エピローグ

文字数 3,505文字

 銃口——つまり、指先を向けられていた。

「バキュンッ!」

 秋冬の残り香などという、いかがわし気な名前の店。その小上がりの席で、両手を組んで作ったその拳銃に撃たれた瞬間、あ、と思った。記憶のどこか奥の方の、はたまた隅っこの方の極々(ごくごく)狭い部分が刺激された気がした。

 違う。バキュンじゃない——。

 秋冬の残り香——その店名に関係がある?。
 名前よりも一瞬だけ先に、その人の顔が思い浮かんだ。

秋庭(あきば)真冬(まふゆ)——」

「そうそう、その子だ! もともとあの子が、芸能界をやめて、最初に始めた店がここだったんだよ。アイドル時代からのファンや芸能関係者でいっつも満員だったんだ。彼女の個人的な人気もすごかったけど、料理の方も絶品だったからね。新しいオーナーが居抜きでこの店を始めたんだけど、今じゃ店名にだけ無駄に名残りがあるだけだ。味もメニューも雰囲気もすっかり変わっちゃったよ。店名も今のオーナーが付けたんだけど、センス無いよなあ。残り香って、なんか厭らしくないか? 店の名前を変えろって、前から言ってるんだけど聞かないんだよ」

 秋庭真冬——。
 かつて時代を席捲したアイドルグループのキャプテンだった人だ。
 世代的には少し上のアイドルだけれど、それでもよく知っている。それだけ幅広い層から愛された国民的アイドルだった。

 でも。
 このとき思い出していた顔は、アイドル時代の彼女のものではなかった。
 各務次長に連れて行ってもらったあの店。そう、「夏雪」。
 和装できれいにまとめた髪。
 アイドルのような——。
 人のハートを射抜くような——。
 どこか見覚えがあるのような——。
 あの女将……。

 知らぬ間に微笑んでいる自分に気がついた。
 ああ。どうして今まで気づかなかったのだろう。
 いや。どうして今頃になって気づいたのかと言うべきか。

「この店を畳んで、どこかに引っ越しちゃったんだよ。ほら、誰だっけ。元お笑い芸人の。あー、やっぱり名前が出て来ない。ヒムラでもない、シタラでもない。まあ、ともかく、その芸人やめた男に着いて、東京から出て行っちゃったんだよ。もったいないよなぁ。芸能界でもまだまだやってけたのにさぁ。今頃どうしてるんだろうなぁ。またあの出汁巻き玉子が食べたいなぁ」

 偶然なのだろう。
 けれど——。
 このときの店が、秋庭真冬の元の店でなかったら、ラジオの仕事は断っていたと思う。
 もちろんオファーを受ける理由になんかなっていないことは、自覚している。

 それでも——。

 偶然と縁とは違うのだろうか。
 なんとなくだけど、違うように思う。
 なんとなくだけれど、重なる部分があるようにも思う。
 
 秋庭真冬——彼女の印象が悪ければ、それは断る理由になっていたはずだ。
 幸か不幸か。
 彼女の顔を、アイドルではなく、小料理屋の女将としての彼女の顔を思い浮かべたとき、不思議とこの話を受けてみようという気持ちになってしまったのだ。

 あれから一年。このラジオ番組が始まってから三つの季節が過ぎ、四つ目の季節になろうとしている。
 全く無名の三十路の女が喋っているだけの、ど深夜のローカルFMラジオ番組「あなたは今も、」。

 誰かが聴いてくれているなんていう実感は何もないまま、マイクに向かって喋り始めた。そんな番組にも、ぽつぽつとメールが届くようになった。時々、どこかの誰かがSNSで感想を呟いてくれたりするようにもなった。

 正直なところ、何で聴いてくれているんだろうとさえ思ったりもする。けれど、声が好きだとか、落ち着いた雰囲気が好きだとか褒めてもらえると、やっぱり嬉しい。

 この仕事を引き受ける上で、少しだけわがままな条件を出させてもらった。
 公開するプロフィールは、ニックネームであるハナエという名前と、三十路の女であるということだけにするということ。局のホームページやSNSも含めて、顔も本名も一切表に出さない。そして、番組名を決める際には、少しだけ希望を述べさせて欲しいということ。

「いいよ。ハナエちゃんの声に惚れ込んで、お願いしたんだから」

 その人は快く了承してくれた。

「でも、ハナエって本名じゃなかったんだっけ? 花絵ちゃんだとばっかり思ってたけど」

 だから、画像検索しても基本的にはヒットするものはない。するのは赤の他人ばかりだ。勝手に想像してくださいというスタンスでやっている。

 スマホでラジオを聴く時代。日没よりも夜明けが近い深夜帯だし、リアルタイムで聴いている人ばかりとも限らない。昼休みにタイムフリーで聴いている。そんな酔狂なリスナーからメールが届くこともある。

 一方で、生放送だから番組放送中に届いた、事前に打ち合わせのないメールを紹介することも多い。番組の終盤になると、大抵はそうだ。

 もちろん昼間に聴いてくれる人たちも大切だ。ありがたいことだと思う。それでもやっぱり、この草木も寝静まった特別感のある時間帯を、リアルタイムで共有しているリスナーを贔屓(ひいき)にしたくなるのも人情だ。

 あの日、放送も終わりが近づいた頃。いつものように番組中に届いたメールを一通、渡された。

「さて。今夜も生放送でお送りしています『あなたは今も、』。今夜、最後のメールを紹介しますね。ラジオネーム、チョココロネは黄金比……さん……」

 なんだ、これ?
 このラジオネーム……。
 本名は?
 どこにもそれらしき記載はない。

 この世の中に、こんなことを言う人が二人もいるだろうか?
 でも、彼であるはずがない。
 これも偶然のひとつなのか。

 かつて、チョココロネが大好物の男性を好きになったことがある。正しく焼き上げたチョココロネの形状は黄金比に支配されている。そんな馬鹿を真顔で言う人。
 中華料理店に行けば天津飯ばかり。
 普段は頼りになる大人の男のくせに、食べ物の嗜好が妙に子どもっぽい人。

 霞がかかったような曖昧な過去。
 まるで他人の記憶を持っているかのような、頼りなげな思い出。

 ううん——。
 本当はよく憶えている。
 
 でも。
 
 だから。
 
 思い出せないように自分で霞をかけて生きてきた。
 
 おまけに頑丈な箱に入れて、厳重に鍵を掛けて。

 それはパンドラの箱か玉手箱か。
 
 開けてはいけない。
 
 我に返ると、イヤホンにはディレクターが名前を呼ぶ声。視線を向けると、懸命に手を振っている。
 ああ。沈黙が長過ぎると放送事故になってしまう。

 何か、声を出さなきゃ。

「ご、ごめんなさい。ちょっと、マイクの調子が悪かったかな」

 誤魔化しながらディレクターに手を合わせて、頭を下げた。
 向こうは安堵の表情を浮かべて、右手を上げた。

 読まずにこのままフリートークで終わらせようか。
 でも、もうラジオネームは読んでしまった。

 読まないわけにはいかないだろう。

「えっと。もう一度、チョココロネは黄金比さん。男性の方です。偶然ですね。昔、これと同じことを言ってた人を知ってます。ちょっと、いや。かなり変わった人でした。チョココロネは黄金比さんもきっと変わった人なんでしょうかね。機材がびっくりしたみたいです。失礼しました」
 
 でも。

 もし彼なら。

 でも。

 そんなはずはない。

 でも——。
 
 とにかく、読まなきゃ。
 仕事なんだから。

 どうってことはない。
 ありきたりなメールのひとつ。
 そうに違いない。

 軽く息を吸って、吐いた。
 大丈夫。

『ハナエさん、はじめまして。

 長らくラジオなんて聴くことはなかったんですが、先日、久しぶりに会った知人と、家で夜遅くまで酒を飲む機会があったんです。

 酒が進んで、話題も尽きて来たなぁって頃になって、その友人が沈黙を埋めるためにラジオでも聴いてみようと言い出したのがきっかけで、この番組『あなたは今も、』を知りました。

 僕には長年思い続けている女性がいます。
 昔、酷い別れ方をして、それっきりになってしまった女性です。
 連絡先も変えられてしまって、どこで何をしているのか。

 酷い別れ方というのは、僕が酷かったという意味です。彼女は何も悪くない。

 彼女を救い出してあげられなかった、そうするだけの力の無かった僕が悪いんです。
 独りよがりで、勇気のなかった僕が悪いんです。

 ハナエさんの声を聴いていると、その人の顔が浮かんできます。
 ずっと探していた女性に再会できた。
 そんな気がします。

 その人は、一目ぼれしちゃうくらいに笑顔が可愛くて、僕より歳下のくせに中身はずっと大人で、そのくせ泣き虫で、どうも雨女のきらいがあって、なのに、もしかしたら雨宿りが好きなんだろうかって思うほど、雨のときに傘を持っていないことが多くて——、』




「あなたは今も、」《完》
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