第8話 小倉宿 うめね呉服店主

文字数 1,396文字

宿場の中程に小倉織の体験工房の店があり、透明ガラスの向こうにミシンを踏む人と、机で針仕事をする女性がいる。中に入らせてもらうと、小倉織の歴史を話を始めてくれた。最近は、新聞でも、郷土の織物として取り上げている。戦前までは、白と紺の縦縞で、生地の厚い小倉織は、丈夫で粋な感じがし、全国で使用されていた。戦後、アメリカの進駐軍が進出し、アメリカナイズされ和服から洋服へと、日本の衣装文化が変わっていった。機能的でおしゃれな洋服は、たちまち流行した。和服は箪笥の宝となっていき、小倉織も着る人も少なくなり、技術を継ぐ人も、居なくなった。技が絶えてしまい、幻の織物となっていた。
 十数年前から小倉織を復活させた職人さんが出てきて、北九州市でも援助し普及を始めようとしている。
 通りに老年男性で着物姿をビシッと決めた人が歩いていた。珍しい光景である。その茶人とでもいえる人が、小倉織屋さんに入ってきて、雑談を始めた。店の店員が言う。
「この方が店のオーナーなんですよ。小倉織の話なら、私らより詳しいので、お訊ねください」
茶人姿の男性は、用事があって通りかかったのか、和服の宣伝のため宿場を歩いているのか、のような感じである。江戸時代から、一飛び現代へやって来たのか。
「私は、梅根と言いまして、小倉織が復活することを願って活動しています。店はこの先にあります」という。呉服屋さんには、注文したこともないし、入ったこともなかった。
「御店を見せていただけますか」
「どうぞ、どうぞ」と言って、名刺をくれた。私も、街道の人々を入れた名刺を手渡した。
呉服梅根という看板があり、透明ガラス越しに女性の和服が豪華な様子で展示されている。最近では、成人式とか結婚式とか等で、若い女性が着るくらいだろうか。
「呉服屋の商売は、今では息子に任せています。私は小倉織の復活に力を入れているのですよ。原料の綿花も農家の人に作ってもらい、織機で古の小倉織を織ってもらっています」と和服の商いから、小倉織の魅力に取りつかれて、活動の場を広げられているようだ。
「和服を買ってもらうのが主ですが、貸衣装等もイベントとマッチさせて、手広くやっています」と梅根社長は語る。
「昔から、この小倉宿に代々店を構えられていたのですか?」と訊ねると
「私の出身は秋月街道の大隈宿の近くです。学校を卒業してから地元の呉服店に勤めていました。その後、黒崎の方で独立し、呉服店を開きました」
「私も黒崎の井筒屋に行ったりしていましたが、今は潰れてしまいましたね」と話すと、
「私の店も当時は、黒崎で繁盛していました。段々、アーケードもシャッター街となり、商売も細りました。心機一転し、小倉へ店を移したいと思いました。縁あって小倉の宿場跡に呉服店を構えることが出来ました」現在まで、地道に努力を重ね、一応の成果を上げられたということだった。
「小倉に来た当初は、中々地元に受け入れられませんでした。私は、地道にまっとうな商売を続けことが自分の本心でした。損もしましたが、そのうち、お客も付き、魚町商店街の店主会にも参加させてもらえるようになりました」とひと筋の歩いて来た人生の道を語られました。
「小倉で商いされている皆さんは、夫々商売の道で頑張っておられます。教えられることが多いですね」と社長は自分の人生を振り返られていた。和服姿が板についた苦労人のような社長だった。
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