健やかなる時も病める時も

文字数 4,866文字

「健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しい時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」
 淑乃は真っ直ぐに澄み切った心で神父様の誓いの言葉を聞いていた。
 肩を包んでくれる大きな愛情を感じながら……。


 淑乃が新郎となる徹と出会ったのは四年前、大学一年の時のことだった。
 一足先に入会していた友人に誘われて参加したトレッキング同好会、新入生向けの軽いトレッキングを引率、指導してくれた二人のうちの一方が徹だった。
 受験勉強の為に体がなまっているのはどの新入生も同じだが、淑乃は山歩きの経験も少なくどうしても少し遅れがち、しんがりを務めてくれていた徹に申し訳なくて懸命に付いて行こうとするのだが、徹は無理しないように言い聞かせ、傍らの植物の名前を教えてくれたり、樹上の小動物なども目ざとく見つけては教えてくれる……そうやって短い休憩を入れるように配慮してくれていたのは後で知ったのだが……。
 ようやく休憩中の先行グループに追いついて合流した時も、徹は淑乃の隣に腰を下ろした。

「すみません、体力なくって」
「高校時代スポーツとかはしてなかった?」
「中学まではバレーボールやってたんですけど、高校からは何も」
「ふぅん……」
「あの……私、母を早くに亡くして……祖母に面倒見てもらっていたんですけど、あまり体が丈夫な人ではないので、高校からは手伝いを」
「同じだね」
「え?」
「俺も早くに母親を亡くしてばあちゃんに育ててもらったんだよ、まあ、ウチのばあちゃんは半端なく丈夫だし、姉もいるから俺は何も手伝いとかはしてなかったな、そこは同じじゃないけどね」
 そう言って明るく笑う徹に、思わずつられて笑った……思えばその瞬間から運命の歯車は回りだしたのだった……。

 同じ大学と言っても、淑乃は文学部英文科、徹は工学部土木学科、学部どころかキャンパスも別々、しかし、ほぼ隔週にあるトレッキングで交流を深め、その年の冬には同好会とは別に二人きりでも会うようになった。

「淑乃はどうして英文を選んだの?」
 何度目かの二人きりのデート、お互いに下の名前で呼び合う様になって来た頃、そう聞かれた。
「う~ん……まぁ、外国の、それもイギリスの文学が好きだから……かな……原書で読めたらまた違うんだろうなって……徹さんは? どうして土木を?」
「うん、いつか発展途上国の人たちの力になれれば、と思ってさ……ちょっと大きなゼネコンに入らないと叶わないけどね」
「でも、○○建設に決まったんでしょう?」
「ああ、でも大きな現場で働けるようになるには就職しても頑張らないとね」
「徹さんらしいな」
「そう? どうして?」
「だって、初めてのトレッキングの時も遅れがちだった私の面倒をちゃんと見てくれたでしょ? そう言う優しさを持っているもの……」


「淑乃、お前、この頃明るくなったね、いい人でも出来たかい?」
 夕食の後片付けをしている淑乃の背中に、淑乃の祖母、淑江が声をかけた。
 料理は淑江も好きで一手に引き受けてくれているのだが、数年前に腰を悪くしてからは長時間の立ち仕事はきつくなっている、基本的に後片付けは淑乃の分担なのだ。
「あ、ごめんね、お祖母ちゃん、休みの日とか手伝わなくて……」
「いいんだよ、やっぱりデートだったんだね」
「う……うん……」
「あたしはお前が幸せになってくれればそれでいいのよ、お前の結婚式を見てから死にたいもんだよ」
「やだ、お祖母ちゃん、もっと長生きしてよ……それに私は結婚なんてまだ全然……」
「相手はどんな人なんだい?」
「え~と……トレッキング同好会の先輩でね、土木学科の人、大きな建設会社に内定してるわ、ゆくゆくは発展途上国で人の役に立つ仕事がしたいって……」
「へぇ、それは素晴らしいね、大望があるんだね、それにそんな事を考えるって、優しい人なんだろうね」
「うん……とっても……」
 まだ十九歳になったばかり、結婚などと言う事にはまだ実感がわかないが、正直な所(もし徹さんと結婚できたら……)と考える事はある。
 徹は夢を夢で終わらせずに既に手が届く所まで引き寄せている、徹なら必ず夢を実現させるのではないかと思っている。
 しかし、だとすると淑乃は徹に付いては行けないのではないか、と考えてしまう……理由は祖母……。
 淑乃が母を亡くしたのは小学校に上がったばかりの頃、いっそもっと小さい頃ならばあれほど悲しく、淋しくはなかったのかもしれない、しかし、母の死を理解はできても受け入れる事はまだ到底出来ない歳頃だ、何日も、何週間も泣いて暮らした淑乃を慰めてその傷を癒してくれたのは祖母、そしてその後、手塩にかけて育ててくれたのも祖母……。
 淑乃はそんな祖母が大好きで、授業参観や運動会に他の子達の母親とは一回り歳の離れた祖母が来ても恥ずかしいなどと思った事はない、友達も『優しそうなおばあちゃん』と言ってくれる自慢の祖母なのだ、そして、その祖母の体が段々と弱ってきていることもわかっている、休日毎に家を空けることも申し訳なく思っているくらいだから、祖母を置いて外国に行ってしまうことなど出来ない……。
「もし、淑乃がその人に付いて行きたいと思ったら、きっとそうしておくれ、あたしの事は気にしないでいいからね、老人ホームでもなんでも行けば良い事なんだから」
「お祖母ちゃん……」
 そう言ってくれる気持ちは嬉しいが、そこまで自分を大切に思ってくれる人をないがしろになどできるはずもない……。


 翌春に徹が卒業、就職しても、二人の交際は続いた。
 それからは共通の趣味であるトレッキングも二人で……当然、気持ちはより一層寄り添って行く。
「彼に一度会ってみたいもんだねぇ」
 そんな淑乃の様子をつぶさに見ている淑江はしばしばそう言う。
「やだ、お祖母ちゃん、私はまだ学生よ、結婚とかはまだ全然……」
 淑乃はそう言い続けて来たのだが……。


「来夏からマレーシアへ赴任することになったよ、ダムを造るんだ、十五年はかかる」
 三年後、淑乃が卒業を控えた冬、徹はそう切り出した。
「おめでとう……夢が叶ったのね……」
 淑乃はそう答えたものの淋しさを隠し切れない、行ったっきりではないとしても、もう徹とは今のようには会えなくなってしまう……。
 そう思うと『一緒に居たい』と言う想いが淑乃をぎゅっと締め付けた。
 そんな淑乃を見つめながら、徹は言葉を継いだ。
「ありがとう、でも、俺、もう一つ叶えたい夢があるんだ」
「え?」
「わかるだろう?……淑乃だよ……」
「……」
「付いて来て貰えないか?」
「……」
「だめかい?」
「……お祖母ちゃんが……」
「……そうだね……」
 淑江は少し前に胃がんが見つかって入院中、精密な検査の結果いくつもの臓器に転移が見つかった上に既にかなりの高齢だ、複数回に及ぶ手術には耐えられないと判断され、化学療法を受けていて入院が長期化する事は避けられない、淑乃は卒業後も当面就職をせずに祖母の介護をすることに決めているのだ。
 自身も祖母に育てられ、淑乃の祖母に対する気持ちを良く知っている徹には、『それでも』とは言えない……二人の間に重苦しい空気が流れた……お互いを思うからこその……。


「淑乃……」
「なあに? お祖母ちゃん」
 淑乃は病室の花を生けていた、いつもどおりの穏やかな口調だったが、振り向いた淑江の目は強い力を持って淑乃を見つめていた。
「徹さん、外国へ行くのかい?」
「え?」
「隠してもわかるよ、お前、近頃時々思いつめたような目をしているじゃないか……そうなんだろう?」
「……え……ええ……マレーシアですって……」
「どれくらい?」
「十五年……」
「そんなに長く……付いて来て欲しいとは言われなかったのかい?」
「……」
「どうなんだい?」
「……」
「言ってくれたんだね? そうなんだろう?」
「……言って……くれた……」
「お前の気持ちはどうなんだい?」
「私は……」
「自分の気持ちに正直におなり……」
「だけど、お祖母ちゃんが……」
「淑乃……良くお聞き……あたしは早くに夫に先立たれたし、娘にまで先立たれた……大きな悲しみを二つも経験したわ、でも、不幸せな人生だったとは思わない、優しい夫に巡り会えたんだし、良い子にも恵まれた……その娘まで亡くなった時はそりゃ悲しかったよ、お前が母親を亡くしたと一緒にあたしも娘を亡くしたんだよ、死んでしまいたいくらいに悲しかったよ……でもね……そんな時、側にお前がいてくれたんだよ」
「お祖母ちゃん……」
「お前はあたしがお前を支えたと思ってくれてるみたいだけどね、あの時、お前もあたしを支えてくれたんだよ、お前がいてくれたから悲しみを乗り越えられたんだよ、お前の父さんも実の息子のようにあたしを大切にしてくれたしね……不幸なこともあったけど、いつでも大切な人が側にいてくれて幸せな人生だったと思ってる、そのあたしが最後に望むのはお前の幸せ……それだけなんだよ、あたしを看てくれようとしているのは嬉しいけど、その為にお前が幸せを逃すんだったら、それはちっとも幸せじゃないんだよ……わかってくれるね?」
「……うん……」
「わかってくれたんだったら、彼に早くそれを伝えなさい」
「はい……」

 淑乃はスマホを取り出すと、徹にメールを打った。
(私をマレーシアに連れて行って……)
 すぐに返信はあった。
(ありがとう、必ず幸せにする)
 それを見せると、祖母はニッコリと微笑んでくれた。

 
 一ヵ月後、病室で徹は淑江と初めて対面した。
「想像したとおりの好青年だねぇ、でも、ちょっと違った所もあるよ」
「え? 何? お祖母ちゃん」
「想像してたよりもちょっとハンサムだったよ」
 病室に柔らかい笑いが流れる中、淑江は徹の手をしっかり握って言った。
「淑乃をよろしくお願いしますよ」
「はい」
 徹も力強く頷いてその手を握り返した。
 そして淑江は淑乃の手を取り、徹の手を握らせてこうも言った。
「繋いだ手を決して離すんじゃないよ……人の幸せはいつでも大事な人が側にいること、大事な人の側にいられること……」
「わかってる……お祖母ちゃん……ありがとう」
 そして、徹が淑乃の指に指輪を通すと、その繋いだ手を両の掌で包み込んだ。
「結婚式が楽しみだねぇ、出席できるといいんだけど」
「車椅子でもなんでも出席して下さい」
「そうよ、お祖母ちゃん」
「でもねぇ、それは神様が決めること……二人とも一つだけ約束しておくれ」
「なぁに?」
「あたしに何があっても式を延期したりはしないでおくれね」
「お祖母ちゃん、そんなこと言わないで……」
「でも、きっとそうしておくれ、あたしはどんな形にせよ、二人の結婚をお祝いしたいんだから……」



 淑江が亡くなったのは、病室での婚約の二ヵ月後だった……。

「淑乃……これをご覧」
 病室を片付けている時、父がロッカーに小さなレジ袋を見つけて淑乃に差し出した。
 中に入っていたのは手編みのレースの肩掛け……弱々しい字で「幸せにね」と書かれたメモと一緒に。

 
「はい、誓います」
今、淑乃はその肩掛けをウェディングドレスの上に纏って結婚式に臨んでいる。
 その言葉は祖母が言わせてくれたもの……。
 神父様の口から出た誓いの言葉は祖母が自分に注いでくれた愛情そのもの。
 そして、同じ誓いを立ててくれた人が今隣に……。

 教会の扉が開き、祝福のライスシャワーが降り注ぐ中、徹は淑乃の肩を抱き寄せた。
 あのレースの肩掛けと一緒に……。



 (終)

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