第1話 西暦二千XX、日本の社会状況について

文字数 3,645文字

西暦二千XX年、日本全土が姥捨て山になってしまう事を今は誰も知らない。


 
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  「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
 「命だけは、命だけは助けてくれ! お願いだから! なあ頼むよ」
 「あんたらは誰のおかげでそこまで大きくなれたと思っているんだ! 私達の面倒を見るのは常識なんだよ。この恩知らずめ!」
 「お前らは誰から生まれてきたんだと思っているんだ? お前らは自然に湧いてきたのではないんだぞ! 俺ら旧世代がいて、その旧世代が努力し、教育し、お前らのような新世代ができたんだ! 少しくらいは感謝しろや」
 今、紹介したのは爺・婆が土に生きたまま埋められる前に言った最後の言葉である。この言葉はすべて相手にされなかった。それほど若者の怒りは激しかったのだ。このような状況になる前に年寄り達はなぜ反省しなかったのだろうか? 反省すれば、貧しくともそれなりに若者から尊敬され、幸せに余生を暮らせたのに・・・。
 現在(西暦二千XX年)の日本の状況は最悪だ。六十五歳以上の人口が日本の五十%を超えてしまった。社会にはまるで活気がなく、生きながらも死んでいるようだ。このような社会的な状況を経験したのはこの時代の日本が最初だ。それと比べると昔は健康における意識も低く、科学技術やそれに基づいた医療も発展していなかった事から、人間は早く死んだ。それは不幸なように現代の人間にとっては思えるかもしれない。しかし、実は大きな意味があったのだ。それは現役世代が老人を支えなくても良いという事だ。人間は子供の時から成長して、大人になり、自分の子供を育てあげるとすぐに死んだ。すぐに死ぬので自分の子供の世話になる事もあまりなかった。ましてやボケる老人も殆どいなかった(ボケた老人は最悪だ。夜間徘徊をしたり、凶暴になって世話をしている家族を攻撃したりする事もある)。そして、この老人が早く死に、新しい生命が旧世代に煩う事なく、自分と子供の為に生きるという事が永遠に続くように思われたのだ。そう、科学技術の発展までは永久に続くと思われたのだ。ここで、お前はそんな事を書くなら、「自分の親が早く死んだら、悲しくないのか?」と人々は思うかもしれない。じゃあ、私は人々にこう質問を返すだろう。
 「自分の親が早く死ぬのと、七十歳から百歳までの間、付き添い必須の介護を続けるのはどちらが良いのか?」
 この質問に考えずに答えるような人間はいない。殆どの人は自分の親には長生きして欲しいと思うが、介護はしたくないというのが本音だろう。健康なままで長生きして、死ぬ時は一瞬で死んで欲しい。俗に言う、ピンピンコロリを望む。ところがどっこいそうはいかない。ピンピンコロリどころか、ボケたまま三十年生きる時すらある。
 まあ、この話はさておいて、現在の状況を更に詳しく説明しておくと、有権者の五十パーセントより多くが六十五歳以上の老人で、政治家になると平均年齢八十歳になっているというのが現在の日本の実情だ。完全なシルバー民主主義だ。若者の意見なんて権力者である政治家は誰も相手にしない。老人の声しか耳に貸さない。そして、更には権力者である政治家ですら老人なのである。
 学者風に言うとこれは「民主主義の完全な失敗である。民主主義は人間が長生きをせずに死んでいき、次の未成年を除いた若い多くの世代が有権者となり、世の中をバランスよく発展させる事を前提に設計された。年寄りは早く死ぬ事を前提にできており、未成年と同じように権力を握れないように設計されたのだ。しかし、現実、未成年は権力外だが、今や年寄りが政治権力の中枢にいる。これは、年寄りが現役世代を食い物にしかねないという事だ。もうすぐ死ぬ人間が考える事、それは自己保身である。それに年寄りは未成年と同程度の能力まで、加齢の為に低下している事も多い」
 そう、「自己保身」、この言葉こそ、年寄りの常に考える事である。やり直しはできない、失敗ができない、後の人生がないので、今の事にしか興味がない。このような人間達が政治権力の中心にいたからこそ悲劇が起こったのだ。
 しかし、中には教養が高く、自己犠牲の精神を持ち、自分が死んだ後も、子供や孫の事を考える老人も少数ながらいた。残念ながら少数だ。概ねこのようなエリート精神を持った人間は教養と財産と名声高い祖先からの栄誉を受け継いだ名門のエリートが多い。この名門の内の最高エリートである何世代も続く、貴族化した世襲政治家というのもこの時代にはいない。この時代に政治家になった者は成金の野心家のみだ。先祖の名誉を気にする事もなく、運と独自の嗅覚で権力と金を手に入れた者だ。貴族化した世襲政治家は大衆の激しい妬みを受けたので完全に消滅させられた。つまりは、政治家の世襲禁止という法律が可決されたのだった。大衆は長い世襲制度が成金どものような金銭主義、道徳を踏みにじるような野心を薄めて、名誉と品を重視する貴族的精神を熟成するという事を理解していなかったのだ(例えていうなら、利殖詐欺をやらかすような連中が政治家になる場合が多かった)。
 又、この無責任体制が広がったのは年齢だけが原因ではない。生涯未婚率も原因だ。今の日本の生涯未婚率はなんと五十%である。二人に一人は結婚せずに子供もいない。稼いだ金は自分の為だけに使用し、子作りを目的としない異性とのSEXを楽しむ連中なのである。昔は結婚する事が社会の責任を果たし、人間として一人前と認められる条件だった。結婚していないだけで、友人からの交際を拒否される事もあった。結婚は社会と将来の世代に責任を持つことだったのである。しかし、現在の結婚は違う。結婚は損か得かで決められる経済上の物となった。義務ではなくなったのである。それゆえに将来の世代への責任はますます低下した。
その他にも原因はある。金銭主義の蔓延だ。以前の日本では金と名誉が完全に分離していた。いくら金を稼げる職業でも、社会貢献にならない職業や反社会的な職業には名誉が与えられなかった。しかし、今は違う、金=名誉なのである。つまりは道徳の上に金が位置するのだ。このような社会はすべてが刹那的にならざるを得ない。人間は金を使用する事での快楽の為に生き、そして、死んでいくのである。それは、子孫の為に責任を持たずに、自分の為にのみ生きるという事である。
次には過度の学歴主義の蔓延がある。学歴が身分となったのである。この時代には学歴は非常に重視され、身分となったが、学校を卒業してからの勉強。つまり、教養はますます無視されるようになった。その結果、年間の平均読書数は低下し続けた。
 しかし、学歴を追い求め続ける受験勉強はますます過熱した。そして、学歴を得た後は、出世競争という企業主義的価値観が日本全土を取り巻くようになり、教養は崩壊した。その出世主義はあらゆる不道徳な事は発覚されなければ正義となり、上昇志向が第一とされ、道徳は建前となった。そもそも、教養は道徳を強めるという効果を持っている。色々な事を知るというのは世界における真、善、美を見るという事だ。
 その真、善、美に一定の数の人間は確実に影響を受ける事になるのだ。それは社会の道徳の健全化に非常に役に立っている。それが、極端な学歴主義と出世主義によって崩壊した。
 さらには、教養と道徳の崩壊と金銭主義の蔓延は音楽、テレビ、ラジオ、インターネットにもその影響が広がった。例えば、音楽で売れるのはアイドルの曲ばかりで、本格派の歌手は殆ど影響を持たなくなった。テレビ、ラジオ、インターネットにしてもそれと同じような状況である。
 日本の中で唯一、金銭主義とは無縁で、国民の教養の育成を第一にしてきた国営放送のテレビも国民の堕落とともに、受信料の無駄と言われ、低俗なお笑いと音楽を提供する民営テレビ局にならざるをえなかった(西暦二千十八年の日本でも国営テレビ局と民営テレビ局を比べてみな、いかに民営テレビ局が腐敗臭を漂わせているかよくわかる。大衆向けに金儲けするというのはああいう風にするんだなっていう見本だ)。
 このような大衆の道徳的腐敗は出世競争に敗れていった者達や元から無気力な人間の生活保護不正支給を極端に増加させる結果となり、国庫を圧迫させるという結果になった。それが、二十代の元気な若者が病気と偽り、働かずに生活保護を受けて遊んでいるという状況が多数あらわれ、それに年金財源も大きな影響をうけるようになった。
 このような嘆くべき状況の中で、 道徳的に腐敗した老人の国民と老人の政治家が結託して可決した法案がある。
「現在、四十五歳未満の者は年金を九十歳から支給する」だ。
 それも自分達の世代の年齢は六十五歳からの年金支給である。そして、ここからすべての物語が始まるのだった。


 
   
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