ケース1 一条瑠璃仁×統合失調症(5/5)
文字数 6,753文字
一条瑠璃仁はどんな人だっただろう。
十九歳の男性、切りそろえた黒髪、眼鏡をかけていて、成人男性の平均身長で、頭がよくて、統合失調症に罹っていて、大学を休学していて、回復期に入っていて――
そして白夜は印刷して持ち歩いている紙カルテを遡って追っていく。効率主義の針間医師らしい簡潔さで、病歴がまとめられている。
2月20日
S(
O(
A(
P(
この時から数か月経過した現在のカルテは以下のようになっている。
S:「本を読んでいない時でも声は聞こえなくなった」「思考がまとまらなくなった」「集中できない、集中したい」「集中できず絶望的な気分」
O:表情は虚ろ。髪型、服装に変化は無し。
A:幻覚、妄想、言葉のサラダは消失。集中できない等の副作用が出始めている。
P:本人希望で限界まで減薬済。※これ以上は減薬しない。
これは白夜も看護のたびに毎日見ている情報だ。更新の都度印刷しているし、見落としはない。
では、「瑠璃仁さんってどんな人なんですか?」という質問には、どうして答えられなかったのだろう?
ハーバード大学? まさか。
白夜でも知っている、世界で一番難しいと言われる大学だ。
世界有数の本物の天才には及ばずとも、瑠璃仁はとても才能のある秀才だったのに、今度は病気が邪魔をし始めた。いつもできていたはずのことまで、できなくなってしまった。非凡で優秀な頭脳が、病気によってねじ曲がり、まともな思考にならなくなってしまった。症状が重いから、打ち消されてしまうけれど、彼は本来、世界を股にかけて飛び回っているような青年なのだ。その羽を統合失調症により捥がれた。飛べなくなった努力家の秀才は、それでも今でも空を見上げていて。
統合失調症に罹患して、ここまで回復できたのは、他ならぬ瑠璃仁自身が上を見据えて努力したからだ。秀才の努力家は、自分の病気に対しても、努力を惜しまなかった。経過良好は、だからこその成果だったのだ。それを、白夜はなんと言って励ましたんだったか。「日常生活は充分に送れます」だ……? そんなことで、瑠璃仁が満足できるわけがない。ここまで頑張っているのは、元のような学者になりたいからなのだ。いや、そして他の天才達とまた肩を並べ、切磋琢磨したいと願うからなのだ。それなのに白夜は、聞く耳も持たず、日常生活が送れればそれでいいだろうと勝手に決めて、そんなに頑張るなと一般論を押し付けて――。
たとえばプロのスポーツ選手が怪我をしたら、本来のリハビリとは別に、専属コーチが選手用の特別なリハビリを用意する。それは選手の人生にとっては重大なことであり、金や時間をかけてでも必要なことだ。一般的な人間が趣味や習い事でやっているスポーツなら、治るまでしばし休憩しようと思うだろう。それと同じことだ。もしも物理学者アインシュタインが統合失調症になったならどうする? もうあなた学者としておしまいです、あとは普通並に余命を全うしてください、で済むのだろうか? アインシュタインがたとえ病気にかかっても、できることはまだまだあるはずで、学者としての道を諦めるにはもったいない。でも、ちょっとした思い込みが研究を大きく曲げてしまうこともあるだろう。そうならないように、時に医療従事者の手を借りながら、しっかり持病を把握し、何が幻覚妄想で何が画期的な発見なのかを判断できるようにならなければいけない。
実際に、非常にたぐいまれな数学理論を発表しながらも、統合失調症による妄想や幻覚にその邪魔をされたジョン・ナッシュという数学者がいた。彼を描いたドキュメンタリー映画を白夜は見たことがあった。彼は薬物治療をしながら、「おかしい」関連付けだけを無視するといった「知識欲のダイエット」を行ってその後も研究者でい続け、晩年にノーベル賞も受賞している。
瑠璃仁にもそのことができるようにしてあげることこそプライベート看護を任されている白夜の使命なのではないだろうか。瑠璃仁が病気によって知識欲のタガが壊れてしまったなら、知識欲を抑制する薬を投与しながらも、本来向かうべき的確な知識の対象にだけその知識欲を向けさせる。そんなサポートを。
学業に力を注いできた瑠璃仁にとって、思考力はアイデンティティそのものだ。若くともれっきとした学者の、将来を嘱望された天才青年。通常の生活を送れるようにまで回復しました、めでたしめでたしではない。日常レベルが目標なわけではない。最先端の情報や高度な理論を会得できなければならない。そして繊細に思考を重ね、時には、適切なタイミングでダイナミックに駆使できなければいけない。その上で、客観的で説得性のある論文が書けなくてはならないのだ。そのレベルまで引き上げるため、ここからどれほどのリハビリを要するのか、想像もつかない。一つだけわかっているのは、瑠璃仁本人は一切諦めていないということ。同時に、たまらなく不安で押しつぶされそうになっているということだ。
気づこうともしなかった。
なんてことだ。
白夜は暁に礼を言うと、その足で瑠璃仁の部屋に向かった。
いてもたってもいられなかった。
今すぐ、瑠璃仁に、手を差し伸べなければならないと思った。
スポーツ選手やジョン・ナッシュ博士のように、何らかの優れた結果を出した後に病気になっていればまだ期待してもらえるが、結果を出す前に病気になってしまったら、誰が信じて応援してくれるだろうか?
白夜は彼を危うく見過ごすところだった。これこそを仕事として任されているにもかかわらず。
いや、もっと早く気付いている人は、一人だけいたか。
渡辺春馬だけが――。
彼だけは、瑠璃仁の苦しみや不安を感じ取って、そばにいて支え続けていた。瑠璃仁を信じて、励ましていた。自分もリハビリの努力をして見せ、瑠璃仁を鼓舞した。言葉がわからない春馬は、その分、感覚を研ぎ澄ませて「心」と「心」で瑠璃仁と会話していた。感覚が断絶されたがゆえに、残された感覚でコミュニケーションを密にとっていた。言葉に囚われることがなかったんだと、白夜は自分に言い聞かせるしかなかった。だって自分が春馬の立場で、果たしてそれができただろうか。理解できない「音」でしかない言葉。前知識もなく、その場には何の手がかりもないのに、瑠璃仁の見えない涙を見つけることができただろうか。しかも、かつて自分を傷つけた相手のことを心から想いながら――?
彼はふと微笑むと、手を伸ばして――白夜の頭を撫でてきた。
敵わないな。そう思った。年上の大人って、みんなこうなのだろうか? それとも、春馬だけが特別なのだろうか?
春馬も瑠璃仁に用事があってここに来たはずだが、彼は踵を返して去っていった。
白夜が入室すると、彼はまた机に向かっていた。参考資料の本を脇に積み上げて、ノートにペンを走らせている。白夜の入室に気付いてか気付かないでか、彼は何かを一心に書き連ねている。白夜が視線を移すとそれしかし、意味のある文章の体をなしてはいなかった。それでも、彼は頭を掻きむしりながらも、手を止めない。
病気を看護しているんじゃない、瑠璃仁様を看護している。病気自体を治すことだけが治療じゃない。俺は一人の「心」を治すために専属看護師をやっているんだ。瑠璃仁様には瑠璃仁様の人生を、満足いく形で生きてもらわなくてはだめじゃないか。人間らしさを失ってしまったら、何のために生きる? それこそロボトミー手術で前頭葉を切除して終わらせるのとなにも変わらない。
あの時答えられなかった南の質問――一条瑠璃仁は、どんな人間? 何を望み、何のために血を流し、どんな人生を送る?
瑠璃仁様は、才能ある青年で、努力家の秀才で、大きな夢を本気で叶えていこうとしている人だ。脳の研究に手を出し始めたのも、自分が後遺症を負わせてしまった春馬を本気で治そうとしているからだ。瑠璃仁様は大きな障害を持ってしまっている。でも、それがなんだというんだ? 障害のある人は夢を持っちゃいけないのか?
――それを叶えるのを手伝うため、看護師の僕がここに呼ばれているのに?
瑠璃仁がなぜ焦っていたのかの、その理由。
後遺症を負わせてしまった春馬を、瑠璃仁は一刻も早く治したかったのだ。
だから、普段から無理を押して研究に励み、調子がいい日には脳外科教授を呼びつけたりしていたのだ。
でも瑠璃仁は病気だ。常ならもしかしたらうまくいくことも、今はできないことがある。でも、もうわかる。そうさせてしまうのは、誰にも理解してもらえない焦りからではないだろうか。不安に背中を押されてしまった瑠璃仁を、少しずつ正しい方向から認めてあげられていたら。そうしたら、結果は違っていたかもしれない。
どうだろうか。
果たして、合っているだろうか。ちゃんと、心に寄り添えているのだろうか。
教科書がほしい。答えがほしい。でも、そんなものはない。それなのにスペシャルな看護を求められていて、スペシャルな看護を提供できて一人前という立場に立たされている。そして白夜の理想も、「優しい」看護師だ。理想としても義務としても、己の限界を外すことに対して向き合う以外ない。
俺はどこまで彼を知っているといえる?
どこまで知ればいいのか教えてもらえたらいいのに。そうしたら、そこまでの範囲を覚えるのに。
でも、範囲なんてない。
採点もない。
同じ問題でも、答えが違ったりする。
なんて理不尽な試験なんだろう。
どこから手を付けたらいいのかもわからない。途方もない。
言われた範囲を効率よく覚え、テストで満点を取ることの、どんなに簡単だったことか。考え続けながら、動き続ける中にしか、正解はないなんて。知れば知るほど、難しさを思い知るばかりで。
だけど今、目の前の瑠璃仁の瞳から、涙が一筋こぼれていく。
その積み重ねの先にしか、理想の「優しい看護師」はありえないというのなら、それが答えなのだとしたら。
今の白夜にできる精一杯の心を込め、瑠璃仁を抱擁する。
か細く震える瑠璃仁の流した涙が、熱く胸に広がっていくのがわかった。