第22話
文字数 5,381文字
アサとユキの部屋からは、カリカリとノートの上でシャーペンが走る音が響く。ごくたまに問題集をめくる音がする。紙がすれる音と音の合間には、窓際についている赤い緋色の風鈴が夜風に染み渡るように遠慮して鳴り響く。
アサはさっきからじっとシャーペンを動かせないでいた。夕飯を食べ、お風呂が沸くのを待つ間は、毎年勉強時間と決まっている。はじめに決めたのは、今まで来ていたお母さんたちだ。今年はお母さんが来ていないからやらなくてもいいと期待していたのだが、しっかりユキに言われて緑の座布団の上に座っている。
「……ユキぃー」
「何よ」
向かいに座っているユキはさっきからとてつもないスピードで問題を終わらせている。アサがやっと一枚問題集のページをめくったころには、ユキはその倍はページをめくっている。
「わかんないつまんない眠い飽きた!」
とりあえず自分の今の感情を愚痴ったが、ユキは目線を上げることもなくアサに応対する。
「わかったから、ちょっと待ってて。ここまでやったら今日の分終わりだから」
「今日の分って? もしかして全部予定立てたの?!」
身を乗り出すようにユキを見た。ユキはそれにも動じず一心不乱に数字でノートを埋め尽くしていく。
「当たり前でしょ。誰のせいだと思ってんのよ」
「えー? アサのせいなの? どうして?」
「あたしが夏休みの後半、自分の勉強できると思う? アサの宿題終わらせなきゃなんないのに。はい、終わり!」
最後に、ユキは計算式をざっと確認してから手を止めた。
「はー。で? どこまでやった?」
今度はユキが身を乗り出すようにアサのノートを覗き込んだ。
「どこ?」
「これと、これと……あ、あとここはできた」
問題集の問題をいくつか指差す。指を差さなかった問題の方が圧倒的に多い。
「ふうん……ま、こんなもんよね。どうする? 教える?」
ユキに聞かれて、机の上に散らかっている消しゴムのカスに目をやった。
「えー……今日はいいや」
毎日同じことを言われて同じセリフを言っている気がする。でも、島に来てまで宿題に時間を費やしたくないのだ。
「アサ、毎日同じこと言ってるわよ」
「だってさあ。まだ夏休み始まったばっかりだし……なんとかなるでしょ?」
「まあ、大丈夫だとは思うけど」
それから、ユキは立ち上がって思いっきり伸びをした。アサも体育座りしていた足を思いっきり伸ばす。
「じゃあ、これからどうする?」
「とりあえず、お風呂行こ! ……あ、あと、咲姫ちゃんも誘おう」
「そうね、昨日のお風呂はバラバラになっちゃったし。多分、直樹くんの部屋にいると思うわ」
二人には今日はまだほとんど会ってない。朝食のときに、寝癖がどうしても直らなかったような直樹と、いつも通り綺麗な茶色い髪をした咲姫に会ったが、それだけだ。そのあとはずっと外にいたから会わなかったのだ。
「あ、あとそうだ。言い忘れていたことがあるの」
「ん? なにー?」
アサは座ったまま、立っているユキを見上げると、ユキの顔が一瞬曇った。それから、ユキはアサの横にちょこんと座った。
「あのね、こないだ、あたし直樹の部屋にいたでしょ?」
「あ、いたねえ。直樹いなかったけど。何でかわかんないけど薫が直樹の部屋にいたときだよね?」
ユキは頷く。
「そう、そのとき。あの時ね、直樹くん庭にいたのよ。それで、あんまり自信無くしちゃってたみたいだから、咲姫ねえも直樹くんのこと好きみたいよって言っちゃったのよ」
「えっそしたら直樹何だって?」
ユキはアサからすっと目線を逸らした。そして、言いにくいような顔をしながら口を開いた。
「それが、えっとね、あたし自分のことでいっぱいだったから、直樹くんがその後どうしたか見てないのよ。直樹くんのことおいてきちゃったの。今考えると、言ってよかったのかもわからないし……ごめんね?」
ユキは謝るときだけアサの目をまっすぐ見た。ユキの目はいつもより真っ黒で綺麗に見えた。アサは、こういうユキの謝り方が好きだった。アサなんて謝ることはしょっちゅうだから、何も感じないのだが、ユキは謝ること自体が少ない。それは、決して強情だからとかいう理由なのではなく、単にユキは謝るような言動をしないからだ。だからこそ、たまにある謝らなければならないときになると、ユキは真剣に謝る。慣れてない口調で、慎重に言葉を選んで、ごめんね、と言う。そのときのユキはひどく心細いように見えるから、だからアサはいつも微笑んであげるようにしている。大丈夫だよ、とできる限り伝わるように。
「そっか。別にいいよ、そんなことで謝らなくても。それぐらいじゃ、直樹は動揺しないと思うし。動揺したとしても、直樹ならすぐ冷静に判断できるよ、多分」
笑いながら言うと、ユキはそれでもすっきりしない顔で口を動かした。
「あ、それもあるんだけど、あと……」
「んー? なあに?」
ユキはまた視線をさまよわせて、それからアサの目をもう一度覗きこんだ。
「あと、二人でやろうって言ってたのに、勝手に行動したわ。ごめんね」
思わずきょとんとしてしまった。そんなことで、謝られるとは思ってなかった。
「なんだ、そんなこと別にいいよー。気にしてないよ。じゃ、行こ?」
アサが立ち上がると、ユキも立ち上がった。少し、表情が緩んでいる。そのことに、アサもよかったと思う。ユキは、ちょっと繊細なとこがある。みんな、あんまり気がつかないけれど。
「直樹の部屋に何でいるって思うの?」
お風呂用具を持って、ドアに念のために鍵をかけながらユキを振り返った。ユキは、鍵を渡すように手を差し出しながらそれに答える。
「だって、咲姫ねえだったら絶対直樹くんの勉強みるわよ。ただ、そこに邪魔者がいる可能性もあるけど」
苦虫をつぶしたような顔を一瞬して、それからユキは隣の直樹の部屋をノックした。
「直樹くん? 咲姫ねえいるー?」
「あ、有姫?」
部屋の中から、咲姫の声がした。
やった! ユキの予想当たってた!
「咲姫ちゃん? 入ってもいいー?」
「あ、どうぞー」
咲姫が慌ててこちらに近寄るような気配がしたが、アサはそれよりも先にドアを開けていた。そして、スリッパを脱いで部屋の中に入る。
部屋の奥を覗くと、直樹が勉強道具を広げている。
「直樹ー!」
飛びつかんばかりに直樹に近寄ると、直樹はうっとうしそうに振り向いた。
「なんだよ、アサ、何も持ってきてないのかよ」
「何もって?」
「お菓子とかジュースとかってことでしょ」
あとから来たユキは直樹のノートに目を落とした。アサもちらっとノートに目をやる。ちゃんと書き込みがしてあって、ところどころ明らかに直樹の字ではない、整っていて少し丸っこい字が書き込みされている。
「はかどってる?」
「いや、まあ、ぼちぼち」
直樹は急にそわそわした様子でユキに返事をした。
何だろう……あ、もしかして、ユキに言われたこと思い出しちゃったのかな。
「咲姫ねえ、一緒にお風呂入る?」
「あ、みんなで入りに行くの? 楽しそう。じゃあ、わたし準備してこなくちゃ」
咲姫はウキウキとした足取りで自分の部屋に戻っていった。完全に咲姫の姿が見えなくなってから、ユキは直樹のすぐ横に座った。アサも反対側に座り込む。
「な、なんだよ」
二人に挟まれて直樹は少しぎょっとしたように身を引いた。
「直樹、進展したの?」
アサが真剣な目で直樹を見つめていると、直樹は少し困ったような顔をした。
「進展って別に……勉強教えてもらってるだけだけど」
「それじゃ、甘いわよ」
ユキがばっさり直樹を切り捨てる。
「こないだあたしが言ったこと忘れた? もっとぐんぐん進んじゃって大丈夫よ」
「そうだよう! 頑張んないと、いつまでたって付き合えないよ? アサも二人が付き合ってるとこ見たいよっ」
「お前ら絶対半分はからかってるだけだろ……」
ぐったりしたように直樹は机の上で顔をうずめた。
「あら、半分は本気ってことよ。あたしたちの本気なんて半分あればいいわよ」
「っていうかあ、本気になんなきゃいけないのは直樹だよー?」
直樹はその言葉にぴくっと体を動かしてそしてぴくりともしなくなる。
「直樹? 直樹ー?」
「俺だって、やってるよ。ただ、別に今じゃなくてもいいような気もすんだよ」
直樹は顔をうずめたままくぐもった声を出した。その様子に、アサは呆れてしまう。わが兄ながら、何てヘタレなのだろう。
「直樹一生ずっとそうやって言ってるかもよ? それで、そのうち咲姫ちゃんと会えないような仲になっちゃうかもよ?」
直樹の頭を手でくしゃくしゃにすると、直樹は「……やめろよ」と言ってむくりと顔を上げた。
「ったくもう。人が悩んでるんだからそっとしとけよ」
「直樹くんは悩みすぎよ。もっとパパッと行動しなさい」
ユキが直樹に命令すりように呟く。その様子が何だか変だったから、アサは少し笑ってしまう。
「何笑ってんだよ、安沙奈」
「えー? だってさあ年下の女の子に正論を言われてて、直樹だめだなあって」
「うるせえよ」
むくれたように直樹は呟きそれから立ち上がった。
「直樹くん?」
「自販機行ってくる。コーラ飲みてえ」
ジーパンの後ろのポケットに財布をつっこんで、直樹はドアに向かって歩き始めた。それから急に立ち止まる。
「有姫と安沙奈ちゃんまだいる? あ、どこか行くの?」
咲姫の姿は直樹がいるため見えないが、どうやら鉢合わせしたらしい。
「え、あ、ちょっとそこまで……」
直樹の気弱な声がして、すぐに直樹は咲姫の横を通り過ぎた。堪えきれなくなって吹き出す。
「あははっ、ちょっとそこまでだって! 直樹、慌てすぎ! せっかくカッコつけて出てったのにねえ」
体を揺らして笑っていると、ユキもおかしそうに口元を手で押さえていた。咲姫だけが何がおかしいのかわからないのか、ニコニコ笑ったままこちらにやってきた。
「どうしたの? 二人とも」
「あー、もう。こっちもこっちで鈍感だから困るのよ」
それから、三人で部屋を出てお風呂に続く廊下を歩く。暗い廊下をところどころで下の方に小さな照明が照らしている。
「ねえ、咲姫ちゃん、直樹のこと嫌い?」
「嫌い? どうして? 嫌いじゃないけど」
「じゃ、好き?」
今度はユキが咲姫に聞くと、咲姫は一瞬黙り込んだ。それから、困ったように笑う。
「どうなのかな……多分、どちらかっていったら好きなの。うん、好き。でも、こういうのってどちらかしか好きじゃないならあんまり意味ないし……」
「え、それなら直樹も好うっ?!」
後ろからユキに腕をつねられた。
「そうよね、そこが難しいのよね」
ユキは咲姫のことがよく分かるというように頷いている。どうやら、今のは言ってはいけなかったらしい。つねられた二の腕をさすりながら、余計なことを言ってしまった自分の口を呪う。
ユキはその後、お風呂に着くまで咲姫にいくつか質問をしていた。咲姫の返事を聞きながら、少し寂しくなった。全部、アサには心から共感できなかった。
アサは、そういう気持ちってよく分からない。
心の中でそっと呟く。咲姫が恥ずかしそうにユキに直樹のことをどう思っているか言えば言うほど、親身になって聞いているユキとは離れていっている自分を感じた。一人だけ、電車に乗り遅れてしまったような気持ちだ。夜の電車からは明るい光が漏れていて、ユキと咲姫はその電車に乗ることができるのだけれど、アサはその様子をホームでずっと見ているだけ。電車に乗る資格がないから。アサの上から電灯が機械的な光でホームの隅っこを照らしている。そして、電車は滑らかに、音も立てずに走り出してしまう。そんな、どうしようもない気分になった。
多分、いないと困るって思ったり、向こうの行動に一喜一憂したりするんだよね、好きになると。アサは、ユキにしかそんなこと思わない。それでいいって思ってたけど、それじゃだめなのかな。もっと周りを見たほうがいいのかな。このまま、ユキ一人だけってずっと決め付けているとどうなっちゃうのかな。
そこまで考えて、もうその答えは心の一番深いところ、自分でも気づきにくいようなところに落ちているのを見つけた。真っ黒く塗りたくられた心の内側の壁に、透き通ったビー玉のような答えが転がっている。持っていいのかもためらうほどの清らかさだった。まるで、持ったらそのまま手が火傷してしまうような、それほどの美しさ。ゆっくりと手を伸ばして拾い上げてみる。手は火傷しなかったけれど、冷たくて痛かった。そして、知りたくなかった答えがしんしんと浸透していく。
そんなの、もしそうなったら、独りになっちゃう以外ない。ユキは、きっとそれが分かってるんだ。だって周りが見えてるってことだよね、咲姫ちゃんの言葉がわかるってことは。アサがユキしか見えないとき、ユキはきちんと周りも見えてたんだ。アサだけを見ていたわけじゃなかった。
目の前でユキを乗せた電車が滑るように音も上げずに走り出す。もうきっと、泣き声をあげても、ユキには気づいてもらえない。見つけてもらえない。まだ独りになったわけじゃないけれど、未来がそうなら今なんてどうでもいいと初めて思った。今しかいらないと感じていた自分はいったいどこに行ってしまったのか。それすらも、分からなかった。
アサはさっきからじっとシャーペンを動かせないでいた。夕飯を食べ、お風呂が沸くのを待つ間は、毎年勉強時間と決まっている。はじめに決めたのは、今まで来ていたお母さんたちだ。今年はお母さんが来ていないからやらなくてもいいと期待していたのだが、しっかりユキに言われて緑の座布団の上に座っている。
「……ユキぃー」
「何よ」
向かいに座っているユキはさっきからとてつもないスピードで問題を終わらせている。アサがやっと一枚問題集のページをめくったころには、ユキはその倍はページをめくっている。
「わかんないつまんない眠い飽きた!」
とりあえず自分の今の感情を愚痴ったが、ユキは目線を上げることもなくアサに応対する。
「わかったから、ちょっと待ってて。ここまでやったら今日の分終わりだから」
「今日の分って? もしかして全部予定立てたの?!」
身を乗り出すようにユキを見た。ユキはそれにも動じず一心不乱に数字でノートを埋め尽くしていく。
「当たり前でしょ。誰のせいだと思ってんのよ」
「えー? アサのせいなの? どうして?」
「あたしが夏休みの後半、自分の勉強できると思う? アサの宿題終わらせなきゃなんないのに。はい、終わり!」
最後に、ユキは計算式をざっと確認してから手を止めた。
「はー。で? どこまでやった?」
今度はユキが身を乗り出すようにアサのノートを覗き込んだ。
「どこ?」
「これと、これと……あ、あとここはできた」
問題集の問題をいくつか指差す。指を差さなかった問題の方が圧倒的に多い。
「ふうん……ま、こんなもんよね。どうする? 教える?」
ユキに聞かれて、机の上に散らかっている消しゴムのカスに目をやった。
「えー……今日はいいや」
毎日同じことを言われて同じセリフを言っている気がする。でも、島に来てまで宿題に時間を費やしたくないのだ。
「アサ、毎日同じこと言ってるわよ」
「だってさあ。まだ夏休み始まったばっかりだし……なんとかなるでしょ?」
「まあ、大丈夫だとは思うけど」
それから、ユキは立ち上がって思いっきり伸びをした。アサも体育座りしていた足を思いっきり伸ばす。
「じゃあ、これからどうする?」
「とりあえず、お風呂行こ! ……あ、あと、咲姫ちゃんも誘おう」
「そうね、昨日のお風呂はバラバラになっちゃったし。多分、直樹くんの部屋にいると思うわ」
二人には今日はまだほとんど会ってない。朝食のときに、寝癖がどうしても直らなかったような直樹と、いつも通り綺麗な茶色い髪をした咲姫に会ったが、それだけだ。そのあとはずっと外にいたから会わなかったのだ。
「あ、あとそうだ。言い忘れていたことがあるの」
「ん? なにー?」
アサは座ったまま、立っているユキを見上げると、ユキの顔が一瞬曇った。それから、ユキはアサの横にちょこんと座った。
「あのね、こないだ、あたし直樹の部屋にいたでしょ?」
「あ、いたねえ。直樹いなかったけど。何でかわかんないけど薫が直樹の部屋にいたときだよね?」
ユキは頷く。
「そう、そのとき。あの時ね、直樹くん庭にいたのよ。それで、あんまり自信無くしちゃってたみたいだから、咲姫ねえも直樹くんのこと好きみたいよって言っちゃったのよ」
「えっそしたら直樹何だって?」
ユキはアサからすっと目線を逸らした。そして、言いにくいような顔をしながら口を開いた。
「それが、えっとね、あたし自分のことでいっぱいだったから、直樹くんがその後どうしたか見てないのよ。直樹くんのことおいてきちゃったの。今考えると、言ってよかったのかもわからないし……ごめんね?」
ユキは謝るときだけアサの目をまっすぐ見た。ユキの目はいつもより真っ黒で綺麗に見えた。アサは、こういうユキの謝り方が好きだった。アサなんて謝ることはしょっちゅうだから、何も感じないのだが、ユキは謝ること自体が少ない。それは、決して強情だからとかいう理由なのではなく、単にユキは謝るような言動をしないからだ。だからこそ、たまにある謝らなければならないときになると、ユキは真剣に謝る。慣れてない口調で、慎重に言葉を選んで、ごめんね、と言う。そのときのユキはひどく心細いように見えるから、だからアサはいつも微笑んであげるようにしている。大丈夫だよ、とできる限り伝わるように。
「そっか。別にいいよ、そんなことで謝らなくても。それぐらいじゃ、直樹は動揺しないと思うし。動揺したとしても、直樹ならすぐ冷静に判断できるよ、多分」
笑いながら言うと、ユキはそれでもすっきりしない顔で口を動かした。
「あ、それもあるんだけど、あと……」
「んー? なあに?」
ユキはまた視線をさまよわせて、それからアサの目をもう一度覗きこんだ。
「あと、二人でやろうって言ってたのに、勝手に行動したわ。ごめんね」
思わずきょとんとしてしまった。そんなことで、謝られるとは思ってなかった。
「なんだ、そんなこと別にいいよー。気にしてないよ。じゃ、行こ?」
アサが立ち上がると、ユキも立ち上がった。少し、表情が緩んでいる。そのことに、アサもよかったと思う。ユキは、ちょっと繊細なとこがある。みんな、あんまり気がつかないけれど。
「直樹の部屋に何でいるって思うの?」
お風呂用具を持って、ドアに念のために鍵をかけながらユキを振り返った。ユキは、鍵を渡すように手を差し出しながらそれに答える。
「だって、咲姫ねえだったら絶対直樹くんの勉強みるわよ。ただ、そこに邪魔者がいる可能性もあるけど」
苦虫をつぶしたような顔を一瞬して、それからユキは隣の直樹の部屋をノックした。
「直樹くん? 咲姫ねえいるー?」
「あ、有姫?」
部屋の中から、咲姫の声がした。
やった! ユキの予想当たってた!
「咲姫ちゃん? 入ってもいいー?」
「あ、どうぞー」
咲姫が慌ててこちらに近寄るような気配がしたが、アサはそれよりも先にドアを開けていた。そして、スリッパを脱いで部屋の中に入る。
部屋の奥を覗くと、直樹が勉強道具を広げている。
「直樹ー!」
飛びつかんばかりに直樹に近寄ると、直樹はうっとうしそうに振り向いた。
「なんだよ、アサ、何も持ってきてないのかよ」
「何もって?」
「お菓子とかジュースとかってことでしょ」
あとから来たユキは直樹のノートに目を落とした。アサもちらっとノートに目をやる。ちゃんと書き込みがしてあって、ところどころ明らかに直樹の字ではない、整っていて少し丸っこい字が書き込みされている。
「はかどってる?」
「いや、まあ、ぼちぼち」
直樹は急にそわそわした様子でユキに返事をした。
何だろう……あ、もしかして、ユキに言われたこと思い出しちゃったのかな。
「咲姫ねえ、一緒にお風呂入る?」
「あ、みんなで入りに行くの? 楽しそう。じゃあ、わたし準備してこなくちゃ」
咲姫はウキウキとした足取りで自分の部屋に戻っていった。完全に咲姫の姿が見えなくなってから、ユキは直樹のすぐ横に座った。アサも反対側に座り込む。
「な、なんだよ」
二人に挟まれて直樹は少しぎょっとしたように身を引いた。
「直樹、進展したの?」
アサが真剣な目で直樹を見つめていると、直樹は少し困ったような顔をした。
「進展って別に……勉強教えてもらってるだけだけど」
「それじゃ、甘いわよ」
ユキがばっさり直樹を切り捨てる。
「こないだあたしが言ったこと忘れた? もっとぐんぐん進んじゃって大丈夫よ」
「そうだよう! 頑張んないと、いつまでたって付き合えないよ? アサも二人が付き合ってるとこ見たいよっ」
「お前ら絶対半分はからかってるだけだろ……」
ぐったりしたように直樹は机の上で顔をうずめた。
「あら、半分は本気ってことよ。あたしたちの本気なんて半分あればいいわよ」
「っていうかあ、本気になんなきゃいけないのは直樹だよー?」
直樹はその言葉にぴくっと体を動かしてそしてぴくりともしなくなる。
「直樹? 直樹ー?」
「俺だって、やってるよ。ただ、別に今じゃなくてもいいような気もすんだよ」
直樹は顔をうずめたままくぐもった声を出した。その様子に、アサは呆れてしまう。わが兄ながら、何てヘタレなのだろう。
「直樹一生ずっとそうやって言ってるかもよ? それで、そのうち咲姫ちゃんと会えないような仲になっちゃうかもよ?」
直樹の頭を手でくしゃくしゃにすると、直樹は「……やめろよ」と言ってむくりと顔を上げた。
「ったくもう。人が悩んでるんだからそっとしとけよ」
「直樹くんは悩みすぎよ。もっとパパッと行動しなさい」
ユキが直樹に命令すりように呟く。その様子が何だか変だったから、アサは少し笑ってしまう。
「何笑ってんだよ、安沙奈」
「えー? だってさあ年下の女の子に正論を言われてて、直樹だめだなあって」
「うるせえよ」
むくれたように直樹は呟きそれから立ち上がった。
「直樹くん?」
「自販機行ってくる。コーラ飲みてえ」
ジーパンの後ろのポケットに財布をつっこんで、直樹はドアに向かって歩き始めた。それから急に立ち止まる。
「有姫と安沙奈ちゃんまだいる? あ、どこか行くの?」
咲姫の姿は直樹がいるため見えないが、どうやら鉢合わせしたらしい。
「え、あ、ちょっとそこまで……」
直樹の気弱な声がして、すぐに直樹は咲姫の横を通り過ぎた。堪えきれなくなって吹き出す。
「あははっ、ちょっとそこまでだって! 直樹、慌てすぎ! せっかくカッコつけて出てったのにねえ」
体を揺らして笑っていると、ユキもおかしそうに口元を手で押さえていた。咲姫だけが何がおかしいのかわからないのか、ニコニコ笑ったままこちらにやってきた。
「どうしたの? 二人とも」
「あー、もう。こっちもこっちで鈍感だから困るのよ」
それから、三人で部屋を出てお風呂に続く廊下を歩く。暗い廊下をところどころで下の方に小さな照明が照らしている。
「ねえ、咲姫ちゃん、直樹のこと嫌い?」
「嫌い? どうして? 嫌いじゃないけど」
「じゃ、好き?」
今度はユキが咲姫に聞くと、咲姫は一瞬黙り込んだ。それから、困ったように笑う。
「どうなのかな……多分、どちらかっていったら好きなの。うん、好き。でも、こういうのってどちらかしか好きじゃないならあんまり意味ないし……」
「え、それなら直樹も好うっ?!」
後ろからユキに腕をつねられた。
「そうよね、そこが難しいのよね」
ユキは咲姫のことがよく分かるというように頷いている。どうやら、今のは言ってはいけなかったらしい。つねられた二の腕をさすりながら、余計なことを言ってしまった自分の口を呪う。
ユキはその後、お風呂に着くまで咲姫にいくつか質問をしていた。咲姫の返事を聞きながら、少し寂しくなった。全部、アサには心から共感できなかった。
アサは、そういう気持ちってよく分からない。
心の中でそっと呟く。咲姫が恥ずかしそうにユキに直樹のことをどう思っているか言えば言うほど、親身になって聞いているユキとは離れていっている自分を感じた。一人だけ、電車に乗り遅れてしまったような気持ちだ。夜の電車からは明るい光が漏れていて、ユキと咲姫はその電車に乗ることができるのだけれど、アサはその様子をホームでずっと見ているだけ。電車に乗る資格がないから。アサの上から電灯が機械的な光でホームの隅っこを照らしている。そして、電車は滑らかに、音も立てずに走り出してしまう。そんな、どうしようもない気分になった。
多分、いないと困るって思ったり、向こうの行動に一喜一憂したりするんだよね、好きになると。アサは、ユキにしかそんなこと思わない。それでいいって思ってたけど、それじゃだめなのかな。もっと周りを見たほうがいいのかな。このまま、ユキ一人だけってずっと決め付けているとどうなっちゃうのかな。
そこまで考えて、もうその答えは心の一番深いところ、自分でも気づきにくいようなところに落ちているのを見つけた。真っ黒く塗りたくられた心の内側の壁に、透き通ったビー玉のような答えが転がっている。持っていいのかもためらうほどの清らかさだった。まるで、持ったらそのまま手が火傷してしまうような、それほどの美しさ。ゆっくりと手を伸ばして拾い上げてみる。手は火傷しなかったけれど、冷たくて痛かった。そして、知りたくなかった答えがしんしんと浸透していく。
そんなの、もしそうなったら、独りになっちゃう以外ない。ユキは、きっとそれが分かってるんだ。だって周りが見えてるってことだよね、咲姫ちゃんの言葉がわかるってことは。アサがユキしか見えないとき、ユキはきちんと周りも見えてたんだ。アサだけを見ていたわけじゃなかった。
目の前でユキを乗せた電車が滑るように音も上げずに走り出す。もうきっと、泣き声をあげても、ユキには気づいてもらえない。見つけてもらえない。まだ独りになったわけじゃないけれど、未来がそうなら今なんてどうでもいいと初めて思った。今しかいらないと感じていた自分はいったいどこに行ってしまったのか。それすらも、分からなかった。