第1話

文字数 3,857文字



 「ごめん。遅れた!」
 達也はその決まり来たフレーズを白い歯の奥から吐き出した。彼の遅刻癖にうんざりしていないわけではなかったが、それを指摘することは全くの〝タイムロス〟であることは、2年にもなる付き合いからわかりきっていた。
「大丈夫! 私もさっき来たところ」
「良かった。じゃあ行こうか。ってか、お前整形した?」
達也は私の顔を覗き込みながら言った。馬鹿だな。そんなことを女の子に聞くか、普通。「自称モテ男」なら、その質問がダメなことくらいわかってなきゃおかしいでしょ。
 私の返答を待つ彼の顔には、いつもと違って無精ひげなど無く、幾分かの小綺麗さがあった。いやに整えられた眉がぴくぴくと動いている。その下に構える大きな目の奥では、暗闇がどこまでも続いている感じがした。私を見るそれは焦点が合っておらず、別の何かを捉えているようだ。
 この男は、今夜私に告白する。それは最も確からしい。

 私たちは四谷のイタリアンレストランに入った。もちろん彼が予約したお店である。店内はさほど広くなかったものの、うまい具合に高低差がつけられているフロアは、実際の面積よりも数倍大きく見えた。間接照明だけで空間が照らされているおかげで、鋭いものは全て丸みを帯びていた。
「ここ、高そうに見えるだろ? めちゃくちゃ安いんだ、実は」
聞いてもいないのに、達也はひとりでに話し始めた。私は「そうなんだ!」と、なるべく興味ある風を装っておいた。めちゃくちゃ安い店ってバラしちゃっていいの? あなた、私にこれから告るのよ? ちょっとはお金あるってことアピらないと振られるわよ。
 席に着くなり、ウェイターが飲み物のオーダーを取りに来たので、私たちは二人ともビールを頼んだ。達也は「で」という言葉を小刻みに数回発してから、最近どうなの、と聞いた。
「最近ね~。レポートでずっと忙しかったけど、やっと研究室も決まったし、はやく4年生になりたいって感じかな」
「そっか、理系って研究室4年からなんだもんね。俺はもうゼミで先輩にしごかれてるよ。毎週、文献のレビューやんなきゃいけなくて、本当疲れるよ。で、どこの研究室行くの?」
「私は、理論物理学の研究室。先輩もすごい人多くて、NASA行った人もいるみたい」
「なさ? あの、宇宙の? ロケットの?」
「その、宇宙の。ロケットの」
 そうこうしているとビールが運ばれてきたので、私たちは乾杯した。おつかれ~、うぇ~い、という大学生のノリが店内に少し響いてしまったことに、私は少し恥ずかしくなった。達也は既にメニューを吟味しながら、ちょびちょびとビールをすすっている。
「ここのイカ墨パスタがめちゃくちゃ美味いらしいよ。俺、食っていい?」
一段と目を輝かせながらそう聞いてきた達也に、私は、お好きにどうぞ、と答えた。こいつは、もしこの後、キスすることになる場合なんかを考えていないのだろうか?
「じゃあ、私はマルゲリータにする」
 待ってましたと言わんばかりに、彼はすぐさまウェイターを呼びだした。
「えっと~、イカ墨パスタ季節の野菜添えと、マルゲリータピッツァと、ブラックオリーブサラダ、あとはミニトマトのマリネに、エスカルゴのアヒージョ、あ~ポテト食っていい? じゃあ、ポテトフライのバジルソースを一つと、チーズ4種盛り。以上で!」
 店員が注文を確認する間、彼は「足りないかな?」と小声で聞いてきた。「いや、多いわ」と言いかけて、「大丈夫」と答えた。私はだんだんと彼の暴走を眺めるのが癖になってきていた。彼はこれから数時間、無理をし続けるのだ。きっと胃に食べ物が入らなくなっても「食える! 大丈夫!」と言うし、フラフラに酔っぱらっても「まっすぐ歩けるから!」と言うのだろう。緊張が自らをさらなる窮地に追いやっていることに気付くこともなく。なんと健気だろう。

 それから達也は案の定、いつもにも増したペースで酒を煽り続けた。料理が到着する前に二杯目のビールを注文し、つまみを食べながら「ワイン飲みたくね?」と赤のボトルを注文、イカ墨パスタを喉に流し込むのに、ハイボールまで注文する始末だった。一時間ほどで彼は完全に出来上がり、私の親友をディスるほどになった。一方で私は、大事な言葉を言われるまでは正気を保っておこうと思っていたから、ちっとも面白くない親友への悪口をほぼシラフで聞いていなければならなかった。しかし、どうにか私を笑わせようとしているのだけは確かで、その一生懸命さに私は積み上げていた彼への否定的な感情を崩されるのだった。
 ワインも終盤に差し掛かり、次のボトルを頼もうか、あるいは別の店に移動しようか迷っている時、達也は突如「あのさ、」と言った。遂に来た、と思った。「あのさ」で始まる文章の中で告白の割合はそこまで大きくないだろうが、告白が「あのさ」で始まらない割合もそこまで大きくないはずだ。それに、この一軒目終盤というタイミング、酔いも少し覚めてきた頃合い。間違いない。来る。
「あのさ、実はさ、色々考えてて、」
私は彼をこれ以上緊張させまいと、うん、と軽い返事をした。
「なんというか、う~ん。言いづらいんだけど」
「そういうのは自分でハードル上げる前に言うのが得策よ」私は〝気の使える女〟を意識してそう言った。
「その、俺、告白すんのやめるわ。」
ちょっと待って。どういうこと? 告白をやめる? あんだけ緊張しておいて? それに、告白する相手に「告白やめるわ」って、サプライズする相手に「サプライズだよ」って言うのと同じくらい馬鹿げてない? ってか、私の気持ちはどうなんのよ。なんで? なんで?
「え~、ちょっと告白しようとしてたの~?」
 私はどうにかその茶目っ気だけをテーブルに放り出して、ワイングラスの中身を飲み干そうとした。そこにはもう一口もワインは残っていなかった。彼は私の言葉を拾うことなく、続けた。
「玲がサークルやめてからも、俺たちずっと遊んでるじゃん。一緒に遊んでて趣味合うなぁと思うし、正直、玲が彼氏と別れた時はめっちゃ嬉しかったんよ。」
 達也は告白をやめるという告白をしてから、やけに吹っ切れたようだ。淡々と話す彼の様を見ていると、どうしようもない恐怖を感じた。殺人鬼が、愛しているからという理由で交際相手を殺すような、そんな怖さだった。
「それから、より遊ぶようになって、なんというか俺たちセックスだってしたし、玲とは誰よりも彼氏彼女らしい遊び方してるんだよね。」
「で?」
私は、何か言葉を発しないと、私の中の淀んだ感情が私を飲み込んでしまうような気がして、普段より低めの声でそう言った。
「で、、、なんつーか、俺はもちろん玲のこと好きなんだけど、付き合ってしまったら全てが終わってしまう気がするというか。」
「ちょっとさっきから何が言いたいのかわかんない。」
「ごめん。そうだよな。俺もよくわかってないんだよ。話まとまってなくてごめんな。」
違う。そうじゃない。私は達也のこと責めたいんじゃない。達也が悪いんじゃない。きっと、期待してた私が悪いの。どうしてこうなの、私って。どうせ告白されたって「考えさせて」って言うつもりだったのに。余裕のある女のはずだったのに。私、どうしてこんなに悲しいの?
「結論、俺たちは付き合うべきじゃなくて、愛の言葉なんか口にすべきじゃなくて、この関係性をガラリと変えてしまうようなことをすべきじゃないってこと、なんだと、思う、多分。いや~なんか暗くなっちゃったな! ごめん、ごめん。俺たちいつも通り続けていけばいいんだよ! 俺が余計なこと言ったからいけなった。ほんと、今のナシ!」
達也は何故か泣きそうで、それを隠すように陽気に振舞っているように見える。

 これだったのか。達也は最初から告白のために緊張していたわけじゃない。むしろ緊張してたのは、私だったんだ。達也の目の奥の影は、私が告白を待ち構えている様子を写した鏡だったんだ。料理を頼みすぎたのも、お酒を飲み過ぎたのも、全部私に気を使ってやってたんだ。達也はそういう男なのだ。なんだ、私こいつのこと全然知らなかったんじゃん。
「玲?」
 顔を上げると達也が心配そうな顔つきをしている。痛い。唇から血が出ている。口の中が鉄の味でいっぱいになる。さっきまで心配していたニンニク臭さなどもうどこにも無かった。あるのはただ、人間の味だった。



 お店を出ると、ちょうど目の前の居酒屋から出てきたサラリーマンが道端に嘔吐した。緑色だった。店の看板には「カレー居酒屋 よっちゃん」と書いてある。グリーンカレーでも食べたのだろうか。
「玲、行くぞ!」
 達也が私の手を引っ張る。達也の手はとても大きい。バスケットボールを片手で掴めると以前自慢されたことがある。子供が出来たら、その大きな手は小さな頭蓋骨を覆ってしまうに違いない。
「今日、すげえ楽しかったな! 玲も?」達也はもう真っ直ぐ歩けていない。
「うん! 私も久しぶりに笑い過ぎて、頬が痛い。」
「そうか~! また近いうち飲み行こうな!」
「当たり前でしょ。すぐ連絡するね。」
達也は、おう、と威勢よく言うと、流行り歌を口ずさみながら私の肩に手を回した。

 駅までの通りは、これまでで一番長い道のりだった。まるで私だけが、重力の低い星に飛ばされて、時間を引き延ばされているようだった。全ての物事はゆっくりと動いていたが、しかし確実に何かが変化していた。私はそれに気づくことは出来ない。どこまでも、私は一人で彷徨っていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み