第四章 頻伽鳥の歌

文字数 10,613文字

 アニスが目を覚ましたのは夕刻を過ぎていた。部屋の隅に置かれたろうそくに火が点っている。部屋の小さなテーブルには夕食の盆が置かれ、その横でシャムが腕を組み、こくりこくりと舟をこいでいた。
 何が起こったのか少しずつ思い出す。御寮様に連れて行かれた家。幸せな家族の光景。雨。帰り道に襲ってきた恐怖。太った男のたくましい腕。御前様の手。それから煎じ薬。
 アニスはシャムの方を見た。彼はアニスより六、七歳上の庭師見習いだ。バシル親方の知人の息子という話だった。家業はパン屋だが、兄が二人いたし、草木の世話をする方が好きで、三年前に親方に弟子入りしたという。
「シャム」
 呼ばれて彼はビクッと体を震わせて目を覚ました。
「ああ、アニス」大あくびをしてシャムは思い切り腕を伸ばし、ひょいとアニスの方を向く。「大丈夫か?」
「うん。ついててくれたんだね、ありがとう」
「いいってことさ。晩飯はそこにあるぞ。食えるか?」
「うん」アニスはベッドから出てテーブルの前に座った。食欲はあまりないが、トルハナを手にとり、スープで煮た野菜をはさんで食べる。
「食べたら食器下げてやるよ。だから落ち着いてゆっくり食え」
「うん」
 話す気分にもならないアニスを気遣ってか、シャムは何も言わずにいる。いつもはアニスを弟のようにかわいがってくれるし、いろいろなことを教えてくれるのだ。新しく植えた花のことや、街で流行っている歌、どこの茶店の揚げ菓子がうまいか、そんなことを。
 やっとのことで夕飯を食べ終えたアニスから、食器ののった盆をシャムは片手で受け取った。そしてもう一方の手でアニスの髪をくしゃくしゃとなでる。
 「気にするなよ。おまえはすぐ他人に迷惑をかけるのを嫌がるけど、辛いときはお互い様だ」
 アニスはうなずいた。
「曇りでも雨でも、その上にお天道様は輝いてんだぜ。今日はよく寝ろよ」シャムはそう言ってドアを閉めていった。
アニスはもう一度布団に入る。
 時々眠り、時々目覚める。うつらうつらとした中で夢を見た。

 緑の芝草の庭で、逝ってしまった家族がみんなで手を振っていた。
 空が悲しいくらいに青い。

 誰かと手をつないで歩いていた。不穏な雲が低く垂れこめ、遠くに山並みが見える。
 風にザワザワ騒ぐ枯れ野。足元が暗い。

 岩肌の露出した山で黒い服を着た男たち。四つの棺桶を引いている。

 黒い塊が押し寄せてくる。呑み込まれ、押しつぶされる。苦しい。息ができない。
「助けて!」母さんさんの声だ!

 アニスは飛び起きた。汗びっしょりの体を恐怖が包んでいる。
静かだった。聞こえるのは自分の荒い息づかいだけだ。妙に明るいと思って見上げると、天窓から十三夜の月がのぞいていた。気持ちが落ち着くとともに、悪夢は霧が風に吹きちぎれるように薄れていく。その代りに襲ってきたのは、平穏に生きていることへの罪の意識だった。
(僕も一緒に死ねばよかったんだ……。お情けでここに置いてもらったけど、みんなに迷惑かけてしまう)
 発作を起こすたびに、周囲の人間が見せる、戸惑いと同情、嫌悪が入り混じった表情。『悪霊憑き』という心ない言葉。
両手で顔を覆い、アニスは暗い思いに必死に耐える。
(もう……嫌だ)
 黒い渦に呑み込まれていくような気がした。土砂崩れの後、彼の胸の中に小さく生まれた渦は時がたつほどに大きくなっていた。
(だめだ、こんなこと考えちゃ。こんな僕を父さんや母さんはきっと悲しむ。もう二年になるのに……。もっと、強くならなきゃ。思い出しても平気なくらいに。でないと……)
 ベッドから出て、薄い上着を羽織ると外に出た。眠れそうになかった。
アニスは水辺が好きだ。ハトゥラプルの家が川の近くだったせいだろうか。アビュー家の庭園にも小川が流れているが、夜、眠れない時に行くのは井戸端だった。屋敷の庭園は主人のものであり、召使が楽しむものではないからだ。用もなしに立ち入ることは禁止されていた。
 洗濯台に腰かけ、月を眺める。昔話に聞いたことがある。月の女神は冥界の番人でもあるのだと。しかし、月の出がない新月の日は番人がいない。いじわる爺さんはその隙を狙って、隠された宝物を求め、冥界へ忍び込んだのだという。
(僕もあっちへ行きたい。そしたら父さんや母さんに会えるのかな)
 その昔話では、いじわる爺さんは女神の怒りをかって、こちらの世界に戻れなくなったという。
(戻れなくてもいいや。向こうでみんなと一緒に暮らせるんなら)
 だが、冥界の入口がどこにあるのかわからなかった。
 何が不満なのかもわからない。みんなよくしてくれる。御前様も使用人仲間も。仕事もなんとかこなしている。今日みたいに具合悪くなっても、みんないたわってくれる。だけど……いや、だからこそ辛かった。自分だけが安穏と暮らしていることが許せなかった。
 ふと、横を見ると。井戸の口が黒々と開いていた。胸をわしづかみにされたように、アニスは固まった。あれは冥界につながっている? 今まで水を汲むだけだったが、今夜は妖しく手招きしているような気がする。彼は背中を押されるように立ち上がった。
「幽霊でも出てきそうかい?」
 驚いて振り返るとルシャデールだった。
「御寮様……」
「大丈夫?」
「はい、……昼間はすみませんでした」
「おいで、庭に何か来ている」
 ルシャデールは手招きした。アニスは立ち上がり、彼女についていく。
月の光の下、夜の庭園は幻想的だ。木々や草花は柔らかな風にそよぎ、藤の眩惑的な甘い香りが漂ってくる。糸杉の陰に半ば隠れた隠者小屋からは、月に誘われて本物の隠者が出てきそうだ。少し離れたところを流れる小川がちらちらと光っている。
 そして、そこに流れる銀の旋律。
「聞こえる?」少女がたずねた。
アニスはうなずく。小川の向こうで何かが歌っている。
頻伽鳥(びんがちょう)だよ。ユフェリに棲む鳥だけど、たまに地上に降りてきて歌うんだ」
 ルシャデールは石の長椅子に腰かけた。アニスもその隣に座る。
 この世のものと思えぬ、銀鈴を振るように澄んだ声。荒れた心も凪いでくる。聞いているうちに、その歌は何かを伝えようとしているように思えた。アニスはじっと耳を傾ける。
 コロコロと笑う赤ちゃんのような、それを見て微笑む母親のような。言葉にするのは難しい。
 さっきまでの暗い思いは消え、幸せな気持ちがアニスの胸に広がっていく。
「伝えたいんじゃないかな。みんなに『大好きだよ』って」
 ルシャデールは思わず彼を見た。頻伽鳥が降りてくるのは、着飾った貴族の娘が豪華な輿に乗って街を練り歩くようなもの、ぐらいに思っていた。気まぐれで、貧しい粗末ななりの人々に、自分の贅沢な衣装を見せびらかすように。
 彼女の眼にはオレンジの樹に止まる頻伽鳥が二羽見える。鮮やかで濃い空色の羽毛に被われ、頭部は金色の長い冠羽で飾られていた。一羽が主旋律を、もう一羽が副旋律を歌い、見事なハーモニーを作り上げている。悠久の調べは微かに哀しみを宿し、深い慈しみを降り注ぐ。
「ずっと遠い昔から、あの鳥はこうやって地上に降りてきて歌ったのかな」
アニスは聞くともなしにつぶやいた。
「そうかもね」
 人間がまだおらず、草木と動物しかいなかった太古。静かな夜の原で、それとも星を映す水辺で、頻伽鳥が鳴いている情景を二人は思い描いた。
「人はどうして死ぬんだろう」
 アニスは独り言のようにつぶやいた。
 ルシャデールが振り向く。少年もつられるように彼女の方へ顔を向けた。絡み合う眼差し。アニスはおずおずと問いかけるように。ルシャデールは何かを追究するように。
「何が……欲しい? それとも、何をして欲しい?」
 唐突な質問にアニスはとまどい、考え込む。欲しいもの? 一番欲しいものは、もう手に入らない。特に何も。そう答えようとしたら、ルシャデールが言葉を継いだ。
「前に、ドルメンで何か言いたげだった」
 少女の瞳がまっすぐにアニスを貫く。嘘はつかなくていい。そう主張していた。それは錐のように、強がりや諦め、やわな気遣いなどの層を突き抜けて、心の一番奥深くへ届いた。彼は唇を噛み、こみあげる想いを抑えようとした。
(いいのかな、言っちゃって。言ったからって、どうにもならないのに)
 そう思いつつも、心の奥底の望みが口から飛び出てくる。
「死んだ父さんや母さんを生き返らせてほしい。妹もおじいちゃんも。そして、みんなで一緒に村で暮らしたい」
 ルシャデールはそれを聞いて、首を横に振った。
「死んでないよ」
 アニスは理解できず彼女を見つめた。
「人は死なない」繰り返し彼女は言った。「うまく言えないけど、蛇が脱皮するような、芋虫がさなぎになって、蝶に変わるようなものだと思う。みんなが『魂』と呼んでいる目に見えないもの、あれが人の本体だから。体が使い物にならなくなっても、『魂』はちゃんと生きている。おまえの家族は今、『天空の庭』と呼ばれるところにいると思う」
「御寮様はその庭にいる人に会うことができるんですか?」
「うん」
「会いたい! 会わせて下さい!」
 アニスは泣きそうな顔で懇願する。ルシャデールの瞳に困惑が混じる。
「んーとね、それにはユフェリへ行かなきゃならないんだけど、ユフェリってのは、 つまり、あの世みたいなところなんだけど」
 肉体を持ったままではユフェリへ行く事はできない。ルシャデールはかなり自在に、体から抜け出すことができる。抜け出ている間、体は睡眠状態だ。
 しかし、普通の人間にそんな器用なまねはできない。
 どうすればできるのかと聞かれても、説明のしようがない。それは呼吸するのと同じくらい、彼女には自然なことだった。
「今まで他の人を連れて行ったことはないんだ」
 アニスはうなだれた。
「ごめんなさい。無理言って」
 二人ともしばらく無言だった。

 アニスの姿に重なって、大きなひびの入った水晶玉が見える。このままだと壊れてしまうかもしれない。
(何とか……してあげたい)
 ずん、と重いものが胸に迫ってくる。 衝動と言ってもいい、強い思いがルシャデールの中にあふれ、波を打って広がっていく。誰かのために力を貸したいなどと、今まで思ったことはなかった。
 自分が必要とされている。それが単にユフェレンの力を求められているだけだとしても、今の彼女には十分だった。トリスタンに子供がいたことは、彼女を深く傷つけていた。跡継ぎとして以外に、自分がここにいる理由はない。ユフェレンなら、別に彼女でなくてもいい。
 だが、アニスに救いの手をさしのべられるのは、彼女だけだった。
 叫びだしたいような、ぞくぞくする気持をじっくりとなだめ、ルシャデールは慎重に言った。
「少し時間くれる?」
「はい!」
 希望をつなげたアニスはうれしそうだった。
喜びは素直に表し、悲しみや腹立ちはできるだけ見せまいとする。そういうところが、健気だと人に可愛がられるのだろう。ルシャデールの場合は反対と言っていい。喜びはあまり出さず、悲しみもあまり出さないが、腹立ちと憎まれ口は抑制することなど考えもせずに表す。
「おまえの母さんって、どんな人だった?」
「怒ると怖いけど、たいていは優しかったです。山地の出身だから肌が白くて、ハシバミ色の柔らかい髪にいつも小さな花飾りをつけてました。お祭りのときに焼いてくれるピランカがとてもおいしくて……。寝る前によくお話ししてくれました。御寮様のお母さんは?」
「私の母さんは……首括くくって死んだ。たいして構ってくれもしなかったけど、要するに、捨てられたんだろうね」
 あっけらかんとした口調で、ルシャデールは言うが、アニスは凍りついた。何と慰めていいかわからず、ただ小さな声で
「ごめんなさい」とつぶやいた。
「私はカズックに育てられたんだ。かあさんは一応食べさせてくれたけど、おまえがしてもらったようなこと、話をしてもらったとかさ、そういうことは……あったのかどうか、覚えてない。たぶん、なかった。カズックは、あれはするな、これはしろ、って、いろいろ教えてくれた。カームニルはここよりもっと寒いから、冬はくっついて寝たよ。犬が一匹いるだけで暖かいんだ。それじゃ足りないだろうって、毛布をどこからか拾ってきてくれたこともあった。きっと、カズックに会ってなかったら、私はとっくに死んでたかもしれない。……それでもよかったけどね、ふふっ」
 ルシャデールは乾いた笑いを口元に浮かべる。
「それでもよかったなんて、言わないでください」アニスは悲しそうに言った。自分が経験したことがない不幸は想像するしかないが、それでも『死んでしまってもよかった』なんて物言いは聞いていて辛い。
 頻伽鳥の歌がとぎれとぎれになってきた。もうそろそろ終わるのかもしれない。
「カズックは神様だから死なないんですか?」アニスは話を変えた。
「うん、そんなことを前に言ってたよ。何千年か、何万年か生きてるって聞いた」
「どんな感じなんだろう、そんなに長い間ずっと生きているのって」
「うん。……人間と関わるのは好きじゃないみたいだ。人間はたいてい数十年でこっちの世界から向こうへ還ってしまうし、次に生まれてくる時には違う姿をしてて、カズックのことを覚えていないんだ」
「カズックは生まれ変わってきた相手がわかるのかな?」
「神様だからわかるかもしれない。」
「だとしたら寂しいですね。自分はわかってても、相手は覚えていないなんて」
「戻ろう、風邪ひいちゃうよ」
 頻伽鳥はもう飛び去っていた。

 ルシャデールが部屋に戻るとカズックがベッドのそばに寝そべっていた。
「頻伽鳥が来ていた」布団に入りながら彼女は言った。
「ああ、聞こえていた。坊やと一緒だったんだろ」
 部屋の窓が開いたままだった。カズックは普通の犬と同様耳がいいから聞こえるのだろう。
「そういや地獄耳だったね」
「おまえ、あの坊やには真正面に向き合うんだな」
「……」
「いつもの斜に構えた調子がなかった。気に入ったか、あの坊やが」
「……頼みごとされた。ユフェリへ連れて行って欲しいって」
「で、何と答えた?」
「時間くれって。他の人間を連れて行ったことないもの」
「おまえにしちゃ、慎重だな」
 確かにそうだ。いつもなら、受けるか受けないか、即決する。
「安請け合いをしちゃいけないと思ってさ。期待させすぎると、だめだった時のショックが大きくなる」
もし失敗したら……アニスも彼女に愛想をつかすかもしれない。そう考えると怖かった。それに……きっと、役立たずの自分に嫌気がさす。
「どうしたらいい? 連れて行けるものなの?」
「できないことじゃないが」
「パストーレン一枚」
 ぼそっとルシャデールはつぶやいた。パストーレンは羊や牛の干し肉で、香辛料がよく効いて美味い。カズックの大好物だ。
「二枚だな」したり顔で犬はうなずいてみせる。
「わかった、二枚。明日、誰かに頼むよ」
 人がユフェリを訪れるには三つの方法があるという。
 一つは眠っている時に体を離れた状態で訪れる方法。これは夢という形で記憶に残っているが、目が覚めると向こうで見聞きしたことは歪んでしまったり、忘れてしまうことが多い。
「もう一つはおまえがやっているような、意識的に魂を体から離してしまう方法。これをできるヤツはめったにいない。そしてもう一つはある種の薬草を利用する方法。マルメ茸やヌマアサガオの種あたりかな、安全に使えるのは」
「それをどうやって使うの?煎じるとか…?」
「そのあたりはオレの守備範囲を超えてるな。ここの書庫に関連した本がありそうだが、おまえが読むには難しすぎるだろう。花守(はなもり)を探せ」
「花守?」
 初めてきいた言葉だった。
「専属の庭師が何人もいるような庭園は花守の守護がある。あいつらは草木のことを知り尽くしている。いい薬師や癒し手は花守に愛されているとよく言われてるぞ。トリスタンもたぶん、ここの花守に可愛がられているんだろう」
「どんな姿してるの?」
「オレがカズクシャンで、でっかい寺院に祀られていた時、出会ったのは若いねえちゃんだったぞ。でも、ああいう奴らは定まった姿を持たないからな」
 ルシャデールは腕を組んで考え込んだ。精霊の類はよく見るが、この庭で花守らしき者は見ていない。
「それじゃパストーレンは頼んだぞ。二枚だからな」
 念を押すと、彼はしっぽを左右に揺らして部屋を出て行った。 

 翌朝、朝食は気まずかった。養父はちらちらとルシャデールの方を見ていた。何か話しかけようと口を開きかけるが、彼女は知らんぷりして黙々と食べていた。
 給仕もその雰囲気に不安そうな顔だ。侍従のデナンだけが、瞑想でもしているかのような静穏さを保っていた。
 その日、授業は休みだった。ラーサ師に用事ができたらしい。暇になったルシャデールはアニスを探した。彼に、ユフェリへ行く計画を進めると、知らせたかった。きっと喜ぶだろう。
 一階大広間から庭へと出て、西廊の方へ行くと、アニスはすぐに見つかった。建物の南側で、何十個も集められた木桶をどこかに運ぼうとしている。
「御寮様」
 ルシャデールに気がついて、アニスの瞳に光が宿る。が、木桶の方をちらと見て、なぜか困惑の色がにじんだ。それに構わず、ルシャデールは用件を話した。
「本当ですか?」
「うん。いろいろ調べることもあるけど、カズックに手伝わせるから、きっとなんとかなると思う」
「ありがとうございます! 僕にできることがあれば、何でもします!」
 その時、ルシャデールは異臭に気付いた。
「何、この臭い?」
「え……と……」彼は言いよどむ。
「それ何?」彼女は木桶に視線を向けた。
「臭いものです」アニスはうつむいた。
 ルシャデールにはわからない。
「部屋に一個ずつあって……御寮様のお部屋にもあるはずです」
「あ……」
 おまるの中身だった。ルシャデールの寝室には隅に小部屋がついている。その真ん中に陶器製の便器が置かれていた。使用人の分を含めて、始末するのは僕童の仕事だった。屋敷前の道を越えて少し行くと、汚水溜めがあるのだという。
(そうか、彼はそういう人が嫌がる仕事もやらなきゃならないんだ)
薬草摘みばかりしてるわけではないのだ。自分のも片付けさせていることに負い目のようなもの感じた。
「手伝うよ」
「とんでもない!」アニスはあわてて叫ぶ。「こんなこと、御寮様にしていただくわけにいきません!」
「遠慮しなくていいよ」
 ルシャデールは木桶の取っ手に手をかける。それを見たアニスが一層あせる。
「だめです! 置いて下さい。僕が怒られます」
「怒られたら私が無理やり手伝ったって言えばいいんだ」
「だめですって!」
 アニスはなんとか彼女の手から木桶を取り返そうとした。ふたはついていたが、軽くかぶせている程度のものだ。ルシャデールが引っ張り返したはずみで、ふたが外れ、中の汚水が彼女の服に跳ねかかる。
「ああっ!」アニスは真っ青になった。
 泣きそうな彼の顔に、ルシャデールもとんでもないことになったのがわかった。
「井戸で、いや井戸はまずいね。庭の小川で洗おう。大丈夫、とれるよ。少し臭いけど」濡れているだけだけなら、小川に落ちたとでもごまかせる。
 メヴリダさえ来なければ、そうできたはずだった。
「御寮様! こんなところで何をなさっているんですか?」
 いきなり詰問調だった。おまるの木桶が並んだ中にいるのだから、何かおかしなことを始めたと思うのが当然かもしれない。
ルシャデールは答えず、ふん、とそっぽ向く。メヴリダはすぐに彼女の服の黄色い染みに気づいた。
「きゃあああ! 御寮様! 何です、その染みは!」
「見たらわかるだろ」
 ぶっきら棒に答える。侍女は何があったのか推し量るように、アニスとルシャデールの顔を見比べた。
「あの……御寮様は悪くありません」
 恐る恐るアニスが切りだす。
「僕が間違って……御寮様のお召し物にかけてしまいました。……ふたがはずれてしまって」
侍女の怒りが今度はアニスの方へ向いた。
「この間抜け!」メヴリダは少年の頬を打った。バンと重い音がして、彼は後ろによろけた。「御寮様の御召し物を汚してどうするつもりだい! おまえのみすぼらしい着古しとは違うんだよ!」
「このクソババア! アニスに何をするんだ!」
 ルシャデールはそばにあった木桶を取るや、メヴリダに向けてぶちまけた。正真正銘のつんざくような悲鳴が響き渡った。
 その後の結末は予想できる範囲内だった。ルシャデールはトリスタンの部屋に呼ばれ、お小言を頂戴する。それだけだ。
「そんなに怒られるようなことだったの?」
 彼女は口をひん曲げて養父を見据えた。
「あー、ルシャデール……」
 トリスタンは額に手を当てうつむきかげんで、嘆息する。
「私は暇だったし、忙しそうな人を手伝おうとして何が悪いの? メヴリダに汚物をひっかけたのは……確かにやり過ぎだったかもしれない。でも、あの女は事情をろくに聴きもせず、いきなりアニスを殴った」
「うーん……」
「牛みたいにうなっていないで、何とか言いなよ」
 トリスタンは額を手で支えて、困り果てていた。
「あんたそれでも」親なのか、と言おうとしたらデナンがさえぎった。
「御寮様」
 ルシャデールは侍従の方を向いた。いつも主人のそばに侍しているが、口を開く ことはあまりない。感情を出さず、いつも、鉢の中の水のように静かだ。彼は言葉を継いだ。
「人には役割というものがございます」
「役割?」
「はい。主人には主人の、召使には召使の役割がございます。他の者の仕事を手伝ってやろうというお気持ちは貴いものと存じます。ですが、そのお心遣いが軋轢(あつれき)を生ずることもございます」
「なぜ?」
「たとえば、御寮様はメヴリダの仕事を手伝うことはおできになりますか?」
「なんであんな女を手伝わなきゃならないんだ?」
「それはおかしいと思いませんか? アニサードもメヴリダも、御寮様から見れば同じ召使です」
 お気に入りの者には手を貸し、そうでない者には手を貸さない。それは召使の立場からすれば不正義であり、大きな不満を生む。アニサードにとっても、同僚に嫌われることになれば働くのが辛くなるだろう。辞めざろう得ないことも起きかねない。
「主人やその家族は召使に対し、公平でなければなりません。聡明な御寮様にはご理解いただけるかと存じます」
「別に好きでアビュー家の娘になったわけじゃない」
 デナン相手に勝ち目はない。ルシャデールは屁理屈をこねる。
「カズクシャンで、アビュー家の娘になることを決めたのは御寮様です。ご自分の言動には責任を持たねばなりませぬ。それは街の辻占いだろうと同じことです」
「……わかった」ルシャデールは仏頂面で答えた。

 それからしばらくの間、ルシャデールは自重して過ごした。ユフェリ行きの方策を練る必要があったし、カズックに教わった花守探しも進めねばならなかった。
 晴れている時は、たいてい午後から夕食直前まで庭を歩き回る。夕食を知らせに来るメヴリダは、その度に庭中を探すことになり怒ってばかりだ。
「最近真面目に勉強しているようだね。ラーサ師がほめていたよ」
 久々にトリスタンが声をかけてきたのは、汚水事件から四日後の夕食時だった。
「ヒマだからね」
 ルシャデールはそう答えたが、本で調べることを考えて、読み書きは前より熱心に勉強するようになっていた。
「そうか……何か始めるかい?神和師かんなぎしとしての勉強はもっと後にしようかと思っていたが、奉納舞なんかは身体の柔らかい子供のうちの方がいい。ミナセ家の先代様が奉納舞を教えておいでだ」
 ミナセ家はアビュー家と同じ神和家の一つだ。
「ふーん。恥ずかしくないなら行ってもいいけど」
 横目でちらりとトリスタンを見る。
「恥ずかしい?」
「あなたが。今度のアビュー家の跡継ぎは口のきき方もろくになってない、可愛げのない子だって、神和家全部に広まるんじゃない?」
「……いや、そんなことないよ」
「ちょっと考えたね」
 ルシャデールは冷笑を浮かべる。侍従が助け舟を出した。
「御寮様、ほどほどになさいませ。御前様がお困りです。」
 ルシャデールが彼を睨む。彼の方は涼しい顔で微笑む。侍従はやがて主人の方へ視線を戻した。ルシャデールは話題を変えた。
「……このまえ、頻伽鳥びんがちょうが庭に来ていたよ」
「頻伽鳥? 天界の果てに棲むという?」トリスタンは目を見開いた
「そう、見たことある?」
「いいや。頻伽鳥は……親を失くした子供だけがその歌を聴くことができるという。美しく、悲しげな歌声だと、人に聞いた」
 そうか、君には聴こえたんだね、とトリスタンは微笑んだ。
「アニスが言ってたんだ。頻伽鳥が地上に降りてきて歌うのは、みんなに大好きだよって伝えたいからじゃないか、って」
 それを聞いたトリスタンは不思議そうな顔で彼女を見た。何を思ったのかわからないが、きっと自分と似たようなことを感じたに違いない。アニスにその言葉を言われた時の自分と同じことを。ルシャデールはそう思った。
「アニサードがお気に入りなんだね」
「別に」
 ルシャデールはそっぽ向く。お気に入りは確かだ。でも、それを他人に言われたくない。心の中にずかずか入ってきて、かき回されるのは嫌だった。
「天気のいい時なら、彼を連れて外出してもいいよ」
 トリスタンの言葉にルシャデールは顔を上げた。
「ただ、アニサードは家族を亡くした時のショックがまだ癒えていない。雨の時は特に調子が悪くなる。そのことを頭に入れておいてくれ」
「そのくらいわかってる!」
 それならいいんだ、とトリスタンは力なくつぶやいた。
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