第8話・最終話

文字数 3,098文字

『優しい世界を思うのならその手を伸ばせば良いだけだ。過ぎていった過去をいくら思っても仕方がない。この地上もまた本当は幸せで溢れている』

 静かな家で都は床に伏せていた。微熱とたまに咳が止まらなくなるだけで、全く動けないわけではないのだが。晴翔はいつも名残惜しそうに家を出て行く。彼が用意してくれた粥の皿を引き寄せ、ゆっくりと起き上がった都は、そっとさじで一口それを口にする。

「……ッ、ゲホン、ゴホンッ! ゴフッ……」

 近所の医者の診断は曖昧だった。そのため、総合病院で詳細な検査をしたのでその結果はこの数日中にわかるだろう。しかしただの風邪にしては治らないし、時折咳き込むと胸の奥が痛む。日々下がらない熱だけが不快で、都はすぐに食事をやめて横になった。不安と心配の感情がある、しかしそれは自らのことではない晴翔のことだ。
 晴翔が自分に寄せる感情が何かはそれとなく気はついていた。光栄なこともでもあるが、それを受け入れてしまっては彼が不幸になるだろう。自分がここを去る時には彼の隣りには誰かがいなければ。あの人を間違っても孤独にさせるわけにはいかない。櫻葉製薬の名を出せばきっと誰かしらが寄っては来るだろうが、できればそんな名前や身分など関係のない優しい人を。十年、二十年先はどうか彼が笑顔でいるように。

「都、いるのか」

 ドアのノックと呼び鈴を連打する。聞き覚えのある声は東雲だった。

「ケホッ……はい」
「寝ていたのか、食事は?」
「ひと口だけ……」
「食欲も出ないか、仕方がないな」
「東雲さん、お仕事は?」
「それはどうにかなる、それよりも荷物をまとめてはあるか? 病院に行こう」
「え?」

 都をじっと見つめている。東雲こと店主、彼の表情はいつにも増して厳しくて。

「この前検査をしただろう? その結果を聞いたんだ、俺と彼は知り合いでね」

 彼とは先日行った総合病院の医者だ、病院に付き添っていってくれたのも店主だった。窮地の間柄でもある医者彼は晴翔に連絡がつかない時は店主の方にするようにと話していた。その結果は見るからに良いものではなさそうだった。

「シロカタクリの花はまだ咲いているか」
「え、女郎花村のですか」
「櫻葉製薬の薬は良いものが多いからね」
「あ……」

 かつての病だ、それは現在では中学になる頃には予防接種が法律で決まっている。しかし、都は中学にはほとんど通えなかった。

「東雲さん……」
「大丈夫だ、この国の医療は発達している。前にも行った気がするが私が挫折したくらいにね。荷物をまとめて、行こう」
「晴翔さんには……?」
「私から言っておくよ、後ほど彼も病院に行くだろう」
「あまりショックを与えるような言い方はしないでくださいね」
「ふ、わかっている。彼もまだ若いからな」

 あらかじめまとめていた荷物はこうなることを予想してのことだった。店主は大きなボストンバッグを持ち、都はゆっくりと寝巻きから外出着に着替えた。熱の残る手を引いて店主は都と共に家を出る。懐かしい家、またここに帰ってこられたら……都は、じっと店主が戸締りをしているのを悲しげに見守っていた。

 ***

 晴翔がやって来たのは翌日の朝だった。面会時間が始まると共に駆けつけて、都は面会室へ。入院した途端熱は上がり息が切れる。医者は面会を良しとはしなかったが都が無理に頼んだのだ。

「都」
「晴翔さん、すみませんご挨拶もできないままここに来てしまって」
「いや、体調はどうだ?」
「少し熱が上がってしまって、でも大丈夫ですよ。皆さんよくして下さいますし」
「……早く帰ろうな、あのアパートに」
「はい」

 晴翔の目が赤い、夜更かしでもしたのだろうか。二人の話は尽きなかったが看護師に止められて晴翔は帰ることになった。名残惜しい、その感情で都は何度も振り返った。

「都、また来るから……!」
「はい、晴翔さんもお勉強頑張ってください。くれぐれも無理はなさらずに」

 ***

「おや、君か」
「どうも」

 老緑雑貨店に晴翔がやって来た。小さな菓子折りを持って、そっと店主にそれを差し出した。

「なんだい」
「都がお世話になったので……」
「よしてくれ、これじゃあ彼に何かがあったみたいじゃないか」

 その菓子の包装紙にはシロカタクリの花が絵が描かれている。店主はその柄を見て目を細める。

「お兄さんは、元気かい」
「元気そうですが、何故兄を?」
「私は脱落した同級生だったのでね、以前は彼を身近で見ていたこともあったのだよ」
「深東京医専ですか?」
「ああ、かつて私もこの老緑で学んでいた一人だ。君も授業で忙しいだろう?」
「勉強は苦にはならないので」
「はは、感心なものだ」

 老緑雑貨店はどこか寂しさで溢れていた。目をやったアクセサリーの売り場で見覚えのある文字を見る。

「なかなか良い値札だろう? 都はうまい文字を書くよ」
「……人生が狂わなければあいつの方がずっと優秀な学生になった」
「人生にもしもなんかない、全てこうなるべき運命だった」
「あいつが病の床に伏せるのも?」
「櫻葉蒼司は良い跡取りになるだろう、人柄はどうであれ私は彼には期待している。特効薬を作ったのも君のご実家じゃないか。大丈夫だ、そんな顔をするな」

 下手に言葉を発したら泣いてしまいそうだった。晴翔は深く頭を下げて菓子折りを置いて雑貨店を後にする。八百屋のキャベツ、都と買い物をした思い出。この街の思い出はどれも良いものばかりだった。ここに来て初めて、都は自分の人生を考え始めたのかもしれない。少しずつバイトなんかしたりして、日々を楽しんで生きていたのだ。ここ十年の故郷での辛い思い出を塗り替えるように。
 自宅に帰った晴翔は分厚い医学書を何度も繰り返し読んでいる。あの病のページについてはもうページがしわになるくらい繰り返し読んだ。今はもう治らない病ではない、大丈夫、そう自身に言い聞かせて。

 ***

「ゲホッ! ゴホゴホッ! ヒッ、コフ……ッ」

 ひどく咳き込んだ朝だった。誰もいない病室で、あまりに咳が止まらない都はそばにあった手拭いで口元を必死で抑える。

「ゴホン、ゲホ……ッゴプッ! カハッ!」

 口の中が鉄の味がする。恐る恐る手拭いを見てみれば、そこには真っ赤な血液が。

「あ……ッ、……ゴホ、ゴホン! ハァ、ハ……ッ」

 口元から血液を溢れさせ次第に都の意識が遠のいて行く。その間際に都が思い浮かべたのは、懐かしい晴翔の笑顔だった。

 ***

「都、眠ったのか……?」

 冬の訪れる頃、病室で都の手を握る晴翔がいた。たった二人の白い部屋の中で、その都の腕にはいくつもの機器に繋がれて。時折都は目を覚ますが、晴翔の顔を見て安心するかのようにすぐ眠ってしまう。そっと触れた頬は血の気がなく、冷たい。それでも誰もあきらめてはいなかった。その頬に触れながら、晴翔は歯を食いしばる。今年の冬は寒い、それでも雪の花は都会で静かに降り積もっていた。

 ***

「晴翔さん! 空気が綺麗な場所ですね」
「シロカタクリの花がもうこんなに咲いているのか……」

 深東京都市老緑から離れて九宮ノ市女郎花村、汽車で四時間をかけて来たそこは満開の白い花でいっぱいだった。なんて美しい景色だろう。
 二人は全身で春の風を受けて、都は微笑んで振り返り手を振る。晴翔はその背中を追いかけながら都をただ見つめていた。
 季節は巡り、いつの冬も春がやがて訪れる。だからもう、恐ろしいことなんかない。
 白い花を避けて歩いて、一陣の風のなか都の髪がふわりと揺れていた。なんて美しいのだろう、この愛情を心に置いて晴翔はこれからも生きて行く。
 大丈夫、大切な存在はいつでもそばにいるのだから。

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