第17話 暗い店内と白い光

文字数 2,320文字

 芽依はソファで小さくなるとそのまま眠ってしまった。鉄雄が近くにいると思うと安心できた。岡崎はどうして家まで来たのだろう。どうしてミルクティをくれたのだろう、とそんなことを考えているうちに夢の中だった。

 ブラックスーツのジャケットを脱いだだけで働いていたから、今日は女性客からよく話しかけられた。サブローはサンドイッチを作ったりして、接客は鉄雄がしていた。明け方になったので、サブローは片付けに入る。テーブルを拭いたり、ゴミをまとめたりした。
「今日は何だかお客が多かったわね。ブラックスーツ効果じゃない?」と鉄雄に声をかける。
「そんなのお客は来てみないと分かんないじゃない」
「明日も着て来たら? あたしもその姿は好きよ」
「あんたに言われてもちっとも嬉しくない」と鉄雄が迷惑そうに言った。
 片付けもあらかた済んだ時に、扉が開いて、男女の二人組が店に入ってきた。
「あ、もう…」とサブローが言いかけた時、鉄雄が手で制した。
「お疲れ」と声をかけたのは、男の方だった。
「お疲れ様…こんな時間にどうした?」と鉄雄は元カレに男の声で聞いた。
 横に所在なさげに立っていた女性に配慮したからだ。
「彼女を紹介したくて。今度、結婚する米田桃さん。僕の親友の神立鉄雄さんです」と言われて、鉄雄は頭を下げる。
 紹介された桃も頭を下げた。上品なウェーブの髪が揺れる。
「あ、先上がりますねー」とサブローはそう言って、事務所に戻って上着をとると、先に出て行った。
 サブローが出ていくのを見て、鉄雄は二人にシャンパンをグラスに入れて渡した。
「おめでとうございます」と鉄雄は言った。
 二人は受け取って幸せそうに微笑む。鉄雄はそんな二人を眺めながら、半年前までは隣にいた自分のことを思い出していた。
「彼女…どう?」
「どうって…美人で、素敵な人ですね。…どうぞお幸せに」
 自分ではちゃんと対応しているつもりだったが、勘の鋭い女性は不意に元カレを不安そうに見た。
「完璧な彼女なんだ」と元カレが彼女に微笑みかけながら言う。
 不安が消えたのか、また微笑み返している。いっそ暴露してやろうか、と鉄雄は一瞬思った。一体、何のつもりでここまで来たと言うのだ。でも鉄雄はかつてそうだったように、彼の前では気取った対応しか取れない。
「本当にお似合いです」
「今日は近くを通ったから…。じゃあ、元気で」
 それだけ言うと、二人は出ていった。残っているシャンパンを流しに捨てて、食洗機に放り込む。綺麗な別れ方をしたかもしれないが、気持ちはそこまで綺麗じゃない。湧き上がるドス黒いものを流すように流しに水をかけた。
 照明を落とし、内側から鍵をかけると、鉄雄は客席のソファに体を投げ出した。しばらくそのまま目を閉じて意識を失った。

 芽依は目が覚めて、毛皮のコートを羽織って、お店の方に顔を出した。鉄雄はまだ働いているのだろうか、と静かで暗い店内には誰もいないようだ。
「あれ?」
(まさか置いて行かれた?)と思いながら、芽依も出勤の時間もあるので、そろそろ家に帰らなければいけない。
 でもここの戸締りとか色々あるだろうから、芽依は暗い店内を携帯でライトをつけながら、見渡す。ソファに人影があったので、そっと近づいた。膝立ちをして綺麗な寝顔を覗き込む。ここで芽依が起きるまで待っていてくれたのだ、と思うと、胸が温かくなる。 
「鉄雄さん」と言って、肩を軽く叩いた。
「私、行かなきゃ…。鍵、どうします?」と小さな声で起こしてみた。
 いつも芽依が家に帰るとすぐに起きてくれるのに、困ったことに今日は起きてくれない。
「鉄雄さん…あの」
 少しも動かない横顔はまるで彫刻のようで、美しいけれど、死んでいるかと不安にもさせられる。
(プチラパンは…私の憧れなの)
 こめかみに薄く血管が浮き上がっている。薄い皮膚が透き通っていてそれすらも絵画のようだ。あの時の言葉が信じられない。
「こんな私でいいなら…代わってあげたいけど…」と言って、不意に涙がこぼれた。
 芽依だって、それなりに苦労もしたけれど、鉄雄の葛藤や辛さを考えると大したことないと思えた。それを乗り越えて、そしてこれからもその問題に向き合わなければいけない。どれほど辛いのだろう、と。だからこんなにも優しいんだ、と芽依は思ったら涙が止まらなくなった。
 声を出さずに泣いていたのだが、鉄雄が目を開けた。
「…泣いてるの?」
「え? 起きた…?」
 鉄雄が上体を起こすと、泣いている芽依を抱きしめた。
「ありがと」
 思いがけないことだったので、芽依は思わず「え? なんで?」と呟いてしまった。
「やだー。なんではこっちの台詞よー。なんで私の横で泣いてるの?」と言って体を離す。
「…よかった」
「え? 何が?」
「生きてて」
「は? 寝てただけでしょう?」と言って、鉄雄は立ち上がって、「さ、帰ろう」と言う。
 でも芽依は本当に生きててよかったと思った。それは今だけのことじゃなくて、今までのことを含めて、生きてて、そして鉄雄に会えてよかったと感謝した。
 鍵を閉めて、表に出るとさっきまで暗い店内にいたので、眩しい朝日に目がついていけない。目を擦っていると、鉄雄が「そんなに擦っちゃダメ」と優しく手を取られ、タクシーが走っていそうな大通りまで出る。
「あんた、ひどい顔してるから早く帰らないとね」
 大通りは朝日が全てを洗い流しているように道に光を落としていく。歓楽街の道端のゴミにも、ネオンが消えた看板にも、そして場違いな格好をしている二人にも白い光は平等に降り注いでいる。
「綺麗…」と芽依は呟いて、その道を眺めていた。
 鉄雄と一緒にいた、この時間の風景を一生忘れないように、そう思って道を眺めた。
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