3-8 消えない
文字数 2,135文字
差し伸ばした手を、智也はそのまま静かに下ろした。
届くはずがない。そんなこと誰かに言われるまでもなく分かりきっていることなのに、考えるよりも先に体が動いていた。
莉李の身を案じ、教室を出た智也は、廊下を歩きながら旧校舎の方に視線を走らせた。
旧校舎の窓は、莉李たちの教室がある校舎に面する側だけ全てがガラス張りになっている。ガラス張りとは言っても、窓の部分以外の————一般的に木材などで覆われている窓から下の部分はすりガラスになっていて、その部分を見通すことはできない。けれど、ぼやけた状態でも色を認識することができるため、普通の窓と比較すると、距離に関係なく見やすくはなっていた。
なので、その窓の一角に莉李の姿を見つけることは、さほど難しいことではなかった。
離れた校舎にいる彼女を眺めながら、資料室がある階ではなく、一つ上の階にいることに智也は首を傾げる。
それでも進む智也の足は、旧校舎へとつながる渡り廊下に差し掛かると、どういうわけかその動きを止めた。見上げると、莉李もまた立ち止まっているように見える。その場所が、階段の前だということだけはわかった。
智也は目を凝らした。
莉李はこちら側に背を向けて立っている。その向こう側にも人影が見えた。
距離が離れていることと、莉李の背中に隠れてその姿ははっきりとは確認できない。けれど、時折覗かせる ”赤色” が
間違いない。見えているあの赤は、髪色の赤だ。
赤髪を視覚に捉えると、視力のいい智也には、それが誰なのかはっきりと認識することができた。
不意に、胸の奥がチクンと痛んだ。
馴染みのない胸の痛みに、智也は痛む場所へと手を持っていく。さすってみたものの、痛みは取れなかった。それに、常時痛いわけではないらしい。
心拍数も上がっている気配もなく、では一体何の痛みなのだろうか、とその理由を考えていると、莉李たちのいる階段のすぐそばの教室の扉が勢いよく開かれた。
教室から一人の学生と思しき人が出てくる。
その人が教室から出て、角を曲がっていく様子を、智也はぼんやりと眺めていた。
眺める————というほど、時間は経過しなかった。
そんな余裕を与える間もないほどに、それは一瞬にして起きた。
智也は、彼女の
無意識に足を踏み出し、手を伸ばす。
心臓が止まる思いとはこのことだろう。
教室から出てきた学生にぶつかられた彼女は、その反動で宙に浮いた————と思った次の瞬間には、あの赤髪の彼に抱き抱えられていた。
そんな状況に頭が追いつかない中、ひとまず莉李が無事だったことの一息、安堵のため息を吐く。けれど、ほっとしたのも束の間、言い表しようのない感情に心が曇る。
そんな気持ちに支配されていると、気づいた時にはぶつかった学生の姿が見当たらなかった。赤髪の彼と一緒にいた学生の姿もない。
智也は目を細め、できる限りの眺望を試みた。
智也の目は、何かにぶつかった。この場合、何かと視線が合った、と言うのが正しいのかもしれない。
その何かは、赤髪の彼の目、に当たる。
そう。智也は、赤髪の彼と目が合ったような気がした。距離があるため、正確なことはわからないけれど、智也にはそう
刹那、彼の口角が上がった。
不敵な笑み。そんな表現がしっくりくるような笑い。
これもまた、そう
その笑いは、智也 を嘲笑うような表情に、さらにイライラが募っていく。
けれど智也には、彼がどうして自分を嘲るのか、理由がわからなかった。
そんな距離では何もできないだろう? とでも言いたいのだろうか。
指を咥えて見ていろ、と言われているようで。
もしくは、手出しできないだろうと言われているようで。
こちらに背を向けている莉李の表情はわからない。
けれど、赤髪の彼に身を委ねる彼女に、智也の瞼が痙攣した。
「……少しはそいつに危機感持てよ」
ぼやくように出た言葉に、それを取り払うかのように智也は両手で自分の頭をグシャグシャと掻いた。
「何で俺、こんなにイライラしてんだろ……」
それでも智也は、彼女の不運が、紫希 の仕業かもしれないと疑念を抱くようになっていた。
だからこそ、彼女に悟られないように、守ることができたら。そんなことを考えていたのだ。
けれど、先ほどの彼の行動で、智也の頭は混乱していた。
もし、彼女の不運の原因が彼にあるのならば、あの場面で彼女を助けただろうか?
それもごく自然に。何の躊躇いもなく腕を差し出しているように見えた。
そうなってくると、彼の意図が分からない。何がしたいのだろうか。
彼女の身に起きていることについて、智也が考えて至った答えに、先程の彼の行動はそぐわない。
振り出しに戻った気分だった。
わからないことだらけで、もどかしさが拭えない。
「くそっ。何で、俺のそばにいないんだよ!」
拳を握りしめ、言葉にできない感情を自身の足へとぶつけた。
強く当てたはずの足の痛みよりも、消えない胸の痛みに、智也のモヤモヤはしばらくその場に居座り続けた。
届くはずがない。そんなこと誰かに言われるまでもなく分かりきっていることなのに、考えるよりも先に体が動いていた。
莉李の身を案じ、教室を出た智也は、廊下を歩きながら旧校舎の方に視線を走らせた。
旧校舎の窓は、莉李たちの教室がある校舎に面する側だけ全てがガラス張りになっている。ガラス張りとは言っても、窓の部分以外の————一般的に木材などで覆われている窓から下の部分はすりガラスになっていて、その部分を見通すことはできない。けれど、ぼやけた状態でも色を認識することができるため、普通の窓と比較すると、距離に関係なく見やすくはなっていた。
なので、その窓の一角に莉李の姿を見つけることは、さほど難しいことではなかった。
離れた校舎にいる彼女を眺めながら、資料室がある階ではなく、一つ上の階にいることに智也は首を傾げる。
それでも進む智也の足は、旧校舎へとつながる渡り廊下に差し掛かると、どういうわけかその動きを止めた。見上げると、莉李もまた立ち止まっているように見える。その場所が、階段の前だということだけはわかった。
智也は目を凝らした。
莉李はこちら側に背を向けて立っている。その向こう側にも人影が見えた。
距離が離れていることと、莉李の背中に隠れてその姿ははっきりとは確認できない。けれど、時折覗かせる ”赤色” が
彼
の存在を主張する。間違いない。見えているあの赤は、髪色の赤だ。
赤髪を視覚に捉えると、視力のいい智也には、それが誰なのかはっきりと認識することができた。
不意に、胸の奥がチクンと痛んだ。
馴染みのない胸の痛みに、智也は痛む場所へと手を持っていく。さすってみたものの、痛みは取れなかった。それに、常時痛いわけではないらしい。
心拍数も上がっている気配もなく、では一体何の痛みなのだろうか、とその理由を考えていると、莉李たちのいる階段のすぐそばの教室の扉が勢いよく開かれた。
教室から一人の学生と思しき人が出てくる。
その人が教室から出て、角を曲がっていく様子を、智也はぼんやりと眺めていた。
眺める————というほど、時間は経過しなかった。
そんな余裕を与える間もないほどに、それは一瞬にして起きた。
智也は、彼女の
不運
を目の当たりにしたのだ。無意識に足を踏み出し、手を伸ばす。
心臓が止まる思いとはこのことだろう。
教室から出てきた学生にぶつかられた彼女は、その反動で宙に浮いた————と思った次の瞬間には、あの赤髪の彼に抱き抱えられていた。
そんな状況に頭が追いつかない中、ひとまず莉李が無事だったことの一息、安堵のため息を吐く。けれど、ほっとしたのも束の間、言い表しようのない感情に心が曇る。
そんな気持ちに支配されていると、気づいた時にはぶつかった学生の姿が見当たらなかった。赤髪の彼と一緒にいた学生の姿もない。
智也は目を細め、できる限りの眺望を試みた。
智也の目は、何かにぶつかった。この場合、何かと視線が合った、と言うのが正しいのかもしれない。
その何かは、赤髪の彼の目、に当たる。
そう。智也は、赤髪の彼と目が合ったような気がした。距離があるため、正確なことはわからないけれど、智也にはそう
見えた
。刹那、彼の口角が上がった。
不敵な笑み。そんな表現がしっくりくるような笑い。
これもまた、そう
見えた
と言わざるを得ない。その笑いは、
こちら
に向けられているように思えた。けれど智也には、彼がどうして自分を嘲るのか、理由がわからなかった。
そんな距離では何もできないだろう? とでも言いたいのだろうか。
指を咥えて見ていろ、と言われているようで。
もしくは、手出しできないだろうと言われているようで。
こちらに背を向けている莉李の表情はわからない。
けれど、赤髪の彼に身を委ねる彼女に、智也の瞼が痙攣した。
「……少しはそいつに危機感持てよ」
ぼやくように出た言葉に、それを取り払うかのように智也は両手で自分の頭をグシャグシャと掻いた。
「何で俺、こんなにイライラしてんだろ……」
何も知らない
莉李に、察しろと言う方が無理な話で。それでも智也は、彼女の不運が、
だからこそ、彼女に悟られないように、守ることができたら。そんなことを考えていたのだ。
けれど、先ほどの彼の行動で、智也の頭は混乱していた。
もし、彼女の不運の原因が彼にあるのならば、あの場面で彼女を助けただろうか?
それもごく自然に。何の躊躇いもなく腕を差し出しているように見えた。
そうなってくると、彼の意図が分からない。何がしたいのだろうか。
彼女の身に起きていることについて、智也が考えて至った答えに、先程の彼の行動はそぐわない。
振り出しに戻った気分だった。
わからないことだらけで、もどかしさが拭えない。
「くそっ。何で、俺のそばにいないんだよ!」
拳を握りしめ、言葉にできない感情を自身の足へとぶつけた。
強く当てたはずの足の痛みよりも、消えない胸の痛みに、智也のモヤモヤはしばらくその場に居座り続けた。