第2話
文字数 2,864文字
私と礼子さんが二人でキャンパスを歩いていると、あるC女子が礼子さんに近づき、
「そのお洋服、素敵ね。どこのブランド?」
と、尋ねた事がありました。
礼子さんは、背は私と同じ百六十センチくらいでしたが手足が長く、細くてしなやかな体つきでした。
服はたいてい白シャツやタートルネックのカットソーなど、よくある定番の服を着ましたが、礼子さんはいつも、どんな服を着ていても自分の気に入ったものを身につけているのがわかります。
礼子さんは尋ねたC女子に、
「どこのブランドかは知らないけど、私の服よ」
と、答えました。
これみよがしにブランド品を身につけるC女子たちに、自分の好みや意思を装いにするのが本当のおしゃれだと礼子さんが返答したみたいで、横にいた私はスカッとしました。あの新入生歓迎会以来、私は彼女たちが身につけるブランド品にもいい印象を持っていなかったのです。
「ママがさ、祥子 ちゃんに食べられないものがあれば教えて欲しいって」
と、礼子さんは私にいいました。私が彼女の家へ初めて遊びに行く時の事です。
キャンパスから二駅のところの、駅から続く商店街近くに七階建てのマンションがあって、当時の礼子さんはその最上階にママと二人暮らしでした。
4LDKの贅沢な間取りでした。礼子さんの部屋は、私の下宿のワンルームがすっぽりおさまりそうな広い広い洋室でした。
「
と、礼子さんはいいました。
あめ色に光る床にアンティークのシャンデリアが幻想的にうつっていました。天蓋付きのベッドやマホガニーのカウチ、ねこ足のチェストがあって、私は図書館のレーザーディスクで見た『去年マリエンバートで』のホテルみたいだと思いました。
ウォークインクローゼットには洋服がずらりとかけられていました。東京にいた頃におばさんからプレゼントされたストールや帽子もありました。
「
大阪に来てから毎週のように二人で梅田や心斎橋へ出かけてデパートで洋服を買っている、と礼子さんはいいました。
洋服を選ぶ時、お互いの趣味の違いからいい争いがはじまりそうになるとママが両方買ってしまう、と、少し困った顔をします。それでもお気に入りの服にはうれしそうに微笑んで、
「これは、
と、礼子さんは白いワンピースを見せてくれました。
黄色味がかったスキムミルクホワイトの、手触りのいい生地の服でした。すっきりしまったウエストから軽やかに広がる膝丈のフレアスカートが女の子らしいシルエットのフォーマルドレスです。高校の卒業祝にわざわざ上京したおばさんが、礼子さんを銀座の洋裁店へ連れて行って仕立てた服だそうです。
たくさんの洋服に囲まれた礼子さんを見ていると私はふと、一年の歓迎会を思い出しました。
洋服やバッグやアクセサリーに凝るC女子たちも、ファッションを通してママとつながっているみたいでした。
ジバンシィのニットを着た典子は立派な腕時計をしていました。私が典子の時計に目を奪われていると、
「典子ちゃんの時計、ブルガリなの。素敵でしょ」
と、知美がいいました。「あれ、典子ママのお下がりなんだよ」
さらに知美は理世に、
「今日のイヤリングもママの?」
といい、理世は頷きます。
知美は「理世ママは生粋のシャネラーなの。理世ちゃんのバッグ、ママとお揃いなんだよ」と、羨ましそうにいいます。
理世は、シャネルのチェーンバッグからキティちゃんの化粧ポーチを取り出して、
「でもママはね、口紅とかは買ってくれないの。化粧品はメードインジャパンなの」
と、口をとがらせ、ゲランのコンパクトを開きました。
理世ママだとか、典子ママとかいって、彼女たちの会話に登場する母親は友だちみたいでした。
私は、C女子ほど洋服にもバッグにも関心がありませんでした。実家は祖父の代から続く紙製品の工場で、C女子のように娘にブランド品を買い与えるほど家が裕福ではない事もあったけれど、そもそもファッションに関心がない。自分はどう着飾ってもかわいくないし、高級品を身につけるような価値が自分にはないと思って、つまり自己評価がひどく低かったのです。
そんな私はC女子たちをちゃんとした母親に育てられた娘だと思いました。
ちゃんとした母親なら、娘にまともな愛情を注いで健全な関係を結べて、一緒にファッションを楽しむ事もできるのでしょう。またC女子のようにおしゃれに関心があるという事は、自分で自分を愛せるまともな人間の証のようなものです。
私は自分は間違った母親に育てられた娘だから自己評価が低く、僻みやすい性格にもなった、などと思っていました。
自分の性格を母親のせいにするなど大人げないのですが、私はどうしても母親が好きになれませんでした。
私は母が嫌いでした。
自分を産み、育てた母親を慕う事ができなくて、私は母を嫌悪する自分を、人として決定的に劣っていると思っていました。
それを僻みやすい性格と同じく、間違った母親の影響でそうなったと考えました。自分のせいじゃないと思う事で、私は救われようとしたのです。
しかし母親のせいにすると、ますます母親が嫌いになります。それがまた新たな短所になって自己嫌悪に陥ると、それをまた母親のせいでそうなったと思い込みます。するとまた母親を憎んでますます嫌いになって……、といった具合に、堂々巡りの負のスパイラルに私ははまっていました。
こんな私が、仲良し母娘 のC女子たちを前にして劣等感を募らせないわけがありませんでした。
礼子さんにも友だちのようなママがいる事は私をさみしくさせましたが、礼子さんのママはC女子たちのママとはちょっと違います。ヘリクツのようですが、礼子さんのママはママといっても、スナックのママでした。
ところで礼子さんは「ママ」と呼んだり「おばさん」と呼んだりして、時々で呼び方を変えますが、「ママ」も「おばさん」も同じ人の事です。
私は最初の頃、礼子さんから「おばさん家 に住んでるの」と聞かされたので、彼女は大阪の親戚の家に下宿していると思っていました。東京にいた頃は「おばさん」と呼んでいたけれど、大阪に来てスナックの手伝いをするようになって「ママ」と呼ぶようになったみたいです。
それでママは(以降、「ママ」と呼称を統一します)私たちが礼子さんの部屋で勉強していると香りのいい紅茶と焼きたてのマドレーヌを差し入れてくれました。
私は週に一度は礼子さんの部屋へ行き、彼女の勉強に付き合いました。
講義中ぐっすり寝てしまう礼子さんの補習です。特に一般教養の英語は一年のフォローも必要だったので、私は一年の時のノートを広げて教えました。
勉強が済むと、ママは私をお店に招待して、夕飯をごちそうしてくれました。まかないつきの家庭教師みたいで、下宿暮らしの私にはおいしいアルバイトでした。
お店はマンションの一階にありました。
スナック「フレンズ」というお店です。
(つづく)
「そのお洋服、素敵ね。どこのブランド?」
と、尋ねた事がありました。
礼子さんは、背は私と同じ百六十センチくらいでしたが手足が長く、細くてしなやかな体つきでした。
服はたいてい白シャツやタートルネックのカットソーなど、よくある定番の服を着ましたが、礼子さんはいつも、どんな服を着ていても自分の気に入ったものを身につけているのがわかります。
礼子さんは尋ねたC女子に、
「どこのブランドかは知らないけど、私の服よ」
と、答えました。
これみよがしにブランド品を身につけるC女子たちに、自分の好みや意思を装いにするのが本当のおしゃれだと礼子さんが返答したみたいで、横にいた私はスカッとしました。あの新入生歓迎会以来、私は彼女たちが身につけるブランド品にもいい印象を持っていなかったのです。
「ママがさ、
と、礼子さんは私にいいました。私が彼女の家へ初めて遊びに行く時の事です。
キャンパスから二駅のところの、駅から続く商店街近くに七階建てのマンションがあって、当時の礼子さんはその最上階にママと二人暮らしでした。
4LDKの贅沢な間取りでした。礼子さんの部屋は、私の下宿のワンルームがすっぽりおさまりそうな広い広い洋室でした。
「
おばさん
がリフォームしてくれたの」と、礼子さんはいいました。
あめ色に光る床にアンティークのシャンデリアが幻想的にうつっていました。天蓋付きのベッドやマホガニーのカウチ、ねこ足のチェストがあって、私は図書館のレーザーディスクで見た『去年マリエンバートで』のホテルみたいだと思いました。
ウォークインクローゼットには洋服がずらりとかけられていました。東京にいた頃におばさんからプレゼントされたストールや帽子もありました。
「
ママ
がすぐに服を買うのよ」大阪に来てから毎週のように二人で梅田や心斎橋へ出かけてデパートで洋服を買っている、と礼子さんはいいました。
洋服を選ぶ時、お互いの趣味の違いからいい争いがはじまりそうになるとママが両方買ってしまう、と、少し困った顔をします。それでもお気に入りの服にはうれしそうに微笑んで、
「これは、
おばさん
が作ってくれたの」と、礼子さんは白いワンピースを見せてくれました。
黄色味がかったスキムミルクホワイトの、手触りのいい生地の服でした。すっきりしまったウエストから軽やかに広がる膝丈のフレアスカートが女の子らしいシルエットのフォーマルドレスです。高校の卒業祝にわざわざ上京したおばさんが、礼子さんを銀座の洋裁店へ連れて行って仕立てた服だそうです。
たくさんの洋服に囲まれた礼子さんを見ていると私はふと、一年の歓迎会を思い出しました。
洋服やバッグやアクセサリーに凝るC女子たちも、ファッションを通してママとつながっているみたいでした。
ジバンシィのニットを着た典子は立派な腕時計をしていました。私が典子の時計に目を奪われていると、
「典子ちゃんの時計、ブルガリなの。素敵でしょ」
と、知美がいいました。「あれ、典子ママのお下がりなんだよ」
さらに知美は理世に、
「今日のイヤリングもママの?」
といい、理世は頷きます。
知美は「理世ママは生粋のシャネラーなの。理世ちゃんのバッグ、ママとお揃いなんだよ」と、羨ましそうにいいます。
理世は、シャネルのチェーンバッグからキティちゃんの化粧ポーチを取り出して、
「でもママはね、口紅とかは買ってくれないの。化粧品はメードインジャパンなの」
と、口をとがらせ、ゲランのコンパクトを開きました。
理世ママだとか、典子ママとかいって、彼女たちの会話に登場する母親は友だちみたいでした。
私は、C女子ほど洋服にもバッグにも関心がありませんでした。実家は祖父の代から続く紙製品の工場で、C女子のように娘にブランド品を買い与えるほど家が裕福ではない事もあったけれど、そもそもファッションに関心がない。自分はどう着飾ってもかわいくないし、高級品を身につけるような価値が自分にはないと思って、つまり自己評価がひどく低かったのです。
そんな私はC女子たちをちゃんとした母親に育てられた娘だと思いました。
ちゃんとした母親なら、娘にまともな愛情を注いで健全な関係を結べて、一緒にファッションを楽しむ事もできるのでしょう。またC女子のようにおしゃれに関心があるという事は、自分で自分を愛せるまともな人間の証のようなものです。
私は自分は間違った母親に育てられた娘だから自己評価が低く、僻みやすい性格にもなった、などと思っていました。
自分の性格を母親のせいにするなど大人げないのですが、私はどうしても母親が好きになれませんでした。
私は母が嫌いでした。
自分を産み、育てた母親を慕う事ができなくて、私は母を嫌悪する自分を、人として決定的に劣っていると思っていました。
それを僻みやすい性格と同じく、間違った母親の影響でそうなったと考えました。自分のせいじゃないと思う事で、私は救われようとしたのです。
しかし母親のせいにすると、ますます母親が嫌いになります。それがまた新たな短所になって自己嫌悪に陥ると、それをまた母親のせいでそうなったと思い込みます。するとまた母親を憎んでますます嫌いになって……、といった具合に、堂々巡りの負のスパイラルに私ははまっていました。
こんな私が、仲良し
礼子さんにも友だちのようなママがいる事は私をさみしくさせましたが、礼子さんのママはC女子たちのママとはちょっと違います。ヘリクツのようですが、礼子さんのママはママといっても、スナックのママでした。
ところで礼子さんは「ママ」と呼んだり「おばさん」と呼んだりして、時々で呼び方を変えますが、「ママ」も「おばさん」も同じ人の事です。
私は最初の頃、礼子さんから「おばさん
それでママは(以降、「ママ」と呼称を統一します)私たちが礼子さんの部屋で勉強していると香りのいい紅茶と焼きたてのマドレーヌを差し入れてくれました。
私は週に一度は礼子さんの部屋へ行き、彼女の勉強に付き合いました。
講義中ぐっすり寝てしまう礼子さんの補習です。特に一般教養の英語は一年のフォローも必要だったので、私は一年の時のノートを広げて教えました。
勉強が済むと、ママは私をお店に招待して、夕飯をごちそうしてくれました。まかないつきの家庭教師みたいで、下宿暮らしの私にはおいしいアルバイトでした。
お店はマンションの一階にありました。
スナック「フレンズ」というお店です。
(つづく)