1 ラスティック・エイジ

文字数 22,330文字

SF、あるいはエンゲルスの夢
Saven Satow
Jun. 23, 2005

“Boy meets girl.
Boy loses girl.
Boy builds girl”.
Jeff Renner
“Time ended. Yesterday”.
Roger Deeley
“Cosmic Report Card --- Earth --- F”
Forrest J Ackerman

1 Living In The Science Fiction Age
 1938年10月30日、ハロウィン前日の日曜日の午後8時すぎ、全米120万人の人々がパニックに陥る。混乱した状況の中、あるものは逃げ惑い、またあるものは電話で安否を尋ねている。ラジオが、天気予報やニューヨークのホテルのボール・ルームから中継されるラテン音楽の合間に、火星人襲来の臨時ニュースを伝えているからだ。

 「只今、CBSネットワークに速報が入りました。8時20分前、イリノイ州シカゴ、マウント・ジェニングス天文台のファーレル教授は火星で白熱光を伴う定期的なガス爆発を観測。分析の結果、ガスは水素ガスであることが判明。光は現在、非常な速度で地球に向かっております。この件については続報が入り次第、ご報告致します(Ladies and gentlemen, we interrupt our program of dance music to bring you a special bulletin from the Intercontinental Radio News. At twenty minutes before eight, central time, Professor Farrell of the Mount Jennings Observatory, Chicago, Illinois, reports observing several explosions of incandescent gas, occurring at regular intervals on the planet Mars. The spectroscope indicates the gas to be hydrogen and moving towards the earth with enormous velocity.)」。

 「再び臨時ニュースをお伝えします。只今、ニュージャージー州トレントンよりの発表によりますと本日午後8時50分に、隕石と思われる巨大な炎に包まれた物体が、トレントンから22マイルのグローバーズ・ミル付近の農場に落下した模様です。空の閃光は数百マイル先でも見え、轟音ははるか北のエリザバスでも聞こえました。CBSネットワークは事件の重大さを認識し、現場からの状況を中継でお伝えすることになりました。コメンテーターのカルー・フィリップと中継車が現場に到着する間、ブルックリンのホテル・マルティネットからボビー・ミレット・オーケストラの音楽をお送り致します(Now, nearer home, comes a special bulletin from Trenton, New Jersey. It is reported that at 8:50 P. M. a huge, flaming object, believed to be a meteorite, fell on a farm in the neighborhood of Grovers Mill, New Jersey, twenty-two miles from Trenton. The flash in the sky was visible within a radius of several hundred miles and the noise of the impact was heard as far north as Elizabeth. We have dispatched a special mobile unit to the scene, and will have our commentator, Carl Phillips, give you a word picture of the scene as soon as he can reach there from Princeton. In the meantime, we take you to the Hotel Martinet in Brooklyn, where Bobby Millette and his orchestra are offering a program of dance music.)」。

 グローバーズ・ミルのウィルソン農場からの中継が入り、レポーターは現場からの報告を始める。その後、砲弾から火星人が出現し、警官を焼き殺す無残な光景が伝えられる。

 これは、23歳のラジオ・ディレクター、オーソン・ウェルズ(Orson Welles) が製作したH・G・ウェルズ(Herbert George Wells)原作の『宇宙戦争(The War of the Worlds)』のラジオ・ドラマである。CBS系のラジオ局は、毎週、この時間帯に『マーキュリー劇場ラジオ・ドラマ(Mercury Theatre On The Air)』を放送していたが、前年から担当し始めた若き天才俳優はライバル番組に遠く及ばない聴取率を上げるため、『宇宙戦争』をニューヨークで進行する出来事のニュース速報の形式のラジオ・ドラマに仕立て上げる。「CBSネットワークが、今宵皆さまにお送りするのは、オーソン・ウェルズとマーキュリー劇場によるラジオ・ドラマ、H・G・ウェルズの『宇宙戦争』です(The Columbia Broadcasting System and its affiliated stations present Orson Welles and the Mercury Theatre on the Air in "The War of the Worlds" by H. G. Wells.)」というナレーションとドラマの導入部もつけている。

 ところが、「世界の終わりか?」と問い合わせが殺到したため、世間の異変に気がついた局が何度も「これはドラマです」と注意を促したものの、結局、翌日の午後までパニックは続いている。むしろ、人気がなかったからこそ、この番組はパニックを引き起こしたとも言える。聴取率90%でトップのNBC系の番組『ザ・チェイス・アンド・サンボーン・アワー(The Chase and Sanborn Hour)』がコメディから音楽に変わったので、リスナーは他のコメディを探しに、ダイヤルを回し、ザッピングを始めたときがたまたまグローバーズ・ミルのシーンにあたっている。

 おまけに、フランク・リディック(Frank Readick)がレポーターのカール・フィリップス(Carl Phillips)を演じ、1937年5月6日に起きたヒンデンブルク号(Hindenburg)の事故に対するシカゴのWLSのハーブ・モリソン(Herbert Morrison)による歴史的実況を真似て、それを中継し、生々しい記憶を蘇らせる。この番組の脚本はhttp://members.aol.com/jeff1070/script.htmlで読むことができる。今日、アメリカでは、ニュース形式のラジオ・ドラマに厳しい規制が設けられている。

I heard you on the wireless back in Fifty Two
Lying awake intent at tuning in on you.
If I was young it didn't stop you coming through.
Oh-a oh
They took the credit for your second symphony.
Rewritten by machine on new technology,
and now I understand the supernova scene.
Oh-a oh
I met your children
Oh-a oh
What did you tell them?

Video killed the radio star.
Video killed the radio star.
Pictures came and broke your heart.
Oh-a-a-a oh

And now we meet in an abandoned studio.
We hear the playback and it seems so long ago.
And you remember the jingles used to go.
Oh-a oh
You were the first one.
Oh-a oh
You were the last one.

Video killed the radio star.
Video killed the radio star.
In my mind and in my car,
we can't rewind we've gone too far
Oh-a-aho oh,
Oh-a-aho oh
Video killed the radio star.
Video killed the radio star.
In my mind and in my car,
We can't rewind we've gone too far.
Pictures came and broke your heart,
Put the blame on VCR.

You are a radio star.
You are a radio star.
Video killed the radio star.
Video killed the radio star.
(Buggles “Video Killed The Radio Star”)

 この出来事はマスメディアの危険性への警鐘と偉大な映画人をめぐるエピソードだけでなく、当時の社会に、「火星人来襲!」というSFを現実として理解しかねない雰囲気があったことを示している。SFも時代・社会の変化に敏感に反応する。現在や過去もあるけれども、多くの場合未来を舞台にするが、その著述は同時代の動向に左右される。「自然科学の分野でさえ画期的な発見がなされる度ごとに、唯物論はその形態を変えなければならない」(フリードリヒ・エンゲルス『フォイエルバッハ論』)。

 当時、19世紀後半から、レーニンも賞賛したパーシバル・ローウェル(Percival Lowell)の火星人による「運河」を頂点にした天文学への関心が高まり、すでに多くのSF作家が宇宙について描き、さらにそれが映画化され、また初期のロケット開発が新聞で報道されている。もはや火星は人々にとって空想にとどまる場所ではない。事件の翌年、テキサスで、H・G・ウェルズと対談をした際、オーソン・ウェルズは自分たちがH・G・ウェルズの描いた未来を生きていると告げている。

 もし問題が、歴史のうちで行為している人間の動機の背後に―意識されてか意識されていないでか、しかもたいていは意識されないで―あって、歴史の真の究極の推進力となっている原動力を探求することであるとすれば、肝要なのは、どんな卓越した人間であろうとも個々の人間のもつ動機よりも、むしろ、大衆を、諸民族の全体を動かしている動機である。それも、一瞬パッと輝いてたちまち消えてしまうわら火のような行動へと駆り立てる動機ではなくて、大きな歴史的変化をもたらす持続的な行動を起させる動機である。
 ここで、行動している大衆とその指導者たち―いわゆる偉人たち―との頭脳の中に、意識された動機として、明瞭にか不明瞭にか、直接にかイデオロギーの形で天上に祭り上げられた形をさえとってか、反映されている推進的原因を探求すること、―これが、全体としての歴史をも個々の時代と個々の国の歴史をも支配している諸法則をつきとめることができる唯一の道である。
 人間を動かすものは、すべて人間の頭脳を通過しなければならない。しかし、それが人間の頭脳の中でどのようなかたちを取るかは、大いにそのときの事情次第である。
(エンゲルス『フォイエルバッハ論』)

 その上、30年代の人々はピリピリしている。1929年10月24日、ニューヨーク株式市場で、ゼネラル・モーターズ社の株価が80セント下落したのをきっかけに株価が全面暴落を始める。この「暗黒の月曜日(Black Monday)」から、アメリカ合衆国にとどまらず、世界は未曾有の恐慌に陥ってしまう。1930年代、SFはそういった苦境を忘れさせてくれる娯楽として、映画やマンガ、ラジオを通じて人々に受容されている。

 SFは、悲観的なヴィジョンに基づいているのであれ、楽観的であれ、シミュレーションとしてinvisibleな世界をvisibleにし、文学の中で最も視覚的である。初期の頃から、SFの本には挿絵が欠かせず、『二十世紀の戦争(La Guerre au Vingtième Siècle)』(1887)で知られるアルベール・ロビダ(Albert Robida)に至っては、自分でイラストを描いている。彼は、そこで、1945年に世界大戦が勃発し、戦車や飛行機、潜水艦といった兵器が開発され、テレビ電話が使われていると予言している。このジャンルは文学に限らず、視覚的なメディアと良好な関係を結んでいる。

 中でも、映画界において、SFはB級映画の代名詞として低予算ながら、集客を見こめるコンテンツである。とは言っても、産業革命の本格化に連れ、神の死の下、科学が新たな宗教として見られ、SFがその福音書だった時代は去り、この頃には、黙示録になり、いささかアンチ・ユートピア的な傾向を強めている。

 1933年、フランクリン・D・ルーズベルトが合衆国大統領に就任し、ニュー・ディール政策など数々の経済政策を打ち出すものの、落ちこんだ経済状態から脱却できない。労働者は、不満を爆発させ、ストライキによって抗議し、「赤い10年」が引き続いている。海の向こうのヨーロッパでも、経済状況は改善されず、左翼運動が激化し、同時に、全体主義体制が勃興する。昨日までの常識が突然覆り、ちょっとしたことでパニックが起きる臨界状態の雰囲気に人々は置かれている。

 SF映画は、最初から安っぽい娯楽だったわけではない。むしろ、映画誕生当初から中心的なジャンルとして映画の発展を支えている。フランスの奇術師で映画製作者となったマリー・ジョルジュ・ジャン・メリエス(Maries-Georges-Jean Méliès)はジュール・ヴェルヌの原作に基づいて『月世界旅行(Le Voyage dans la lune)』(1902)を製作しているし、アメリカでも、トーマス・エジソンの設立した映画製作会社が『火星旅行’(A Trip to Mars)』(1910)を発表している。さらに、ドイツの表現主義者たちは映画史に残る名作を生み出している。ロベルト・ウィーネ(Robert Wiene)の『カリガリ博士(Das Kabinett des Dr. Caligari)』(1919)とフリッツ・ラング(Fritz Lang)の超大作『メトロポリス(Metropolis)』(1927)はその代表であろう。ラング監督は『月世界の女(Die Frau im Mond)』(1929)ではロケット打ち上げの際のカウント・ダウンを採用し、これは現在に至るまで宇宙ロケット発射の欠かせない儀式になっている。

 1930年代、不況のため、大作映画の製作が困難になり、低予算映画を前座にした二本立てで映画会社は見劣りをカバーしようとしたが、そのB級映画はたいてい活劇かSFである。アメリカでは、『フランケンシュタイン(Frankenstein)』(1931)や『透明人間(The Invisible Man)』(1933)、イギリスにおいては、興行的には失敗したものの、H・G・ウェルズが自作を自ら脚色した『来るべき世界(Things to Come)』(1936)が製作されている。このイギリス映画は荒唐無稽な法螺話と当時の観客の物笑いの種になっている。ただ、マンガ『フラッシュ・ゴードン(Flash Gordon)』が「クリフハンガー(Cliffhanger)」と呼ばれる週末ごとに公開される連続映画として、例外的に、予算をかけて製作されている。

Flash - Ah - Saviour of the universe
Flash - Ah - He'll save ev'ry one of us
Seemingly there is no reason for these
Extraordinary intergalactical upsets (ha ha ha)
What's happening Flash?
Only Dr Hans Zarkov formerly at N A S A
Has provided any explanation
Flash - Ah - He's a miracle
This mornings unprecedented solar eclipse
Is no cause for alarm
Flash - Ah - King of the impossible
He's for ev'ry one of us
Stand for ev'ry one of us
He'll save with a mighty hand
Ev'ry man ev'ry woman ev'ry child
With a mighty Flash
General Kaka Flash Gordon approaching
What do you mean Flash Gordon approaching?
Open fire all weapons
Dispatch war rocket Ajax to bring back his body

Flash - Ah
Gordon's alive
Flash - Ah - He'll save ev'ry one of us
Just a man with a man's courage
He knows nothing but a man
But he can never fail
No one but the pure in heart
May find the golden grail oh oh oh oh
Flash Flash I love you
But we only have fourteen hours to save the Earth

Flash
(Queen “Flash”)

 こうしたSFを生み出したのはエドガー・アラン・ポー(Edgar Alan Poe)──特に、『ハンス・プファールの比類なき冒険(The Unparalleled Adventures of One Hans Pfall)』(1835)──であり、確立させたのはジュール・ヴェルヌ(Jules Verne)とH・G・ウェルズである。

 何度も映画やアニメ、テレビ番組化されるメアリー・シェリー(Mary Wollstonecraft Godwin Shelley)の『フランケンシュタイン(Frankenstein: or The Modern Prometheus)』(1818)は、ポーに先立つSF作品だとも言える。彼女はフェミニズムの先駆者であるメアリー・ウォルストンクラフトと無神論者でアナーキストのウィリアム・ゴドウィンの間に生まれ、詩人のパーシー・シェリーと結婚している。史上初めて、マッド・サイエンティストによる実験をとり入れ、これはSFのお約束のシーンお一つである。けれども、共時性とスキャンダル性、描写力の点で、『フランケンシュタイン』が先駆的であるとしても、ポーの小説をSFの起源と見なすべきだろう。

 1835年9月、『ニューヨーク・サン(New York Sun)』紙がイギリスの天文学者ジョン・ハーシェル(John Herschel)が月に生物が住んでいて、文明があることを発見したとでっちあげの記事を掲載し、発行部数を伸ばしたという事件が起きている。その際、この一件はポーが『ハンス・プファールの比類なき冒険』の話題づくりに仕掛けたのだとライバル紙が報道し、作家自身が否定する談話を発表する羽目になる。ポーは方法を意識して、創作する。この方法の文学はオブジェクト指向であり、彼は、結果、SFだけでなく、ミステリーやホラーなどさまざまなジャンルを創出している。

 その上、死体を蘇らせるというアイデアを伝えるメアリー・シェリーの文章力では、当時の人々にとっても、信憑性に欠ける。ポーの魅惑的な文体があってこそ、未知の世界は説得力を持つ。ヴェルヌはポーの作品に影響され、彼の小説の続編を書くなどしてその技法を研究している。SFの系譜は、以上の理由から、かのアメリカの不運な天才作家から始まると考えるべきであろう。

 もっとも、ポーにしろ、ヴェルヌにしろ、ウェルズにしろ、SFというジャンルを書いている意識はない。ウェルズが自作を「サイエンティフィック・ロマンス(Scientific Romance)」と呼んでいたけれども、SFという概念が生まれ、定義されるのはローリング・トゥエンティーズの頃だからである。

 編集者・発行者・発明家・作家のヒューゴー・ガーンズバック(Hugo Gernsback)は、1929年、破産のため、26年に創刊した『アメージング・ストーリーズ(Amazing Storied)』誌を乗っとられてしまう。起死回生を狙って、彼は新雑誌の企画を試みるものの、表紙につけていた「サイエンティフィクション(Scientifiction)」も使えなくなってしまったので、『サイエンス・ワンダー・ストーリーズ(Science Wander Stories)』誌や『エアー・ワンダー・ストーリーズ(Air Wander Stories)』誌に掲載するジャンルを「サイエンス・フィクション(Science Fiction)」と命名する。

 SFは、『アメージング・ストーリーズ』での彼の定義によれば、「ジュール・ヴェルヌ、H・G・ウェルズ、エドガー・アラン・ポーなどのタイプ、つまり、科学的事実と予言的洞察が渾然一体となった魅力的な物語のことを言う」。このルクセンブルク移民は、科学を啓蒙するには、フィクションが最適と考え、その目的の下、かつてなかったSFの専門誌を発行している。科学知識の啓蒙に未来予測、文明批評、読者を魅了するストーリーと登場人物を備えた小説は伝統的・支配的な文学とは異なるのであり、新たなジャンルとして規定されなければならない。

 科学の価値は、科学そのものによってしか証明されない。いかに、科学は人間にとって必要であるか、未来は科学によって支えられるか、等々を説いたところで、それはオセッキョーにしかならない。人間は、みずから科学を獲得し、みずから理解を高めていく中でしか、その価値を理解することはできない。
(森毅『学校とテスト』)

 まだラジオ放送が始まっていない1911年、ラジオの送受信機をセット販売していたガーンズバックは、売り上げ促進の目的で、『モダン・エレクトロニクス(Modern Electronics)』誌を創刊し、同誌に自作の長編小説『ラルフ124C41+(Ralph 124C41+)』を連載し、それを「サイエンティフィクション」と呼び始める。その後、『アメージング・ストーリーズ』でもその名称を使い続けたものの、一般には浸透していない。

 アメリカでは、『アメージング・ストーリーズ』以降、SFは主に雑誌を通じて普及していくが、これは極めて20世紀的現象である。19世紀の研究者や作家が本を通じて論文・作品を公表したのに対し、20世紀は雑誌が主流の媒体になる。1890年代に誕生した挿絵が挿入された雑誌は少なからずSFを掲載したし、1900年前後に続々と発行された「パルプ・マガジン(Pulp Magazine)」の中にも、科学を小道具にした恋愛小説や冒険活劇が多くある。とは言うものの、SFの専門誌は『アメージング・ストーリーズ』が初めての試みであり、これはタイムリーな決断である。そのスタイルで発行しても、教育水準が上がり、SFの愛読者が相当数定着し、経営上問題がなくなるまでには、大衆文化が盛況を迎える1920年代の半ばを待たなければならない。

 当時のSF作家たちは作品の文学性や登場人物の性格描写などより、アクションとロマンス、ファンタジーの要素をとりこみ、新しく魅惑的な科学的小道具を考案することに執念を燃やしている。未知の惑星や宇宙人、宇宙船、新兵器によって、読者は「センス・オブ・ワンダー(Sense of Wonder)」を覚え、SFの人気はとどまるところを知らない。それは「スペース・オペラ(Space Opera)」と呼ばれ、正義感に溢れ、男ぶりがよく、並みはずれたヒーローが、宇宙を冒険しつつ、宇宙人や怪物を相手に活劇を繰り広げ、美しいヒロインとロマンスに落ちるという作品である。ただ、やる気は認められるものの、ときとして、強すぎる思いから常識を欠き、突っ走ってしまうのが玉に瑕である。これは小説に限らない。『バック・ロジャース(Buck Rodgers)』や『フラッシュ・ゴードン(Flash Gordon)』といったマンガもSF人気に一役かっている。この延長線上に、『スター・トレック(Star Trek)』や『スター・ウォーズ(Star Wars)』がある。

 火星人パニックの前年の1937年、MIT出身で、「ドン・A・スチュアート(Don A. Stuart)」というペンネームのSF作家ジョン・W・キャンベル(John Wood Campbell, Jr.)が『アスタウンディング・サイエンス・フィクション(Astounding Science Fiction)』誌の第3代編集長に就任すると、荒唐無稽なスペース・オペラを排除し、より正確な科学知識と文学性に裏付けされた作品の掲載を編集方針に打ち出す。時代はもう狂乱の20年代ではない。重苦しく、出口のなかなか見えない30年代である。SFは大衆の文学であるとしても、読者の好みに応えるだけでなく、A級文学に十分に成長し得る。

 その姿勢の確かさは、1944年、クリーヴ・カートミル(Cleave Cartmill)の『デッドライン(Deadline)』を掲載したことで証明される。FBIは、突然、国家機密漏洩の嫌疑で編集部を家宅捜索している。極秘裏に進められたマンハッタン計画とあまりに類似していたため疑われたのだが、「科学雑誌の記事を詳しく読めば、これくらいの情報は集められる」と反論し、認められている。ちなみに、原爆開発者の一人レオ・シラード(Leo Szilard)は、史上初めてその言葉が使われたウェルズの『解放された世界(The World Set Free)』(1914)の「原子爆弾(Atomic Bomb)」の記述を参考にしたと告げている。

 けれども、同じ頃、『スーパーマン(Superman)』(1938)や『バットマン(Batman)』(1939)、『ワンダー・ウーマン(Wonder Woman)』(1941)、『キャプテン・アメリカ(Captain America)』(1941)などヒーロー物のSFマンガがコミック本から登場している。マンガ家の多くが労働者階級の出身、教育歴も高くないため、低賃金で長時間労働を強いられるにもかかわらず、不況の中、働けているだけでも幸せ者と感じていたからである。彼らの考案したヒーローは自分の願望を具現化している。それぞれに人には明かせない過去を持ち、不正と悪徳に苦しめられている人々に代わって、正義のために、危険を顧みず、悪と戦う使命感に満ちている。安くて、カラフル、わかりやすいコミックは子供の間に、その科学的妥当性はともかく、SFを浸透させる役割を果たしていく。10台の少年を主な読者層にしていることは、SF雑誌の表紙は内容とはまったく関係がないスケスケの宇宙服の女性という点でも明らかであろう。

 海のもの山のものとも思えないものが出現すると、大部分は消えてしまうものの、中には、一部のマニアの間でカルトな人気を獲得する。次第に、草の根が育ち、受容者層が拡大し、産業として確立し始め、類型的で、創造性を欠く作品が安易に生み出される反面、高い芸術性を目指して、意欲的な先鋭的作品が登場する。しかし、この芸術的な作品が主流になり、入門的な作品が排除されてしまうと、受容者層が痩せてしまい、草の根は枯れてしまう。先進的な作品と同時に、わかりやすく、楽しめる作品も欠かせない。

 今やSFは現代文化の重要な一部である。純文学系の作家もSFの方法論を大胆に導入しているだけでなく、「ニュー・ウェーブ(New Wave)」や「サイバー・パンク(Cyber Punk)」に由来するオルタネイティヴな「変流文学(Slipstream)」は現代文学の中心的地位を占めている。また、日本文化を代表するAnimangaの多くはSFである。他にも、ゴジラを忘れてはならないだろう。

 SFは、現在、アメリカを中心に、巨大な産業に成長している。映画やテレビ、マンガのみならず、SFは最も人気のあるゲーム・ソフトであり、SFに登場するガゼットが後に商品化されることも少なくない。さらに、科学者自身SFを実現化しようとしている。SFをたんなる子供だましと一蹴することなどもはやできない。社会的地位を認められると、しばしば、生真面目になり、冒険を恐れるようになるが、そういった心配はSFには無用だろう。

 古代哲学は原始的な、自然生的な唯物論であった。そういうものとしてこの哲学は、思考の物質に対する関係をはっきりさせることができなかった。ところで、この点を明らかにする必要が、肉体から分離できる霊魂についての学説を生み、ついでこの霊魂の不滅の主張を、最後に一神信仰を生みだした。こうして、古い唯物論は観念論によって否定された。しかし、さらに哲学が発展していくにつれて、観念論もまた維持できなくなって、近代唯物論によって否定された。否定の否定であるこの近代唯物論は、たんに古い唯物論の復活ではなく、古い唯物論の永続的な基礎の上に、なお二〇〇〇年に渡る哲学および自然科学の発展と、さらに二〇〇〇年間の歴史そのものとの思想内容をつけくわえたものである。それはもはや哲学ではまったくなく、たんなる世界観であり、そして、この世界観は、なにか特別の科学中の科学においてではなく、現実の諸科学において、みずからを確証し、実証しなければならないのである。こうして、哲学はここでは「止揚」されている。すなわち、「克服されたと同時に保存され」ている。その形式からいえば克服され、その現実の内容から言えば保存されている。
(フリードリヒ・エンゲルス『反デューリング論』))

 SF的なテーマは、それ以前の文学作品の中にすでに見られる。いわゆる四大文明のみならず、各地の神話や口承文学にも、読みようによっては、そうした要素が認められる。紀元前8世紀頃に記されたとされる古代バビロニアの『ギルガメシュ叙事詩』は至高の知と不死の探究を扱っており、『エゼキエル書』は外界よりの物体を描いているとも言える。また、ギリシア神話において、ダイダロスと息子のイカロスが鳥のように空を飛ぶことに挑戦している。この親子を踏まえて、18世紀、フランスのレチフ・ド・ラ・ブルトンヌ(Rétif de la Bretonne)が『南半球の発見(La Découverte australe ou les Antipodes)』(1781)で人工の翼を使って南半球を探検する主人公を登場させる。

 前4世紀、プラトンは『国家』の中で理想の政治体制を説き、『ティマティオス』と『クリティアス』では謎の大陸アトランティスに言及している。後にこのジャンルは、トマス・モアの『ユートピア(Utopia)』(1516)によって、実社会を諷刺する「ユートピア文学」と呼ばれることになる。古代ローマ時代、後170頃、ルキアノスの『本当の話』(には月旅行の話が登場し、平安時代前期の作品とか推測されている日本の『竹取物語』は月世界人を描いている。大乗仏教の経典『維摩経』には、超能力戦争とも言うべき記述が見られるし、中東欧のユダヤ人の間では人造人間ゴーレムの伝説が語られている。

 17世紀には、フランスの詩人・作家シラノ・ド・ベルジュラック(Savinien Cyrano de Bergerac)、ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler)、18世紀になると、偉大なヨーロッパ人ヴォルテール(Voltaire)、イギリスの哲学者・小説家ウィリアム・ゴドウィン(William Godwin)らが月世界や異星人をとりあげている。1750年頃、初期の産業革命が始まり、SFを生み出す社会的・歴史的背景が用意されていく。

 産業革命期の機械は伝統的な機械とは異なっていることを柄谷行人は、『階級について』において、デカルトとマルクスの認識の違いから次のように言及している。

 『資本論』において、マルクスは機械について独特の考察をしている。それによれば、機械は三つの本質的に異なる部分から成り立っている。原動力(モーター)装置、それを変換して伝達する装置、狭義の機械すなわち道具。蒸気機関が原動力となるとき、それは生産を、人間の身体力、あるいは個人的差異から解放し、水力や風力に必要な地理的自然条件の差異からも開放する。マニファクチュア期にはかえって地方に拡散していた工場は都市に集中し、“風景”を一変する。蒸気機関によって、はじめて実質的に資本制生産が可能となり、それが貨幣経済をとおしてすべての生産を包摂するのである。
 マルクスの「機械」論において、興味深いのは、一般に機械といわれているものはその一部分にすぎないこと、また労働者は機械のたんに一部を操作しうるだけの「主体」にすぎないということである。この「機械」論は、デカルトにおける延長=道具(機械)とそれを操作する意識主体(コギト)という考えを否定する。意識はもはやデカルト的な主体ではありえない。意識は「心」の一部にすぎず、そして無意識は言語的な象徴機構をとおして意識に達する、といったフロイトのメタサイコロジーにもあてはまる。フロイトの思考を機械論的とよぶのはあやまりであって、逆にデカルト的な思考が機械論的なのである。

 SFは神話的要素を多く含むとしても、あくまで近代の産物である。前述の作品群にはマルクスの機械論が即するような近代的な意味での「科学」が欠けており、厳密にはSFと呼べない。「本当のところ、すべてのサイエンス・フィクションの歴史家の誤りは、科学、さらには応用科学の存在しないかぎり、サイエンス・フィクション(《科学的未来予測》と名づけられていようとも)が存在しえないことを無視していることにある」(ジャン・ガッテニョ『SF小説』)。

 科学はinvisibleな蒸気や電気によってvisibleな社会の変化をもたらしている。未来というinvisibleなものを顕在化させるには科学はふさわしい。産業革命によって成長した資本主義は神の死をもたらし、人々を身分から解放する。人々は身分に囚われず、売買を行い、職業に従事できる。「未来」が、そのため、空白として出現してくる。

 封建時代、農民の子は農民であり、貴族の子弟は貴族になる。彼らにとって未来は過去と現在の繰り返しにすぎない。変化は、父や祖父の世代と比べて、微妙である。しかし、資本主義社会では未来は宿命ではない。いくら財産があるのか数えられないくらいの金持ちになれるかもしれないし、逆さに吊るしたって涙も出てこない貧乏人に落ちぶれてしまうかもしれない。未来には希望と不安がある。それに科学が答え始める。

 19世紀は、宗教的なものを含めて、未来の予想が流行しているが、科学は、宗教と違い、未来の多重性・可能性を強調する。未来の社会はこうであるかもしれないし、ああであるかもしれないとSFは人々に訴える。SFが描く未来は宗教のような共同体の規範ではない。楽観的であれ、悲観的であれ、読者の属している社会に対する希望もしくは警告の諷刺であり、科学技術に対するアンビバレントな感情が反映している。

 SFの「科学」は、実際には、科学技術、すなわち科学に裏打ちされた技術のことである。科学と技術は異なる。科学における真理は人間に裁量権がない。重力が嫌いだとしてないことにはできない。一方、技術は、それを使うか否かの判断異が人間にある。発電に水力を利用するか、火力にするか、原子力にするか、風力にするかは人間が選択することだ。

 この科学と技術は、歴史的に、独立して発展している。前者は知識人、後者は職人が推進している。両者が融合するのが近代の化学である。産業革命期、漂白や染色の技術革新に科学の知見が応用される。科学に基づく技術の「科学技術」がここから始まる。科学技術は次いで電気へ広がり、さらに多くの分野に拡張していく。SFは科学技術に依拠した文学である。だから、科学技術成立以前の前近代の空想的な文学をSFと呼べない。

 なお、現代のイノベーションはその過程において科学と技術のいずれが優位かによって大きく二つに分かれる。科学優位は「リニアル・モデル(Lineal Model)」と呼ばれる。科学の発展が技術開発につながるもので、薬品の開発後好例である。一方、技術優位は「チェーンリンクト・モデル(Chain-linked Model)」と呼ばれる。顧客ニーズの特定から進むもので、最新の科学的知見に限らず、既成のものの組み合わせの場合さえある。多くがこれに属し、アップル社がよく使うと知られている。

 近代の科学は「科学者(Scientist)」と共に誕生する。アルキメデスやガリレオ・ガリレイ、アイザック・ニュートンは画期的な科学的発見をしていても、彼らは「科学者」ではない。「知を愛する人」である。そもそも、1840年頃まで、”scientist”という英単語は存在しない。中世において、七つの自由学科を学ぶ自由人にとって、神学・医学・法学が学問の主流だったし、ルネサンスでは、万能人が理想とされている。

 村上陽一郎の『新しい科学史の見方』によると、19世紀の英国を代表する生物学者トマス・ハクスリー(Thomas Henry Huxley)は「科学者(Scientist)」という単語を初めて耳にしたとき、英語をろくに知らないアメリカ人による造語に違いないと毒ついている。「科学 (Science)」はラテン語で「知識」を意味するscientiaに由来し、19世紀以前は広く知識全般または学問を指して使われている。ハクスリーのような教養と学識に溢れる知識人からすれば、「科学する人」なら、-istという接尾語ではなく、-ianが適切であり、scientianとすべきではないのかというわけだ。前者の接尾辞は、pianistのように、比較的狭い領域に用いられ、後者は、musicianの通り、それよりも広い範囲を指す。ところが、産業革命の技術発展に貢献した多くはアカデミズムに属さないアマチュアであって、極めて狭い専門領域に通じているだけである。神の死によって科学は変容している。専門化・細分化が科学において始まっている。「科学者」は、こうした変化を踏まえたイギリスの哲学者兼科学史家ウィリアム・ヒューエル(William Whewell)による造語である。定着してからも、なお、ハクスリーは、終生、「科学者」と呼ばれることを拒み続けている。

 しかも、1840年代は、19世紀の欧米において、転機の時期にあたる。1848年、ヨーロッパ各地で革命が勃発し、反動的なウィーン体制が瓦解する。一方、新大陸でもゴールド・ラッシュが始まり、移民が急増し、アメリカのピューリタン的道徳観の絶対性が崩れていく。これを境に、国民国家体制=産業資本主義が西洋に広がっていく。もう後戻りはできない。

There's a kid in a band
Got an axe in his hand
He's been learning all the chords
and he's writing all the words
Today you bought a new face
Tried it on for size
Now you see the world through
Different coloured eyes

They're not playing
They're not playing
They're just having
Adventures in modern recording
Adventures in modern recording
Adventures in modern recording

So carefully directed
For modern mass appeal
Look just like a poster
Got yourself a deal
Let's begin promotion
This boy has got it made
Media exposure
It will make him all the rage

But he's not playing
He's not playing
He's just having
Adventures in modern recording
Adventures in modern recording
Adventures in modern recording
(Buggles “Adventures In Modern Recording”)

 ジュール・ヴェルヌ(Jules Verne)は、変わりゆく社会に、SFを書き始め、ほぼこのジャンルに終始する。友人のナダール(Nadar: Gaspard-Félix Tournachon)が気球をつくったことに触発されて、1863年、『五週間の風船旅行(Cinq semaines en ballon)』を刊行し、話題になり、科学に基づく新しい作風の流行作家になり、膨大な作品を著わしていく。『地底旅行(Voyage au centre de la Terre)』(1864)は地下世界での冒険、『月世界旅行(De la Terre à la Lune)』(1865)は宇宙旅行、『海底二万里(Vingt mille lieues sous les mers)』(1870)は潜水艦による海底探検を描いている。これらは後のSFの定番である。

 生前、発表された作品の多くは確かな科学的知識に基づいた冒険小説であり、多くの作品は未来に対して楽観的であったが、これは、アレキサンドル・デュマから紹介された編集者ピエール=ジュール・エッツェル(Pierre-Jules Hetzel)の意向であって、実際には、『二十世紀のパリ(Paris au XXe siècle)』のような悲観的な作品も残している。この1863年に執筆された作品は彼の孫ジャン・ヴェルヌによって発見され、1994年に出版されたが、驚くほど、20世紀後半のパリに近い描写が見られる。エッツェルの死後、彼の作品は陰鬱な雰囲気を帯びるようになっている。

 その後、現代のSFのフォーマットの作成者を最初に産業革命が進行し、『種の起源』が発表されたイギリスが生み出したとしても、不思議ではない。H・G・ウェルズである。この丁稚奉公の経験者は、1894年から説得力に富む描写とアイロニーに溢れ、暗さを帯びたSFの執筆を始める。ダーウィン主義者のトマス・ハクスリーの指導を受けた彼は生物学と唯物論に関心を寄せ、科学的発明自体の正確な記述よりも、その発明が社会にいかなる影響を与えるかを描いている。彼が挑戦したのはあるヴぇき世界の法や制度を描いたプラトンである。

 1895年の『タイム・マシン(The Time Machine)』は彼の名声を一挙に高め、『モロー博士の島(The Island of Dr. Moreau)』(1896)、『透明人間(The Invisible Man))』(1897)、『宇宙戦争(The War of the Worlds)』(1898)、『月世界最初の人間(The First Men In the Moon)』(1901)など数多くの作品を発表したが、『現代のユートピア(The Modern Utopia)』(1905)や『解放された世界(The World Set Free)』(1914)といったサイバー・パンクの先駆的な作品を執筆した後、第一次世界大戦にショックを受け、創作活動の中心を文明批評や社会小説へとシフトしている。

 ナント出身の小説家が科学的知識に忠実であろうとしていたのに対し、ケント生まれの作家は科学的裏づけ以上に物語性を優先している。ヴェルヌは近未来を舞台にし、彼の描いた科学的予想は、何らかの形で、実現している。SFオタクと変人の集大成アポロ計画とヴェルヌの月世界旅行のデータは極めて酷似している。

 ヴェルヌは打ち上げ地をフロリダ州タンパに設定しているが、アポロ11号はそこから220km.離れたケープカナデラルから月に向かっている。彼はアメリカ人のバイタリティがそれを可能にすると考えていたけれども、その根拠は重要ではない。巨大な大砲によってロケットを打ち出すという前提も同様である。ヴェルヌの想定したロケットの初速は毎秒17,000kmであるのに対し、3段目ロケットの初速の秒速は18,000kmであり、月までの所有時間はいずれも4日である。弾道を計算するコンピューターENIACが開発されるのは1946年のことである。宇宙船の形状は双方とも円筒円錐形で、高さはヴェルヌの3.6mに対して、アポロでは3.2m、直径に至っては、19世紀の作品が2.92mと設定し、ケネディの夢は3.91mを採用している。

 ヴェルヌは潜水艦を描いても、タイム・マシンを扱わない。数多くの科学者や技術者が彼の小説に触発されてその道に進んでいる。その反面、ウェルズは哲学や倫理を再考させる。ダーウィニズムに従うならば、未来の人間はどうなっているのだろうかと彼は問いかける。両者は、現代に至るまで、二つの原型であり、その弁証法によってSFの歴史が構成されている。彼らはSF自身の未来について具現化したとも言える。SFは、結局、この二人の巨匠の焼き直しである。

 SFは文明批評をつねに含み、もしもの世界を描く以上、ウェルズの『透明人間』がプラトンのギュゲスの指輪を踏まえているように、哲学的・倫理的諸問題への懐疑をさしはさむ。それは科学技術の発展が逆説的に導き出してしまうものである。

 アイザック・アシモフ(Issac Asimov)は、『アイ、ロボット(I, Robot)』の中で、「ロボット工学三原則(Three Laws of Robotics)」を次のように規定している。

1.A robot may not injure a human being, or, through inaction, allow a human being to come to harm.
2.A robot must obey the orders given it by human beings except where such orders would conflict with the First Law.
3.A robot must protect its own existence as long as such protection does not conflict with the First or Second Law.

第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、危険を看過することによって人間に危害を及ぼしてはならない。
第二条 ロボットは人間から与えられる命令に服従しなければならない。ただし、与えられた命令が第一条に反する場合はこの限りではない。
第三条 ロボットは前掲の第一条および第二条に反するおそれのない限り、自己を守らなければならない。

 このロボットは、神の前の人間の姿とも、資本主義体制下のプロレタリアートとも、公民権運動以前の黒人とも、男性中心主義での女性とも、解釈することができる。SFは寓意をはらんだ近代の諷刺である。

 ただし、この三原則には、原文を読む限り、現代法において当然の公共の福祉の観点が抜け落ちている。日本語ではわかりにくいが、英語ではこの「人間」が不定冠詞のついた”a human being”となっている。科学技術において実用的であるか否かはその制御性にある。この法がロボットの権利保障ではなく、人間の幸福のためのテクノロジーの制御を目的にしている。しかし、人類全体ではなくて個別の人間に対する行動が優先されるとすれば、直接的な関係のない人たちをロボットは無視してよいことになる。公共の福祉を二の次にして振る舞うロボットが登場しては、人間の幸福も脅かされてしまい、法律の趣旨にも反する。アシモフも、それに気づき、後に複数形の”human beings”に修正している。

 SFは、言うまでもなく、文学であって、最終的に、作品の出来を左右するのは科学に関する知識ではなく、設定や筋、構成、文体といった文学の領域であり、ヴェルヌも、ウェルズ同様、その能力が秀でていたことは間違いない。サイエンスがフィクションにリアリティを与え、フィクションがサイエンスに想像力を吹きこむ。この弁証法によってSFは歴史の形成に寄与している。

 SFは、そのジャンルの確立につれ、「国民文学」である「近代小説(Modern Novel)」に対し、ミステリーやファンタジーなどと共に、非主流の大衆文学と見なされるようになっている。近代小説が抑圧してきた諸ジャンルが現代文学として復活し、SFがその一つと認知されるには、国民に代わって、エスニックが再認識される20世紀後半を待たなければならない。ジャンルはエスニックに譬えられる。もっとも、近代文明に対する異議申し立てとして、多くの純文学者がSF.的要素を作品にとり入れている。ナサニエル・ホーソーンやマーク・トウェーン、ジョセフ・ラドヤード・キップリング、ヴァージニア・ウルフ、フランツ・カフカ、大江健三郎など挙げればきりがない。

 SFはロマンスに属し、いかに斬新な世界を提示していても、概して、その形式は古典的であるが、ポーが挑戦したように、方法を試すには適している。体系の世紀である19紀が終わり、方法の世紀である20世紀、オルタナティブを志向する「現代小説(Contemporary Novel)」、すなわちメロドラマが主流になると、SFやミステリー、ホラー、アドベンチャー、ミリタリーと共に、文学の重要なジャンルとして復権し、しかも、それぞれのジャンルは融合する。われわれはかくしてSFの時代に生きている。

Every day my metal friend
Shakes my bed at 6am
Then the shiny serving clones
Run in with my telephones

Talking fast I make a deal
Buy the fake and sell what's real
What's this pain here in my chest?
Maybe I should take a rest

They send the heart police to put you under,
Cardiac arrest
and as they drag you the door
They tell you that you've failed the test

Living in the ...
Living in the plastic age
Looking only half my age
Hello doctor lift my face

I wish my skin could stand the pace
In the bed I read my mind
Remember how the mice were blind
I watch them fighting in their cage
Could this be the plastic age?

They send the heart police
to put you under cardiac arrest
and as they drag you the door
they tell you that you've failed the test

Living in the
Plastic age
Plastic age
Plastic age

They send the heart police to put you under Cardiac arrest
and as they drag you the door
They tell you that you've failed the test

Living in the plastic age
Plastic age
Plastic age
(Buggles “Living In The Plastic Age”)
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