私は、いつも乾いている。
ヒナくんのこと、よく『ダメ』なんて言ってしまうけれど。
ヒナくんなしでは私が『ダメ』になること、自分自身がだれよりもよく識っている――。
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秋も深まり、外はきっと、この引きずった袖がなければ指先が冷えて痛くなってしまうであろう頃合い。
適度に暖房の効いた保健室で、お友だちの英ちゃんと私は、牧先生の好意に甘え、編み物を教えてもらっていた。出してもらった紅茶は飲みおえて、そっと小脇に避けてある。
「えっへへ、野田センセー、喜んでくれるかなぁ~」
そううきうきと話しながら、編み棒を動かすのは英ちゃんだ。英ちゃんは生物学的には男の子で、性自認も男の子ではあるけれど、今日も女の子の制服を可憐に着こなしている。
「野田先生、来年には定年なんだよね」
私が相槌代わりにそう返すと、英ちゃんは前のめりになって瞳を輝かせた。
「うへへぇ♡あの枯れ具合……柔らかな物腰……垣間見える渋み!! もぉたまんないよねぇ♡りえは殿村センセーに編んでるんでしょ? てゆーかその節はゴメンね! 年上好きオーラを察知したからさぁ、ついすきなひと探っちゃった★」
そう、以前、英ちゃんには訊かれたことがある。『ウチの学校の先生で憧れているひとはいるか』と。なんとなく防衛本能が働いて『人間として』憧れている牧先生の名前を挙げさせてもらってしまったっけ。
結局、彼女は『私にとって害となる人間ではない』。そんな風に判断したあとは、すっかり意気投合し、気軽にお話ができるようになった。
「英ちゃん、そこ、ひと目飛ばしているかな?」
そのとき、紅茶のおかわりを用意してくれながら、柔らかい声音で牧先生は語りかけた。
「わわー、ホント!? ありがとです、牧センセー!」
牧志臣先生。保健の先生で、ヒナくんの一番のお友だちだ。もちろん、ヒナくんにとって大切なひとは、私にとっても敬うべきひと。
何気なく目が合って、私はにこり、と無難に微笑んだ。
「りえちゃん、相変わらず袖で手を隠したままなのに器用だねぇ」
私の前にそっと紅茶を置いてくれた牧先生に、私は改めて会釈をして返す。
「うっかり、やりすぎちゃいますから」
「――……」
牧先生がぱちぱち、と、その端正な形をした目を瞬かせたとき。英ちゃんがアッ!! と、大きな声をあげた。
「やっだー、今日、『盆おじ和気藹々チャンネル』の生配信だった! 禊しなきゃいけないから帰るね!!」
華奢なデザインの時計を確認しながら慌てて立ちあがる英ちゃん。『盆おじ和気藹々チャンネル』っていうのは、数人の壮年なおじさまたちが、盆栽についてきゃっきゃと語りあう動画チャンネルの名前らしい(そしてそれが正式名称らしい)。
英ちゃんは、その前にお風呂に入って身を清めてからじゃないと観られないくらい、崇め奉っているんだって。
“まあ本命は野田センセーだけどー!!”と叫びながらもぱたぱた楽しそうに去ってゆく英ちゃんに手を振りながら、私と牧先生は、改めて顔を見合わす。
「……少し、休憩しようか?」
やわらかく目を細めて、牧先生は言った。
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「りえちゃんの長袖の理由、ずっと気になってたんだよね。訊いてもいい?」
ちらり、と私の引きずる袖を見て、先生はさらっと尋ねる。
「ふふ、単刀直入なかたは嫌いじゃないです」
私はセーターに包まれた手指を口もとに当て、上品に笑う。
「リスト・ウェイトってご存知です?」
「ああ、手首に巻く重りのことだよね?」
「それと同じです。――枷みたいなもの。杭が打たれないための」
「……そっか」
さすが、牧先生は察してくれて。少しの間、私たちは静かに紅茶を飲みすすめる。
私は促されるままに、聞いてもあまり愉快ではないであろう自分の身の上を語りはじめた。
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――出る杭は打たれる、とは確かな諺だな、と身を持って知るには、当時の私はあまりにも幼すぎた。
自慢でもなんでもなく、不得意なことが、私にはなかったのだ。
幼稚園のころには既に『なんでもできすぎてこわい』、『化けものみたい』なんて同い年の子から言葉を浴びせられ、小学生になって始まった授業は、本当に不安なくらい簡単に感じられてしまったほど。
よく、わからない。なんだか、ずっと足りない。
乾く。乾く。こころが、褪せてゆく。
そんなときだった。ヒナくんが隣に引っ越してきたのは。
彼は、よく泣いて、よく笑うひと。
そして、とてもがんばり屋さんで。
――私にはないものを、全て持っていた。
満たしてゆく。ヒナくんといると、満たされる。
優しい気持ちが、あふれてくるの。
“りえはすごいね。とってもかっこいい!”って衒いなしに褒めてくれる。
私に投げつけられたひどい言葉に、一緒に泣いてくれた。
この袖のヒントをくれたのも、そんなときのヒナくんだった。
“ぼくはりえの全部が丸ごとだいすきだけど……。このすごい手がずっと隠れていたら、りえの悲しい気持ちが減ったりするのかなぁ……?”と。彼は目に、大粒の涙をためながら、そう言ったのだ。
それからずっと、この長袖スタイルを貫いている。
この袖が、ヒナくんのひらめきが、私のことを守ってくれている。
お陰で全てが、順風満帆だ。
だから。
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「ヒナくんって、『おひさま』みたいなひとですよね」
「うん?」
突然の言葉に、目をぱちくりさせながらも、牧先生は首肯する。
「いろいろな、『ひかり』に飢えている者が欲するっていうか」
「……」
私はにっこり、極上の笑みを浮かべ、言う。
「私、よくばりなので。独り占め、してしまうかもです」
「――うまく、ゆくといいよね?」
牧先生は、表情だけは優しく微笑んでいたけれど、その声はほんの少しだけいつもより、温度が低めに感じられた。
私たちの静かな応酬なんてつゆしらず、ヒナくんは顧問をしているプログラミング部で、部員さんたちとのんびりお茶でもしているんだろうな。
【了】