」
「あのね、黒川さん。黒川花っていう女の子がね、ずっときこちゃんにいやがらせしてたの」
「そうなのかい」
「うん……わたし、絶対におかしいと思って。おかしいと思ったらもう我慢できなくなって。だから、黒川さんが、きこちゃんにいじめをしてるって言ったんだ。先生も、きこちゃんも、他のみんなもいる前で、大きな声で」
「そうなのかい。ミイちゃんは勇敢だねえ」
「……そんなことないよ。だって、わたしいま、全員もう二度と会いたくないから。きこちゃんも、先生も、黒川さんも、消えちゃえばいいと思ってる」
「そりゃまた、どうして」
「……わたしがさ、黒川さんがきこちゃんのものを隠してるって言ったら、黒川さんは笑ってた。先生も黒川さんはそんなことしないよってニコニコしてた。次の日、わたしが学校に行ったら、わたしの机の上がゴミだらけだった。そしてね、黒川さんときこちゃんが一緒に楽しそうに、クスクス笑ってた。黒川さんにつっつかれて、きこちゃんが先生に、ミイナちゃんが机にゴミをぶちまけちゃったって説明したら、先生も、そうか気をつけろよ、ってニコニコしてた」
 ミイ姉ちゃんの声が一度途切れた。それから、背中が大きく上下したのが見えた。
後ろ姿しか見えないから、今ミイ姉ちゃんがいったいどんな顔をしているのか、ここからじゃわからない。
ただ、あ、と思った。
ミイ姉ちゃんが、少しずつ、白くなっていく。
お砂糖のように、お塩のように、ミイ姉ちゃんは少しずつ色が消えて、白くなっていく。
「きこちゃん、すごく嬉しそうに笑ってたんだよ。黒川さんと遠くからこそこそ話して、わたしを指してずっと笑ってるの」
おばあさんが、うんうん、とうなずいて、ミイ姉ちゃんの手をそっと握った。
「お母さんは解決したっていうけど、それってきこちゃんが笑うようになったっていうだけなんだよ。お家にも確かに謝りに来た。陰で笑ってたけどね。それでね学校で黒川さんときこちゃんは、ごめんねって言いながら手紙をくれたの。手紙の中身はキモいとかブスとかばっかりだった。見るのも嫌ですぐ捨てちゃった」
「お母さんには、言ったのかい?」
「言ってない。それからすぐ、別になにも起きなくなったから。今でも大人がいないときにクスクス笑われたり、なにか言われたりしてるよ。相変わらず一日中誰からも話しかけられないけど、わたしが気にしなければ済む話だなって思って。でもさ、もう、学校に行くの、疲れちゃったんだ」
ミイ姉ちゃんが、おばあさんのほうを振り返った。
本当はもっと隠れるべきだったけれど、わたしの体は金縛りにあったかのように動かなかった。
ミイ姉ちゃんは泣いていなかった。
悲しそうな顔も、つらそうな顔も、悔しそうな顔もしていない。
ただ、色が抜けた白色をして、感情が抜けた顔をしながら、おばあさんのことをかしばみ色の瞳で見つめていた。
「わたし、これ以上頑張る必要って、あるのかな。お母さんはたったそれだけのことだって言ってたね。これって本当にたったそれだけのことなの? 大人はこれくらい、たいしたことないことなの? おばあちゃんも、たったそれだけのことだって思う?」
おばあさんは静かに首を横にふった。
「たったそれだけのことじゃない。どこをとっても、たったそれだけのことなんかじゃないね」
ミイ姉ちゃんは白くなったまま、ゆっくりと歩き始めた。
ここでようやっと、わたしの体の金縛りが解けた。慌てて、音を立てずにポストと壁の隙間に体を押し当てて、ミイ姉ちゃんの視界に入らないようにする。
ミイ姉ちゃんとおばあさんが行ってしまうと、ただ、真夏のじりじりとした暑い太陽と、光る青空と、だるくぬるいなつやすみの空気だけが、そこにあった。
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