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文字数 6,036文字
ちょうど信号が赤になり、歩みを止めるタイミングが来た。私は、上野から渡された小さなリュックサックの底をあさってアポロキャップを取り出した。
「この信号長いんだよー。みーやんが、もう少し速く走ってくれたら、渡れたのになー」
彼方が、残念そうに呟く。日射しが、強くなってきたので、熱中症が心配になった私は、彼方にアポロキャップをかぶせようとした。
「やーだよ。かっこわるいよ、こんなのさ。ママとの時も絶対かぶらないんだもん」
「え、この模様かわいいじゃないの」
「模様のことじゃないの。帽子かぶるってのがさ、嫌なの」
そんな考え方も、あるのか。それで、上野は、それを許しているらしい。
「ママ、かぶらないって言っても怒んないわけ?」
「怒らないよー。でも、本当―に暑くって危ない時はね、公園の水道で頭に水かけてもらうんだよ。気持ちいいんだー」
上野は、どこまで子供に寄り添えるのか。きっと他のことでも、何か代りの案を考えて対処しているのだろう。その手間や労力は、大変なもの。上野の決心に、今さらながら驚く。逆に言うと、そこまで覚悟しないと虐待の連鎖は断ち切れないということなのかもしれない。
先週の高木との帰り道。公園を出て子供達と別れた後に、言われた。私は本当に子供達と接するのが向いているから、もし転職を考えるような場面がやって来て、他に興味のある職種がなかったら、ぜひ高木の仕事を手伝ってほしい、と。ものすごく控え目な、誘いだった。聞けば、彼の構想は着実に進んでいて、役所への申請なども具体的な計画をもって動いているという。誰にとっても幸せなその施設が実現するのは、そんなに遠い未来のことではないらしい。
ここ数ヶ月、調子が狂っている。彼方を預かったことがきっかけとなり、子供になつかれる日々。子供なんか大嫌いで、絶対に出産しないと決めているのだ。
今、彼方だけでなく他の子にまで慕われて、まんざらでもない気はしているが、今日だってまた、頼まれるままに、無料で彼方を迎えて引き取りはしたが、それもいつまで続くかわからないし、全く自信がない。心の奥底に抱えているのは、こんなに腹の中が真っ黒な私を好きになってくれる誰かがいるわけがないではないか、という恐れ。
高木は、いかにも軽い調子で誘ってくるので、さすがに頭に来て、声を荒げて断った。
「今日は特別に来ただけって言ったでしょ。子供も嫌いって言いましたよね」
そして、とどめ。
「言ったことなかったけど、私、自分の子供時代があんまりひどくて思い出したくもないんですよー。だから、子供見てると、引き戻されるようで、嫌なんです」
ここまで言えば、高木だって無邪気に言葉を続けることは出来ないと思った。
言ってやった。これで引き下がらなかったら、もっと具体的にあの女のひどいエピソードを語ってやろう。
久々に、戦闘態勢に入ったのだった。
「そんなの、わかってましたよ、雅さん。僕は保育園で何百人もの子を見ているんだ。親が原因で辛い思いをしている子は、すぐにわかる。目の奥に悲しみをたたえているから」
すぐにわかるのか。私は、ドキッとして、目の奥を覗き込まれないように、あらぬ方向を見た。
しかし、思い出した。もう何度もあの鋭い目力をもった瞳で、見つめられていた。
「そうして、どんなに笑っていても、目の奥は・・・笑っていないから」
「・・・そんなもんですかね」
「雅さんは、その子達と同じ目をしていますよ。でも」
「でも?」
「その子達と雅さんが違うのは、雅さんの中には何か良いものがあるんです。だから、子供が異常になつくんだ」
「たまたまじゃないですか」
「違う」
怖かった。何を怒っているのだ、高木は。
「それは、雅さんにしかできないことで、たまたまなんかじゃないから」
高木は、私の素性を見破っていたらしいが、だからと言ってしつこく立ち入るわけでもなく、もちろん憐れむわけでもなく、単に普通に接していた。
「いいかい、雅さん。そうやって自分を否定すること。それだけは、やめてね。僕は、園でそういう子達
にも、同じこと言ってます。楽しいことは、他にたくさんたくさんあるからねって」
高木は、力を込めて、語り続けた。怒っていたのは、私が自分を卑下する発言をしたからだということが、わかった。
だけど。私は、実はこうも思っている。この世で誰も私を愛してくれないのなら、せめて自分だけは思い切り私を愛してあげよう、と。
この言葉だけが、私を死の渕に追いやらなかった唯一の救い。このように思えていなかったなら。多分私は、とっくのとうに、この世には、いない。過去のどこかの時点で、必ず最後の一線を越えてしまっていただろう。
確かに彼方に好かれ、高木や上野にも色々な言葉をかけてもらい、最近の私は、明るい気持ちの時が多い。
けれども、そんな事を信じてたまるものか。単なる気まぐれでかまっているのなら、放っておいてほしい。また・・・一人ぼっちの日々に戻るのは、余計にしんどい。今度こそ、立ち直れなくなってしまうかもしれない。
いつもの癖で、勝手に棘を生やした言葉が出てくる。
「高木さん、いかにも私のことを考えているような事言ってますけど、結局その新しい施設のスタッフの頭数揃えたいだけですよね」
高木は、全く動じず黙っていた。図星だったか。気分を害して、反論できないのか。
「そう思うのなら。そう思っていていいさ」
ようやく高木が発した言葉。予想外だった。
「どうしてそんなひどいことを。・・・・」
大体は、そのように顔をゆがめて言ってくるのに。
そして、それ以上何も言っては来なかった。私は、その時の高木の態度が不可解で、何度も思い出してしまうのだった。
今も、彼方の手をしっかりと握りながら、耳のあたりで、その言葉がリフレインしていた。
「みーやんの知ってる人?」
彼方が、私の右手を引っ張る。彼方の指さす方向には、夫婦者らしい二人連れが立っていた。そう思う根拠は、女が妊婦だったから。大きなお腹を抱えて、私を見ている。知らない人だ。見たこともない。
それなのに相手は、執拗に私を見つめている。
「雅でしょ」
呼び捨てされるような関係の知り合いなど、いたか。
「どうしたの」
恐怖におののいているような表情。彼方と私を見比べている。
「まさか、雅の子供のわけないよね」
真弓だ。声でわかった。そうか、妊娠して髪を短く切り、メイクも控え目にしたので、わからなかったのだ。頻繁に会っていた二年位前さえ、真弓の容姿なんて興味がなかったので、うる覚えなのだ。
私は何を言ったら良いかわからなかったので、まず、
「この方、ご主人?」
と隣の男を見て尋ねた。
「そう。準人っていうの」
真弓の顔のこわばりが、何を意味しているのかは、薄々わかっていた。私が以前のように、心ない言葉を散弾銃のようにばら撒いて、この場の雰囲気を台無しにしてしまうのではないか、と恐れているのだろう。本当は、たとえ私を見つけたとしても、知らぬ振りをして通り過ぎてしまいたかったのに、どうしても彼方のことを確認したいばかりに、声をかけたのだと思う。
でも、私はもう前みたいなことは、しない。公衆の面前、何より彼方が聞いてしまうではないか。そんなことは、できないのだ。彼方をそんなひどい目に遭わすことは、絶対したくない。
「もしかして、赤ちゃん生まれるの?」
彼方が無邪気に尋ねる。
「そうよ、来月。七月生まれになるのよ」
「わー、ボクと同じだ。一緒の誕生日になるといいねー」
彼方は真剣に、真弓の腹部に向かって話しかける。
「そう、おめでとう」
絶句の、真弓。その表情は、まるでミイラが生き返ってしまったかのような壮絶な驚き方。
「雅からおめでとうって、言われるなんて」
「おめでたいことでしょ、普通でしょ」
私は、さも当然と言うように言ってみる。二年前、この準人という人と結婚する、と突然言われて、取り残された気分になった私は、ありとあらゆる罵声を真弓に浴びせた。しかも真弓から直接でなく、彼女の紹介の美容院のスタイリストから世間話のように告げられた屈辱を晴らしたい一心だった。
あの時、本当は真弓は、何も知らせずに去って行くつもりだったのだろう。全てを隠して引越し、行方がわからないよう細工して。それが、ひょんなことから私に知れてしまい、相当にうろたえていたのを思い出す。
あの時は、申し訳ないことをした。人格否定のようなことまで、言ったかもしれない。
「で・・・この子は・・・」
真弓は、一番最初の質問に戻った。もうすぐ母になろうとしている真弓は、満ち足りているからかとても美しかった。ナチュラルメイクでも、充分耐えうる品のようなものが、かもし出されている。
身体が重いから、汗をかきやすいのかもしれない。全体的に上気した雰囲気も、エネルギーを感じた。
「上司の子供。上司が忙しい時は、預かってるの」
また、二の句がつげない真弓だった。わかる。私が子供を預かるなんて、ありえない。
何かの間違いだと思われても、しかたがない。
自分だって、どうしたらここまで変われるのか、よくわからないのだから。
金銭がからまなくなってからも、何度も預かっている。上野から頼まれることの方が多いが、時々、
「彼方くん、今日はお預かりしなくて大丈夫ですか」
と聞いてしまうこともあるくらいだ。
彼方といると、追体験しているような気分になる。私が子供の頃にできなかったありとあらゆることを、彼方を通して経験している感じだ。
たとえば日没後の公園遊び、買い食い、水たまりに足をつっこむこと。他色々。
ひっぱたかれるから、怒鳴られるからできなかったささいな冒険の数々を、彼方が屈託なくやってくれるお陰で、自分の過去も塗り替えられていく。おまけに。びしょびしょになってしまった靴を見ても、上野は怒ったりしない。
「あーあ、明日履いていく靴ないよー。ドライヤーで乾かしてみるけど、乾かなかったら濡れたまんまねー」
こんなこと言われたら。こんなふうに言ってくれたなら。子供は、愛されている実感を無意識に感じつつ、時が行けば思う存分やったいたずらに卒業証書を渡して、潔く大人になっていけるのだろう。
やりたくてもやれなかった恨みつらみは、暗い種。心の闇を栄養分として育まれ、大人になる頃に黒い花を咲かせてしまうのだ。
私みたいに。危険だ。
彼方は、このまますくすくと成長すればいい。変な奴が来たら、私が守るから。
「みーやんね、ボクの保育園ですごーい人気なの」
「あ、あ。雅って呼びにくいから、子供達皆みーやんて呼んでるのよ」
あわてて、説明。でも、真弓はまだ、
「おめでとう」
と言われたことへの衝撃から立ち直れていないらしく、反応が常に一テンポ遅くなっている。
「ああ、そうなのね」
気まずい雰囲気が、流れ出す。まもなく夕方になる。白い絵の具でスッと引いたような雲が、いくつも流れている。その白も、オレンジ色に染まる時刻が迫っていた。
このまま別れの挨拶をして歩き出せば、それで完結するような出会いであった。
私達は、それくらいの希薄なつきあい。もっとも私は誰とも濃い関係など築いたことは、一度もないけれど。
「私、保育士になろうかと思っているの。今の会社円満に辞められたら、専門学校に行き直して」
言っているそばから、あわてる私。一体いつのまに、そんな考えを。真弓への見栄?
何のために・・・。
口から出まかせにしては、上等。言葉は、喉を通って外気に触れたとたん、一人歩きをしてしまう。
生まれたての子牛よりも、早い自立。間違えた、と思っても喉の奥に再び戻すことはできない。だからこそ人は、そのせいで沢山のいさかいやトラブルを巻き起こしてきたのだ。とりわけ私は。
「へぇ、そうなの。前のことはもうよくわからないけど、今の雅とこの子を見ていたら、お似合いの仕事かもねって思うわ」
真弓は、冷静に分析するけれど、内心は相当に面食らっていると思う。隣で終始ニコニコと笑って話を聞いている準人という男も、どうしてここまで笑みを作る事ができるのかと思うくらいに、善意があふれている感じだ。
「雅、変わったね。でも、今の方が、ぜーったい良いよ。私も、嬉しい」
よけいなお世話。私は変わろうとしてそうなったのではなく、彼方の絶対的な信頼をスタート地点として、次々に良い雪だるまが転がり始め、今は玉二つでは足りなくて、欧米仕様の三つにまでなっている感じなのだ。
「じゃあね」
元気な赤ちゃんを生んでね、は心の中で呟きながら。
私も、もしかしたら真弓みたいに、子供を持つことができるかもしれない。心の奥で、そう考えていた。
「またね」
真弓も、片手を挙げ、別れの合図をする。連絡先を聞いたりしない。私達は、もう。この先袖触れ合うような関係には、ならないだろう。
だけど、どうしても連絡を取りたくなったら。真弓の子供の顔を見たくなったら。数年前に立ち上げた、高校の同窓会の事務局に連絡すれば良いだけの事。
私達は、まだ何者でもない十代の半ばに出会い、そうしてよろよろしながら、今も自分の人生を刻んでいる。それでもう、充分。
「みーやんさー、高木先生に言っちゃうよーさっきの話」
真弓と別れて歩き出した私の右手を強く握りながら、彼方がいたずらっぽくリズムをつけて、言い出した。
「何のこと?」
「保育士になるってこと」
彼方は、鋭い。話の流れをちゃんと理解している。
「そのことかー」
私は、少し笑って、次に、
「いいよー、別に言ってもー」
と続けた。
それが、いいのではないか。高木が褒めてくれた子供に好かれる才能を生かすことは、きっと私のためにも良い。
毎日一人トイレの個室で昼食を取り、陰口を叩かれながら今の会社にいる必要があるのか。たまに上野が気を使って声をかけてくれるのが、ただ一つの慰めであるような、そんないびつな毎日を繰り返しても、同じように時は流れ、いずれ死んでしまう。
死にそうで死にそうで、でもなんとか死なないで凌ぎ通した十代を乗り越えられたのだから、もう死なない。残りの人生は、もう少し笑顔を増やしたって、良い。
彼方みたいにケラケラ笑ったって、
「うるさい! 気持ち悪い!」
と機嫌悪く怒鳴るあの女は、私のそばにはいない。もう、二度と会わなければ、いいのだ。
「高木先生、すごーく喜ぶと思うよ」
彼方も、嬉しそう。
「そうだといいけどね」
彼方に調子を合わせる。でも、私も確かにそう思うのだ。
絶対に。
「この信号長いんだよー。みーやんが、もう少し速く走ってくれたら、渡れたのになー」
彼方が、残念そうに呟く。日射しが、強くなってきたので、熱中症が心配になった私は、彼方にアポロキャップをかぶせようとした。
「やーだよ。かっこわるいよ、こんなのさ。ママとの時も絶対かぶらないんだもん」
「え、この模様かわいいじゃないの」
「模様のことじゃないの。帽子かぶるってのがさ、嫌なの」
そんな考え方も、あるのか。それで、上野は、それを許しているらしい。
「ママ、かぶらないって言っても怒んないわけ?」
「怒らないよー。でも、本当―に暑くって危ない時はね、公園の水道で頭に水かけてもらうんだよ。気持ちいいんだー」
上野は、どこまで子供に寄り添えるのか。きっと他のことでも、何か代りの案を考えて対処しているのだろう。その手間や労力は、大変なもの。上野の決心に、今さらながら驚く。逆に言うと、そこまで覚悟しないと虐待の連鎖は断ち切れないということなのかもしれない。
先週の高木との帰り道。公園を出て子供達と別れた後に、言われた。私は本当に子供達と接するのが向いているから、もし転職を考えるような場面がやって来て、他に興味のある職種がなかったら、ぜひ高木の仕事を手伝ってほしい、と。ものすごく控え目な、誘いだった。聞けば、彼の構想は着実に進んでいて、役所への申請なども具体的な計画をもって動いているという。誰にとっても幸せなその施設が実現するのは、そんなに遠い未来のことではないらしい。
ここ数ヶ月、調子が狂っている。彼方を預かったことがきっかけとなり、子供になつかれる日々。子供なんか大嫌いで、絶対に出産しないと決めているのだ。
今、彼方だけでなく他の子にまで慕われて、まんざらでもない気はしているが、今日だってまた、頼まれるままに、無料で彼方を迎えて引き取りはしたが、それもいつまで続くかわからないし、全く自信がない。心の奥底に抱えているのは、こんなに腹の中が真っ黒な私を好きになってくれる誰かがいるわけがないではないか、という恐れ。
高木は、いかにも軽い調子で誘ってくるので、さすがに頭に来て、声を荒げて断った。
「今日は特別に来ただけって言ったでしょ。子供も嫌いって言いましたよね」
そして、とどめ。
「言ったことなかったけど、私、自分の子供時代があんまりひどくて思い出したくもないんですよー。だから、子供見てると、引き戻されるようで、嫌なんです」
ここまで言えば、高木だって無邪気に言葉を続けることは出来ないと思った。
言ってやった。これで引き下がらなかったら、もっと具体的にあの女のひどいエピソードを語ってやろう。
久々に、戦闘態勢に入ったのだった。
「そんなの、わかってましたよ、雅さん。僕は保育園で何百人もの子を見ているんだ。親が原因で辛い思いをしている子は、すぐにわかる。目の奥に悲しみをたたえているから」
すぐにわかるのか。私は、ドキッとして、目の奥を覗き込まれないように、あらぬ方向を見た。
しかし、思い出した。もう何度もあの鋭い目力をもった瞳で、見つめられていた。
「そうして、どんなに笑っていても、目の奥は・・・笑っていないから」
「・・・そんなもんですかね」
「雅さんは、その子達と同じ目をしていますよ。でも」
「でも?」
「その子達と雅さんが違うのは、雅さんの中には何か良いものがあるんです。だから、子供が異常になつくんだ」
「たまたまじゃないですか」
「違う」
怖かった。何を怒っているのだ、高木は。
「それは、雅さんにしかできないことで、たまたまなんかじゃないから」
高木は、私の素性を見破っていたらしいが、だからと言ってしつこく立ち入るわけでもなく、もちろん憐れむわけでもなく、単に普通に接していた。
「いいかい、雅さん。そうやって自分を否定すること。それだけは、やめてね。僕は、園でそういう子達
にも、同じこと言ってます。楽しいことは、他にたくさんたくさんあるからねって」
高木は、力を込めて、語り続けた。怒っていたのは、私が自分を卑下する発言をしたからだということが、わかった。
だけど。私は、実はこうも思っている。この世で誰も私を愛してくれないのなら、せめて自分だけは思い切り私を愛してあげよう、と。
この言葉だけが、私を死の渕に追いやらなかった唯一の救い。このように思えていなかったなら。多分私は、とっくのとうに、この世には、いない。過去のどこかの時点で、必ず最後の一線を越えてしまっていただろう。
確かに彼方に好かれ、高木や上野にも色々な言葉をかけてもらい、最近の私は、明るい気持ちの時が多い。
けれども、そんな事を信じてたまるものか。単なる気まぐれでかまっているのなら、放っておいてほしい。また・・・一人ぼっちの日々に戻るのは、余計にしんどい。今度こそ、立ち直れなくなってしまうかもしれない。
いつもの癖で、勝手に棘を生やした言葉が出てくる。
「高木さん、いかにも私のことを考えているような事言ってますけど、結局その新しい施設のスタッフの頭数揃えたいだけですよね」
高木は、全く動じず黙っていた。図星だったか。気分を害して、反論できないのか。
「そう思うのなら。そう思っていていいさ」
ようやく高木が発した言葉。予想外だった。
「どうしてそんなひどいことを。・・・・」
大体は、そのように顔をゆがめて言ってくるのに。
そして、それ以上何も言っては来なかった。私は、その時の高木の態度が不可解で、何度も思い出してしまうのだった。
今も、彼方の手をしっかりと握りながら、耳のあたりで、その言葉がリフレインしていた。
「みーやんの知ってる人?」
彼方が、私の右手を引っ張る。彼方の指さす方向には、夫婦者らしい二人連れが立っていた。そう思う根拠は、女が妊婦だったから。大きなお腹を抱えて、私を見ている。知らない人だ。見たこともない。
それなのに相手は、執拗に私を見つめている。
「雅でしょ」
呼び捨てされるような関係の知り合いなど、いたか。
「どうしたの」
恐怖におののいているような表情。彼方と私を見比べている。
「まさか、雅の子供のわけないよね」
真弓だ。声でわかった。そうか、妊娠して髪を短く切り、メイクも控え目にしたので、わからなかったのだ。頻繁に会っていた二年位前さえ、真弓の容姿なんて興味がなかったので、うる覚えなのだ。
私は何を言ったら良いかわからなかったので、まず、
「この方、ご主人?」
と隣の男を見て尋ねた。
「そう。準人っていうの」
真弓の顔のこわばりが、何を意味しているのかは、薄々わかっていた。私が以前のように、心ない言葉を散弾銃のようにばら撒いて、この場の雰囲気を台無しにしてしまうのではないか、と恐れているのだろう。本当は、たとえ私を見つけたとしても、知らぬ振りをして通り過ぎてしまいたかったのに、どうしても彼方のことを確認したいばかりに、声をかけたのだと思う。
でも、私はもう前みたいなことは、しない。公衆の面前、何より彼方が聞いてしまうではないか。そんなことは、できないのだ。彼方をそんなひどい目に遭わすことは、絶対したくない。
「もしかして、赤ちゃん生まれるの?」
彼方が無邪気に尋ねる。
「そうよ、来月。七月生まれになるのよ」
「わー、ボクと同じだ。一緒の誕生日になるといいねー」
彼方は真剣に、真弓の腹部に向かって話しかける。
「そう、おめでとう」
絶句の、真弓。その表情は、まるでミイラが生き返ってしまったかのような壮絶な驚き方。
「雅からおめでとうって、言われるなんて」
「おめでたいことでしょ、普通でしょ」
私は、さも当然と言うように言ってみる。二年前、この準人という人と結婚する、と突然言われて、取り残された気分になった私は、ありとあらゆる罵声を真弓に浴びせた。しかも真弓から直接でなく、彼女の紹介の美容院のスタイリストから世間話のように告げられた屈辱を晴らしたい一心だった。
あの時、本当は真弓は、何も知らせずに去って行くつもりだったのだろう。全てを隠して引越し、行方がわからないよう細工して。それが、ひょんなことから私に知れてしまい、相当にうろたえていたのを思い出す。
あの時は、申し訳ないことをした。人格否定のようなことまで、言ったかもしれない。
「で・・・この子は・・・」
真弓は、一番最初の質問に戻った。もうすぐ母になろうとしている真弓は、満ち足りているからかとても美しかった。ナチュラルメイクでも、充分耐えうる品のようなものが、かもし出されている。
身体が重いから、汗をかきやすいのかもしれない。全体的に上気した雰囲気も、エネルギーを感じた。
「上司の子供。上司が忙しい時は、預かってるの」
また、二の句がつげない真弓だった。わかる。私が子供を預かるなんて、ありえない。
何かの間違いだと思われても、しかたがない。
自分だって、どうしたらここまで変われるのか、よくわからないのだから。
金銭がからまなくなってからも、何度も預かっている。上野から頼まれることの方が多いが、時々、
「彼方くん、今日はお預かりしなくて大丈夫ですか」
と聞いてしまうこともあるくらいだ。
彼方といると、追体験しているような気分になる。私が子供の頃にできなかったありとあらゆることを、彼方を通して経験している感じだ。
たとえば日没後の公園遊び、買い食い、水たまりに足をつっこむこと。他色々。
ひっぱたかれるから、怒鳴られるからできなかったささいな冒険の数々を、彼方が屈託なくやってくれるお陰で、自分の過去も塗り替えられていく。おまけに。びしょびしょになってしまった靴を見ても、上野は怒ったりしない。
「あーあ、明日履いていく靴ないよー。ドライヤーで乾かしてみるけど、乾かなかったら濡れたまんまねー」
こんなこと言われたら。こんなふうに言ってくれたなら。子供は、愛されている実感を無意識に感じつつ、時が行けば思う存分やったいたずらに卒業証書を渡して、潔く大人になっていけるのだろう。
やりたくてもやれなかった恨みつらみは、暗い種。心の闇を栄養分として育まれ、大人になる頃に黒い花を咲かせてしまうのだ。
私みたいに。危険だ。
彼方は、このまますくすくと成長すればいい。変な奴が来たら、私が守るから。
「みーやんね、ボクの保育園ですごーい人気なの」
「あ、あ。雅って呼びにくいから、子供達皆みーやんて呼んでるのよ」
あわてて、説明。でも、真弓はまだ、
「おめでとう」
と言われたことへの衝撃から立ち直れていないらしく、反応が常に一テンポ遅くなっている。
「ああ、そうなのね」
気まずい雰囲気が、流れ出す。まもなく夕方になる。白い絵の具でスッと引いたような雲が、いくつも流れている。その白も、オレンジ色に染まる時刻が迫っていた。
このまま別れの挨拶をして歩き出せば、それで完結するような出会いであった。
私達は、それくらいの希薄なつきあい。もっとも私は誰とも濃い関係など築いたことは、一度もないけれど。
「私、保育士になろうかと思っているの。今の会社円満に辞められたら、専門学校に行き直して」
言っているそばから、あわてる私。一体いつのまに、そんな考えを。真弓への見栄?
何のために・・・。
口から出まかせにしては、上等。言葉は、喉を通って外気に触れたとたん、一人歩きをしてしまう。
生まれたての子牛よりも、早い自立。間違えた、と思っても喉の奥に再び戻すことはできない。だからこそ人は、そのせいで沢山のいさかいやトラブルを巻き起こしてきたのだ。とりわけ私は。
「へぇ、そうなの。前のことはもうよくわからないけど、今の雅とこの子を見ていたら、お似合いの仕事かもねって思うわ」
真弓は、冷静に分析するけれど、内心は相当に面食らっていると思う。隣で終始ニコニコと笑って話を聞いている準人という男も、どうしてここまで笑みを作る事ができるのかと思うくらいに、善意があふれている感じだ。
「雅、変わったね。でも、今の方が、ぜーったい良いよ。私も、嬉しい」
よけいなお世話。私は変わろうとしてそうなったのではなく、彼方の絶対的な信頼をスタート地点として、次々に良い雪だるまが転がり始め、今は玉二つでは足りなくて、欧米仕様の三つにまでなっている感じなのだ。
「じゃあね」
元気な赤ちゃんを生んでね、は心の中で呟きながら。
私も、もしかしたら真弓みたいに、子供を持つことができるかもしれない。心の奥で、そう考えていた。
「またね」
真弓も、片手を挙げ、別れの合図をする。連絡先を聞いたりしない。私達は、もう。この先袖触れ合うような関係には、ならないだろう。
だけど、どうしても連絡を取りたくなったら。真弓の子供の顔を見たくなったら。数年前に立ち上げた、高校の同窓会の事務局に連絡すれば良いだけの事。
私達は、まだ何者でもない十代の半ばに出会い、そうしてよろよろしながら、今も自分の人生を刻んでいる。それでもう、充分。
「みーやんさー、高木先生に言っちゃうよーさっきの話」
真弓と別れて歩き出した私の右手を強く握りながら、彼方がいたずらっぽくリズムをつけて、言い出した。
「何のこと?」
「保育士になるってこと」
彼方は、鋭い。話の流れをちゃんと理解している。
「そのことかー」
私は、少し笑って、次に、
「いいよー、別に言ってもー」
と続けた。
それが、いいのではないか。高木が褒めてくれた子供に好かれる才能を生かすことは、きっと私のためにも良い。
毎日一人トイレの個室で昼食を取り、陰口を叩かれながら今の会社にいる必要があるのか。たまに上野が気を使って声をかけてくれるのが、ただ一つの慰めであるような、そんないびつな毎日を繰り返しても、同じように時は流れ、いずれ死んでしまう。
死にそうで死にそうで、でもなんとか死なないで凌ぎ通した十代を乗り越えられたのだから、もう死なない。残りの人生は、もう少し笑顔を増やしたって、良い。
彼方みたいにケラケラ笑ったって、
「うるさい! 気持ち悪い!」
と機嫌悪く怒鳴るあの女は、私のそばにはいない。もう、二度と会わなければ、いいのだ。
「高木先生、すごーく喜ぶと思うよ」
彼方も、嬉しそう。
「そうだといいけどね」
彼方に調子を合わせる。でも、私も確かにそう思うのだ。
絶対に。